続・表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由
前回の「表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由」は、想像以上に多くの反響をいただいた。
投稿からわずか2週間で20,000ビューを超え、Xやnote上でも「こういう記事をずっと求めていた」といった共感の声や拡散が相次ぎ、6月中で最も多く「スキ」された記事のひとつにもなった。

何より、反響が“数字”として可視化されたことで、このテーマに対する社会の関心の高さが、改めて浮き彫りになったと感じている。
……とはいえ、まさかこんなに早く“続編”を書くことになるとは。
尊敬してた人が、排外主義の拡声器になっていた
キッカケは、凄い絵を描く方だと尊敬していたあるアニメーターさんが、デマ&人種差別&優生思想をコンボにした扇動型排外系ポピュリストを、推してることを知ったことによる。
アニメは、中国、韓国の労働力抜きでは語れない。それに、彼が関わったアニメに感動してブルーレイやグッズを買って応援してきた中国人も多いはずだ。それなのに、排外主義者への支持を公言するとは…(※現在、該当ポストは削除されている。)
ツラい。何がつらいって、私自身、思春期に彼がアニメーターとして参加した作品を見て育ち、次の作品を楽しみにしていたのだ。
SNS全盛のこの時代、ポストやリポストもある種、表現の一部と化している。
表現には、メッセージを何倍にも増幅させる力がある。使い方を誤れば、差別の拡声器となって、無自覚にヘイトを撒き散らす可能性すらある。だからこそ、何をどう発信するかを判断するための知識が問われる。
改めて表現者こそ、歴史を勉強することの重要性を感じた。
表現と政治:蔦重と歌麿がたどる未来
私はただのイラストレーターだが、そもそも、何故こんな口酸っぱく、表現を仕事にするなら歴史と政治を知っとけと言うのかというと、実際、歴史も政治も全然知らないイラストレーターが、割といるからだ。
例えば、森友学園・加計学園問題のニュースをきっかけにテレビにもネットにも「忖度」という言葉が飛び交ってた時期、たまたま…イラストレーターが集まる呑み会に参加した。話の流れで「忖度すんなよw!」みたいなことを言ったら、「忖度って何?」という反応が返ってきた。
「おっふ」ってなった。
彼らはニュースを、見ていなかった。
江戸時代の浮世絵もそうだが、表現という仕事は、時の政治によって大きく制限される。最悪、お上次第で描きたいものが描けなくなることがある。
大河ドラマの「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」がいい例で、今は蔦重も歌麿も好きなものを作れてるし描けている。だが、田沼意次が失脚して、松平定信が寛政の改革を始めたら、どんどん出したい本も出せなくなるし、描きたい絵も描けなくなる。無理に出して、財産の半分を没収されたり、牢に入れられたり、手鎖50日(50日間手かせをつけられる)の刑を受けることになる。
江戸時代の民衆には、選挙権も、政治参加の手段もなく、「お上(幕府)の命には逆らえない」。主権がないからだ。現代日本のように「主権が国民にある」状況は、明治以降の立憲制度の発展と、特に1947年の日本国憲法施行によって初めて実現したものだ。
ところが、その「国民主権」を否定するような主張をする政治家(例えば、オレンジ色がシンボルカラーの政党とか)が現代にもいるというのは、まさに歴史の逆行。これは非常に重大な問題だ。
イラストレーター界隈の話かと、油断している人がいそうだが、これは、表現を生業にしてる全ての人に言えることだ。
アーティスト、
役者、
声優、
芸人、
漫画家、
文筆家、
イラストレーター、
アニメーター、
フォトグラファー、
映像作家、
YouTuber、
作詞家、作曲家、歌手、
音楽業界、出版業界、広告業界、アニメ業界、
その他諸々、
描きたいものを描きたいやつ、
作りたいものを作りたいやつ、
喋りたいことを喋りたいやつ、
歌いたいことを歌いたいやつ、
そんな人間ほど、歴史を知って政治に敏感にならないといけない。
歌舞伎役者の方々は、天保の改革で、先人がどういう扱いを受けたか思い出してほしい。江戸市中にあった芝居小屋が「中村座」「市村座」「守田座」の3座だけに制限され、残りは取り壊し・移転を命じられた。過激な恋愛や暴力描写、奢侈・風刺・勧善懲悪を逸脱する表現が厳しく取り締まられ、上演許可が降りないケースも増えた。
