春なんて、すぐ終わる 「六、最後まで」
六、最後まで
窓へ額を預け、目を閉じると、電車の振動だけが絶え間なく身体へ伝わってくる。隙間風がコートの襟元へ滑り込み、わたしは肩をすくめたまま耳だけを澄ませている。
ガタンガタン、ガタンガタン。
この揺れは、どこか遠くへ行けば、少しだけ軽くなるのだろうか。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、窓硝子に映る頼りない自分の影を、規則正しい震えが静かになぞっていた。
『次は、日ノ出町。日ノ出町です』
アナウンスに顔を上げると、隣で矢野さんが立ち上がった。
「ここ?」
「うん」
「俺も」
ぷしゅう、と重たい音を立てて扉が開き、容赦のない外気が流れ込んでくる。吐き出されるようにホームへ足を下ろした瞬間、背中で発車ベルがけたましく鳴り、急に進路を変えたスーツ姿の人と肩がぶつかった。
「危なっかしい人だねぇ」
矢野さんはわたしの腕を一瞬だけ引き、そのまま歩き出した。ほどけていく指先を目で追っているうちに、いつの間にか一歩先を歩く背中へ、わたしは口を開いていた。
「送って」
「どこまで?」
「最後まで」
矢野さんは何も言わずに歩き出した。
昨夜の酒がまだ眠る街を、大岡川から吹く朝の風だけが静かに通り抜けていた。マンションに着くと、矢野さんは「じゃあ」と言いかけたけれど、その言葉が終わる前に、わたしは鍵を差し出していた。
「困った人だねぇ」
そう言って、彼は笑い、風に揺れた髪がその横顔を少しだけ隠した。
その日は、いつもの「その日」ではなくて、どうしてそんなことをしたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、ひとりで眠る気にはなれなかったし、矢野さんも何も聞かなかった。
部屋へ入ってもしばらく何も話さず、コーヒーを淹れることも、テレビをつけることもなく、朝の光だけがレースカーテンを白く透かしていた。そんな静けさの中で、わたしが「眠い」と呟くと、矢野さんは笑って、「寝る?」とだけ言った。頷いたあと、何が先だったのかは、もう覚えていない。
目が覚めると、矢野さんはわたしの家の床で寝ていた。瞼の裏にはまだ眠りが残っていて、身体を起こした瞬間、何かがおかしいと思った。いつもなら身体のどこかに昨日が残っているのに、それがない。頭の奥で鳴り続けていた疲労感もなく、寝返りを打つたび軋んでいた身体は拍子抜けするほど軽く、ぼんやりとしたまま窓へ顔を向けた。外はもう真っ暗で、ガラスには薄い自分の輪郭だけが浮かんでいる。
一体何時間眠ったのだろう。時計へ目を向けると、針は夜を指していた。
ベッドの端へ腰掛けてそのまま部屋を見渡すと、彼は床のクッションへ頭を預け、長い脚を投げ出して眠っていた。冷蔵庫のモーター音が小さく響き、遠くを走る電車の音が遅れて届く。気づけば昼も夕方も通り過ぎ、そのまま夜になっていた。床で眠る矢野を一度だけ振り返り、わたしは冷蔵庫を開けた。
あの頃の部屋には、生活らしいものがほとんどなく、眠るためのベッドと、小さな冷蔵庫と、読みかけの本だけがあった。部屋はいつも、誰もいないことだけを静かに待っていた。
冷蔵庫を開けると、最後のミネラルウォーターまでなくなっていた。空っぽの棚を見つめ、息を吐く。買わなければ困るものなんて、水くらいしかなかった。
スマホの画面を叩くと、時刻は二十二時四十分。今からなら、近所のコンビニに間に合う。わたしはヨレたパーカーを羽織り、財布だけを掴んで夜の中へ滑り出した。
外の空気は、雨の予感を含んで少しだけ湿っていた。頭上の高架を京急線が通り過ぎ、赤い光が住宅街の窓をひとなでして、またすぐに闇へ溶けていく。わたしはパーカーの袖を少しだけ引き寄せた。
コンビニの自動ドアが開くと、冷房の匂いと一緒に、白すぎる蛍光灯の光が目に刺さった。棚だけが静かに照らされ、夜の街から切り離されたみたいだった。
エナジードリンクやビール。
ミネラルウォーターを買いに来たはずなのに、冷蔵ケースの前でぼんやり缶を眺めていた。
「これ、結構美味しいよ」
不意に上から声が降ってきた。振り返ると、そこには矢野がいた。黒いパーカーに、少し乱れた髪。目の下にはかすかな隈が浮かび、ひどく疲れた顔でこちらを見ていた。
「うわ」
「ひどいな、その反応」
思わず声が出ると、彼は可笑しそうに眉を下げた。その言い方があまりにも自然で、昨日も普通に会っていたみたいな気になる。そんなはずないのに、その距離だけが妙に懐かしかった。
「また、缶コーヒー」
「癖、かな。何買うの」
「水」
「意識高い感じだ」
後ろから作業着を着た人が現れ、避けるように身を寄せた拍子に、矢野は「これ、おすすめ」と棚から缶コーヒーを一本取り、わたしのカゴへぽんと放り込んだ。
「わたし飲まないけど」
「知ってる」
「じゃあ何で?」
「俺の」
その無造作な動作だけが、さっきまで空っぽだった冷蔵庫の続きを、勝手に決めてしまったみたいだった。断る理由なんていくらでもあるはずなのに、わたしはその缶を戻さなかった。
