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春なんて、すぐ終わる「五、夜明け」


五、夜明け


 夜明けは、いつも少し遅れてやってくる。夜明け前の病棟は、海の底みたいに静かだった。東側の窓の向こうには黒い海が広がる。その向こうで観覧車だけは、今も変わらない速さで回り続けている。それまで何度も見かけていたはずなのに、その夜のことだけは、よく覚えている。

「千咲」

 わたしは手袋を外しながら振り返ると、翠さんがパソコンの前からこちらを見ていた。

「休憩行ってきなさい」
「まだ大丈夫です」
「そう言う人が一番使い物にならなくなるのよ」

 翠さんは呆れたように言いながらパソコンへ視線を落とした。仮眠室へ向かう途中、半開きの病室の前で足を止めると、窓際のベッドには、さっき息を引き取った患者さんが横たわっていた。扉の隙間から流れてくる冷気に肩を竦め、空調の温度を下げたのは少し前のわたしだったことを思い出す。
 窓際の椅子には旦那さんが座り、薄手のパーカーの袖へ両手を隠したまま、じっと窓の外を見つめていた。視線の先では、観覧車が夜の海の上を変わらない速さで回り続けている。その横顔は、長い夜更かしの途中みたいだった。
 コールが鳴り、記録をつけ、病室を行き来しながら、わたしたちはいつも通りに働いていた。それなのに病棟のどこかだけ時間が止まってしまったみたいだった。
 窓の外が少しだけ白み始めた頃だった。

「千咲」

 呼ばれた声に振り返ると、翠さんはキーボードから手を離し、机の上の白い封筒をこちらへ差し出した。夜明け前の光はまだ頼りなく、その白さだけがやけにはっきりと目に残った。

「あの人、どこにいるかわかる?」
「葬儀屋さん探さなきゃって出て行ったきりで」
「急で、頭まわんないんだろうね。これ、矢野さんに渡してきて」
「わたしですか」
「誰でも一緒よ。ほら」

 翠さんはそう言うと、画面へ向き直った。キーボードへ置かれた指はしばらく動かず、モニターの白い光だけが静かに横顔を照らしていた。わたしは声を掛けることもなく、封筒を抱えたまま病棟を後にした。背中の向こうで、遅れてキーボードを叩く音が、ぽつん、ぽつんと静かに響き始めた。
 病棟、廊下、ラウンジ、どこにも矢野さんの姿はなかった。仕方なく病院を出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を掠める。東の空はまだ灰色のままで、その明るさだけが少しずつ夜を押し返していた。
 正面玄関の少し脇に、矢野さんが立っていた。後ろで無造作に結ばれていた髪はほどけ、缶コーヒーを片手に持ったまま海の方を眺めている。夜勤明けのわたしより疲れて見えるのに、不思議と悲しそうには見えなかった。滲みだした朝の光が少しずつ海の色を変えていった。

「矢野さん」

 彼はゆっくりと振り返った。目の焦点はどこかへ置き忘れたままで、その視線がようやくわたしへ辿り着く。

「先生からです」

 矢野さんは小さく会釈をして封筒を受け取った。封筒の表へ一度だけ目を落としたものの、中身を確かめようとはしなかった。その白い封筒だけが、夜明け前の薄明かりの中でやけにはっきりと浮かんで見えた。

「死亡診断書の中身、確認してください」

 彼は少し遅れて封筒を開き、「はい。大丈夫です」と静かに頷くと、また丁寧にしまい直した。

「ずっと回ってますね」
「観覧車ですか」
「そう」

 そのあとの会話は、それだけだった。名前のない時間だけがいつまでも髪に残っていて、その夜は、それで終わるはずだった。

「今日は何推し?」
「ベイスターズ」
「昨日は競馬だったじゃん」
「うちは毎日変わるから」

 勝谷さんは笑いながらキャベツを置き、洋平は「相変わらず節操ねぇな」とビールを煽った。煙たい店で他愛もない話をして笑い、終電で帰る。そんな夜を、何度も繰り返していた。

「一本ちょうだい」
「禁煙したんじゃなかった?」
「今日だけ」

 洋平は笑って煙草を一本投げて寄越した。その「今日だけ」は、案外長く続き、気づけばそれが当たり前の日常になっていた。潮の匂いは、忘れた頃にふいに鼻を掠めた。
 終電を逃し、そのまま洋平と朝までクラブで飲んでいた。始発を待つ横浜駅の喫煙所へ立ち寄ると、消えたはずの煙の匂いがまだくすんだまま漂っていた。石畳を叩く鳩の声、自販機の脇に積み上げられた空き缶の山。朝の横浜は巨大なゴミ捨て場のようだった。 何度ライターを擦っても、火花だけが虚しく散り、冷え切った親指は思うように動かずわたしは諦めて手を止めた。
 その時、目の前へ影が落ちた。

「さむ。貸して」

 低い声と同時に、わたしの手元ごとライターを包み込み、細い指でロールをひとつ回した。 見覚えのあるその横顔に、思わず息を止めた。
 ようやく細い火が宿り、煙草の先が赤く灯る。柔らかい髪が頬を掠め、その身体から零れる体温が冷気を押し返していた。肺の奥まで煙を吸い込むと、ようやくまともな呼吸を思い出した気がした。吐き出した煙は雑居ビルの隙間から差し込む朝の光に透け、一瞬だけ金色の糸みたいに見えたけれど、すぐに灰色へ戻って街の空気へ溶けていく。

「ありがとう」
「ん」

 そのまま矢野さんは小さく咳き込んだ。

「眠そう」

 わたしは煙草を灰皿へ軽く落とした。矢野さんは缶コーヒーへ口をつけ、「俺にも一本ちょうだい」と手を差し出した。箱から一本抜き取ると、当然のようにわたしの隣へ移動した。

「久しぶりだね」
「ほんとに」

 煙だけが二人の間をゆっくり流れていく。最後に会った頃より少しだけ痩せた横顔を眺めていると、あの病棟の夜みたいな沈黙だけが静かに戻ってきた。何から話せばいいのかわからないくらいには、時間が経っていた。

「ちゃんと、寝てます?」
「俺?」

 わたしはその横顔を見つめた。今日も矢野さんは、眠っていない人の目をしていた。

「危なっかしく、見えます」

 矢野さんは髪をかき上げると、缶コーヒーへもう一度口をつけた。

「ちゃんと、か。寝てない気がするねぇ」

 煙だけが風に攫われていった。

「少し、寝ませんか」

 返事の代わりに煙草を揉み消すと、最後の煙だけが朝の空気へ静かに溶けていった。横浜の空は思ったよりも明るく、やけに綺麗だった。その朝の光は、わたしの背中を静かに、それでも拒めない強さで押し出していた。
  街には少しずつ光が差し込み、影だけを遠くへ伸ばしていた。その朝の明るさから逃げるみたいに、わたしたちは黙って電車に乗った。  

 眠りについた先に、朝が来る。

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