浮世絵は、役者の追放と同時に、人気役者の浮世絵掲載も禁止。歌舞伎の人気に乗じて浮世絵を売っていた絵師・版元も打撃を受けた。多くの絵師や版元が捕縛・処罰され、一部は筆を折る事態に陥った。
寄席はもともと寺社境内や町中にあり、庶民が集まる空間だったが、天保の改革ではこれが「風紀を乱す」「怠け者を育てる」とされ、
演目の検閲
寄席の移転命令や一時閉鎖
噺家への取締り
などが実施された。
例えが江戸時代てw、と笑う人もいるだろう。
全体主義のもとで、表現は国家の道具に変えられた
では、そこそこ最近の話、“わずか80年前”ではどうだろうか。日本は軍国主義の戦時下で、小説・文学、演劇・映画、漫画・アニメ、音楽、すべて検閲対象になった。表現は国家に管理され、道具へ変えられ、従わない者は処罰された。
① 検閲・発禁処分(出版停止・上映禁止)
発禁処分はもっとも一般的で、「出版はしたが即日回収」「上映は認められなかった」ケースが多くあった。
例:宮本百合子『道標』(1940年)
女性の人権と平和を主題にしたが、「戦意を損なう」とされ発禁処分。
例:伊丹万作『国民の創生』関連
反戦的表現を含むと見なされた映画脚本は、制作段階で検閲官によって差し戻し。
② 拘束・逮捕・起訴(治安維持法・特高警察)
「反戦」「共産主義的」と見なされると、逮捕・投獄の対象に。
例:小林多喜二(作家)
1933年、プロレタリア文学運動の中心人物。治安維持法違反容疑で逮捕後、特高警察により拷問死(検死では全身に打撲痕)。
例:徳永直・中野重治(作家)
プロレタリア文学への関与で、何度も検挙・拘束。中野重治はのちに転向声明を出すが、その背景には「拷問による転向強要」も指摘される。
③「転向」強制と社会的抹殺
逮捕や拘束を免れても、「思想犯」とされれば出版社・劇団・音楽団体から事実上の追放・干されることがあった。
例:村山知義(演出家・作家)
共産党活動で逮捕、獄中で転向し釈放されるも、演劇界では「転向者」のレッテルを貼られ、長らく活動に制約。
④ 手記・言動による「非国民」認定→生活破壊
表現活動だけでなく、発言や記事が「非国民的」とされれば、職を失う/世間からバッシングを受けるなど、生活そのものが破壊される。
例:思想家・南原繁
戦中の「国体明徴」運動に慎重姿勢を示したため、学者としての活動が制限される。
「敵性音楽は禁止」「反戦的な文学は発禁」「映画は国策の宣伝手段」そうして、表現の自由は“戦意高揚”の道具に変えられていった。
自由だったはずの表現者たちは、「国のため」に描くことを強いられ、それを拒むことは「非国民」として排除されることと同義だった。
歴史を学ばない者は、歴史を繰り返す。
「無知は中立ではない」。それはいつの時代も、権力にとって最も都合のいい“沈黙の同意”であり、結果として加担に近い態度なのだ。
だから今、自由に表現したい人ほど、歴史と政治に敏感であるべきだ。表現の自由は、自然に与えられたものではなく、「無数の過去の表現者たちが奪われ、戦い、勝ち取ったもの」だ。
その歴史を忘れたとき、私たちはまた“誰かにとって都合の良い拡声器”になる。“日本人ファースト”“差別される側にも問題がある”といった言葉に、どこか正しさを感じてしまうような空気。それは、ナチや戦前日本のような全体主義の入口になりかねない。
拡声器としての表現の力
あらゆる表現者に伝えたい。
自らの表現には、メッセージを何倍にも増幅させる力があるということを。
その力は、使い方を誤れば、差別や偏見といった危険な思想の“拡声器”となってしまう。
SNSが日常化したいま、差別的な言動をする人物を応援する投稿や、差別発言のリポストひとつが、意図せずヘイトを拡散する行為になりかねない。
だからこそ、私たち表現者には問われている。
何を、どう発信するのか。その判断力を支える「知識」と「想像力」が。
その知識こそが、過去の歴史なのだと思う。
表現を生業にする人は、感受性が豊かな人が多い。極端で扇動的な発言を聞けば、うっかり鵜呑みにして片足突っ込んで、自らの表現力を“拡声器”にしてしまうかもしれない。無論、すべての表現者がそうだとは限らない。むしろ感受性の高さゆえに、違和感を抱き、距離を取れる人が多いのではないかと思う。
だが、過去に表現者が取り込まれた例が少なくない以上、感受性の高さが、時代の空気に“同調”しやすいリスクがあることは無視できない。実際、こうした扇動的な言説に引き寄せられてしまう表現者には、“一定の傾向”があるように感じている。
なぜ「一定の傾向」と言えるのか:
感受性の高さと表現力は密接に関係している
表現者(作家、画家、俳優など)は、他者の感情や社会の空気、自身の内面に対する感受性が高いからこそ、人の心を動かす作品を生み出すことができる。その感受性が“共鳴”に働くこともある