それが最初だったのか、その少し後だったのかは、もう思い出せない。気づけば部屋の中には規則正しい寝息が二つ転がり、それを不思議に思わなくなっていた。
傘を忘れてずぶ濡れで帰ると、部屋には呆れた顔の矢野がいた。
「本当、困った人だね」
笑いながら背中を押され、そのまま浴室へ追いやられる。湯気の中から戻っても、髪を拭くのすら面倒でぼんやりしていると、「貸して」と矢野は手元のタオルをするりと取り上げた。フローリングへ腰を下ろした矢野の前へ引き寄せられ、その膝へ背中を預けると、濡れた髪をわしゃわしゃと拭く手は相変わらず乱暴なのに、そのたびタオル越しの温もりだけが静かに伝わってきた。
「柔軟剤、変えた?」
「うん。ドンキで安かったから」
「ドンキで買ったとは思えない匂いだね」
そういう匂いだけは、いつも先に気づく人だった。冷蔵庫にはいつの間にか矢野の缶コーヒーが並び、洗濯物には見知らぬシャツが紛れ込むようになった。
「帰る」「寝る」「傘を持て」。
そんな取るに足らない言葉だけで、いつの間にか暮らしは出来上がっていた。
「はい、ばんざい」
「それなんなの?」
「脱がせやすい」
「最低」
そう言いながら、わたしはまた素直に腕を上げる。服を脱がせる手は静かなのに、下着へ触れた途端、その優しさだけが途切れた。それでも、矢野の腕の中にいると、理由もなく泣きそうになった。その気持ちだけは、いつまでたってもうまく名前をつけられない。
「矢野」
「なに」
名前を呼ぶと、知らない人みたいで、抱き寄せられると、帰ってきたような気がした。それでも苗字でしか彼のことを呼べなかった。わたしたちの間には、いつも誰かがいた。
「矢野」
声だけが部屋の中に転がり、吐息だけが混ざり合う。抱き合うことには理由があるはずなのに、わたしたちは何も知らないまま肌を重ねていた。何度抱きしめられても、その温もりでは届かなかった。
「千咲」
呼ばれているはずなのに、その声は耳よりも遠い場所で響いている気がしたまま、わたしたちは夜を重ねた。
矢野は時々、何日も姿を見せなくなる人だった。いつ来て、いつ帰るのかも決まっていないのに、眠る場所だけはいつも同じで、そのことだけは疑わず、そんな夜が、この先も静かに続いていくのだと思っていた。
その日も、部屋へ来た矢野は当たり前みたいにソファへ身体を沈めていた。
「おばあさんのお葬式は」
矢野は背もたれへ頭を預けたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
「行かないの」
わたしは化粧ポーチを開け、クッションファンデを頬へ叩き込みながら鏡を覗き込んだ。窓の外はすっかり暗くなっていて、部屋の灯りだけが鏡の中のわたしを白く浮かび上がらせている。
「行かない」
スポンジを肌へ押し当てたまま答えると、矢野はそれ以上急かさなかった。
「別に、仲が悪かったわけじゃないんだけどね」
鏡の中の自分へ言うみたいに、わたしはそう続けた。
「雪さんに会いたいと思わないの」
「会いたいよ」
穏やかな時間ほど、わたしは線を踏み越えてしまう。矢野は天井へ向けていた視線をゆっくりと下ろした。
「千咲」
「ん?」
「なんで俺と一緒にいるの?」
矢野はいつの間にかソファから身体を起こし、まっすぐこちらを見ていた。
「矢野といると、何も見えないの。あなたがどういう人か。わたしが何を考えてるのか。全部ぼやける」
洋平や翠さんといる時には、自分がどんな顔で笑っているのかまでわかる気がした。矢野といると、何を見ていて、どこへ向かっているのかさえ、わからなくなる。気づけば、わたしの輪郭だけが曖昧になっていた。白線の上を歩いている時みたいに、落ちないよう前だけを見ているうちに、景色だけが遠ざかっていく。
どこか、夢の続きを見ているみたいで。
「矢野、雪さんの話全然しないでしょう」
「しないね」
わたしは矢野の方へ向き直った。
「花筏」
そうわたしが呟いたとき、矢野の身体が強張った。わたしは鏡を閉じ、化粧ポーチの蓋を指先で撫でながら、そのまま膝の上へ置いた。
「聞いてたの」
「雪さんを看取ったの、わたしだよ」
言葉はそこで途切れ、矢野を見ていたつもりで、わたしは雪さんを探していたのかもしれない。
「大岡川も」
矢野は何も言わなかった。
わたしはその横顔を眺めながら、春の日のことを思い出していた。屋台の煙が風に流され、子供たちの声が川沿いに反響し、花びらだけが絶え間なく水面を流れていた、あの日のことを。
矢野はあの時、何を見ていたのだろう。わたしはずっと、自分を見てくれているのだと思っていた。ビールを渡してくれる手も、何も言わずに隣を歩く時間も、全部わたしへ向けられたものだと。
今になって思えば、あの日の矢野は、空を斜めに切る飛行機雲ばかり見ていた。その横顔は、あの病室の窓辺で見た横顔と、どこかよく似ていた。
「わたし、雪さんの代わりだった?」
矢野は何も言わず、窓の外をただ見ていた。その沈黙の中で、答えを待っていたのは、わたしの方だったのかもしれない。
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