社会的に強い言葉、過激な正義感、煽動的な語り口に、心が強く動かされてしまうリスクもある。共感性の高い人ほど、理屈より感情で動かされる場面も出てくる。歴史的にもそうした事例は存在する
たとえば、ナチス時代のドイツでは、優れた芸術家や知識人の一部がプロパガンダに協力した例がある。日本でも戦時中、多くの作家や詩人が戦意高揚に加担した。
過去に表現者が扇動的な発言に共鳴・加担してしまった事例を挙げる。
① ナチス・ドイツと芸術家・知識人たち
ナチス政権下では、作家や映画監督、音楽家の一部がプロパガンダに協力。
有名な例:映画監督レニ・リーフェンシュタール
代表作『意志の勝利』は、ナチスの美学的プロパガンダ映画として名高く、当時の芸術的表現の粋を極めながらも、ファシズムを称揚する道具となった。晩年に自らの作品がナチスの道具になったことを否定しつつも、その責任を問われ続けた。
一部の詩人や作家(Gottfried Bennなど)は、ナチズムに一時的に共鳴し、後に後悔している。
② 大日本帝国下の「戦意高揚」表現
文学:高村光太郎、斎藤茂吉、菊池寛(終戦後、戦意高揚に加担したことへの反省を示唆する手記も残されている。)など。
絵画:藤田嗣治、小磯良平、川端龍子などが、日本の詩人や画家が国家に協力し、「戦争賛美」や「英霊賛歌」を創作。
彼らは必ずしも信念から協力したとは限らないが、「時代の空気」に呑まれた表現者たちも多い。
歴史的にも心理学的にも、「感受性の高さ」は表現者にとって武器であると同時に、扇動の媒介となるリスクをはらんでいる。だからこそ今、歴史の教訓を学び、思想や言説の構造を見抜く力――それこそが、表現者にとって不可欠な「自由を守るための盾」となる。過去の歴史に学び、そうした言説の背景や構造を見抜き弾き返す防波堤となる力が必要だ。
プロパガンダに利用されないために
歴史を学べば、見抜けるものがある
「伝統」や「愛国」を口にする者が本当に国を良くしたいのか、それともただ支配したいのか。
敵を作って人気を得ようとする政治家の手法の歴史的反復。
「自分だけが正しい」という言説の危うさと、暴力につながるメカニズム。
ナチス・ドイツでも同様に、政権にとって都合の悪い思想や芸術は徹底的に排除された。「ドイツ精神にそぐわない」とされたユダヤ系・左派系作家の著作が、検閲・発禁処分を受け、やがて焚書(ふんしょ)という象徴的な弾圧に至る。1933年5月、大学生たちがベルリンの広場に集まり、「民族精神を毒する書物」として数千冊の本を焼却。
この時燃やされた本の中には、マルクス、フロイト、レマルク、トーマス・マン、ハインリヒ・ハイネなど、世界的に評価された表現者たちの作品も含まれていた。
実際、ハイネ自身が19世紀に書いた言葉に、こんな予言めいた一節がある。
「本を焼く者は、やがて人をも焼くようになる」
— ハインリヒ・ハイネ『アルマンス』(1821年)
ナチは、本を焼いた10年後、人間を焼き始めた。ホロコーストである。思想を排除し、表現を管理しようとする動きは、やがて人間そのものの管理と排除へつながる。それが歴史の示す冷厳な事実だ。
感性の鋭さは、リスクにもなる。表現を生業とするからには、ある程度、感性が鋭くないと成り立たない。そして感性が鋭いということは、「可哀想」「このままじゃダメだ」「国を守らなきゃ」といった情動や不安への訴えに、強く共鳴してしまう危うさも含んでいる。
特に「ビジュアルに訴える言説」や「感情を揺さぶる街宣」には、普段からアンテナを張っているクリエイターほど、反応しやすい側面がある。
そして、その共鳴がどんな歴史的帰結をもたらしたのか――その知識がなければ、知らぬ間に加担してしまう。実際、歴史よりも先に政治的主張に触れてしまい、その偏った世界観のまま発信を始めた結果、歪んだ歴史観を拡散してしまう表現者も少なくない。だからこそ、まず政治より先に、歴史から学ぶ必要がある。
「勉強しない自由」は、他人の支配に直結するのだ。
芸術とプロパガンダ
ナチスは芸術家・建築家・映画監督を大量に抱え、「美」で暴力を飾った
日本の政治体制を強化するために、国民を挙国一致で戦争遂行に動員することを目指した大政翼賛会は、俳優や画家を巻き込み、「国策芸術」を生み出した。
現代「マンガやイラストなど表現者を前面に出した排外運動」は、静かに、しかし確実に進行している。
あなたが描いたその一枚が、意図せず「誰かを排除する物語」の一部になることもある。それを避けるには、歴史に学ぶしかない。
では、こうした表現の抑圧や国家による利用は、過去の話だけだろうか?
実は、現代の民主主義国家においても、表現が圧力を受ける兆しは現れている。
「すでに始まっている」表現の制限──トランプ政権下のアメリカ
極右的キリスト教保守層を支持基盤に持つトランプ大統領の政権下では、芸術や表現に対する冷淡さと、政治的に都合の悪い文化への圧力が強まっている。
国家芸術基金(NEA)などへの予算全廃を繰り返し提案
公共放送や芸術支援制度に対して、「税金の無駄」として資金打ち切りを試みた。批判的なアーティストや俳優への名指し攻撃
俳優のメリル・ストリープ、ロバート・デ・ニーロ、ラッパーのエミネムなどを演説やSNSで「アメリカの敵」扱い。学校や図書館における検閲的な動き
保守系政治家の後押しで、LGBTQ+や人種問題を扱った絵本・児童書が排除される事例が多発。「愛国教育」プロジェクトによる表現の誘導
アメリカの歴史を「偉大なもの」として描く内容に特化した教育と文化の推進。結果、多様性を重視した作品や社会批判的な表現が「反米的」として排斥対象になりやすくなった。
中には、焚書を彷彿とさせるような事件も起きている。2022年、トランプ支持派の保守系教育委員会が主導する地域で、LGBTQ+の若者を描いた本や黒人差別を題材にした書籍が「有害」とされ、公共図書館からの撤去のみならず、象徴的に焼却される様子がSNSで拡散された。
かつてナチスが行った焚書が、「民族精神を毒する書物」を燃やす行為だったとすれば、現代アメリカにおけるこうした動きもまた、「特定の価値観以外は存在を許さない」という危険な思想に通じている。
これらは法的な「検閲」ではないが、政治によって“何が好ましくないか”を空気で示し、表現者を萎縮させるという点で、非常に危険な兆候である。
表現の自由は、何もしなくても勝手に維持されるものではない。
「どの社会でも、どの時代でも、戦い続けてようやく守られてきた権利」である。
だからこそ今、私たちは歴史から学び、
「表現の自由を脅かす空気」に敏感でなければならない。
歴史を学ぶための資料については、前回の記事で触れているので、気になる方はそちらもぜひチェックしていただきたい。
排外主義に走らないようにする5つの基礎
今回の参院選で、「#差別に投票しない」というタグが生まれた。そのシンプルかつ力強いメッセージに、深く勇気づけられたが、しかしまさか、2025年にもなってゼノフォビア(外国人嫌悪)や排外主義が、国政選挙の“最大の争点”になるとは想像もしなかった。
冒頭のアニメーターも、扇動型排外系ポピュリストに傾倒している。表現者であっても、その磁場に引き寄せられる現実がある。
排外主義に走らないようにするには、想像力と共感力を鍛え、他者を“脅威”ではなく“同じ地平の人間”として見る倫理観が求められる。これは、単なる感情論や「優しさ」の話ではない。
歴史を学び、排外主義に抗する力を持つために必要なのは、以下のような知的・倫理的な態度だ。
① 自分の置かれた立場が「当たり前」ではないと知る
「日本人」「多数派」「安定した社会にいる」という状態は、決して“当然”ではない。それは偶然の産物であり、世界ではむしろ少数派かもしれない。だからこそ、被差別者・移民・マイノリティの視点から社会を捉え直す訓練が必要だ。
② 「恐れ」を動機に他者を敵視しない訓練
排外主義の多くは、「恐れ」「不安」「喪失感」から始まる。
だがそこで安易に誰かを敵に仕立てるのではなく、その“恐れ”の正体を見つめ、言語化し、検証する力が求められる。たとえば、「移民が仕事を奪う」という話に対して、統計や実態をもとに検証する視点を持つこと。
③ 「誰かを切り捨てても、社会は良くならない」ことを知っている
歴史を振り返れば、社会は排除ではなく包摂(インクルージョン)によって発展してきた。短期的な不満や不安を「誰かのせい」にしても、社会の持続可能性にはつながらない。長期的な視野と構造的理解が不可欠だ。
④ 「違う」ことを“敵意”ではなく“発見”と捉えられる精神性
異文化との出会いを「怖い」と感じるのか、それとも「面白い」「学びがある」と思えるのか。その違いは、教育、芸術、読書、旅行といった経験によって育まれる。「異なること」は脅威ではなく、社会を豊かにする入り口だという感性が必要だ。
⑤ 「自分も誰かにとっての“異物”になりうる」と思える自己認識
自分が海外に行けば、マイノリティとして偏見の対象になる可能性は常にある。「自分が排除される側になったら」と考えることは、想像力を育てる最も基本的な営みだ。
たとえば第二次世界大戦中、アメリカに暮らしていた日系人たちは、強制的に収容所に送られ、鉄条網の中での生活を強いられた。気温は氷点下から40度近くまで変化し、プライバシーのない粗末なバラックに何年も暮らし、トイレも風呂も共同、食事も給食のような配給制だった。
さらに1943年には、「忠誠登録」と呼ばれる理不尽なアンケートが収容所内で配布された。
「あなたはアメリカ合衆国を支持しますか?」
「あなたはアメリカ合衆国のために戦いますか?」
これらの質問は、アメリカへの忠誠心を立証する内容であり、日系人社会に大きな混乱と分断をもたらした。強制収容所に入れられた日系人たちに、アメリカへの忠誠を誓わせることを目的としていたが、多くの日系人にとって、それは自己のアイデンティティを否定するものであり、深い葛藤を生むものであった。
アメリカ国籍を持つ二世には「本当に忠誠を誓うのか?」と疑いの目が向けられ、一方で、帰化すら許されなかった一世には「日本への忠誠を捨ててアメリカに忠誠を誓え」と要求された。国に属する立場の違いによって、どちらも理不尽な問いを突きつけられたのである。
この質問に「No」と答えた人々は「危険人物」と見なされ、さらに厳しい収容所に移されたり、家族と引き離されたりした。中には、自主的に「日本に帰る」と署名せざるを得なくなった人々もいた。これはまさに、「自分も異物とされる側になりうる」ことを証明している。
そこにいたのは、誰かを傷つけた犯罪者などではない。教師、商店主、農民、学生…ごく普通の市民だった。
「日本人であること」が、ある日突然「危険な存在」へと変わる――。それが“異物として扱われる”ということだ。
そうした歴史を知ることは、「自分が多数派である今この瞬間」が永遠に続くわけではない、という事実に目を向けることでもある。
知識は、剣にも盾にもなる。
排外主義に走る者たちは、しばしば知識を“武器”として使い、都合よく敵を設定し、扇動する。
だからこそ私たちは、「他者とどう向き合うか」という倫理観と想像力を、知識の上に重ねて持たなければならない。
沈黙は中立ではなく加担。意思表示こそが、自由を守る最後の防波堤。
長々と書き綴ってきたが、正直に言えば私のような一介のイラストレーターには、大きな影響力はない。もちろん本音を言えば、国民的アイドルや俳優、大物アーティストのような、影響力のある人が明確に声を上げてくれたらどれだけ心強いだろうと思う。 けれど、だからといって、影響力のない私たちが黙っていていい理由にはならない。
だが、すでに声を上げ始めている表現者たちがいる。
私が確認している限りでも、ゴスペラーズの黒沢薫さんは、差別への強い怒りを公然と表明している。
漫画『映像研には手を出すな!』の作者、大童澄瞳さんも、「差別、排外主義、絶対に許容しない」と明言している。
差別、排外主義、絶対に許容しない。
— 大童 澄瞳/Sumito Oowara (@dennou319) July 6, 2025
そして、朝ドラ『ばけばけ』に出演予定の俳優、円井わんさんもまた、排斥主義に対して明確な反対の姿勢を表明している。
排斥主義反対
— 円井わん Wan Marui (@wanmarui) July 6, 2025
また、「水曜日のカンパネラ」の元ボーカルでアーティストのコムアイさんは、インスタグラムのストーリーズで、オレンジの党について言及したことが記事になっている。
「参政党否定ばっかりしてきたけどさ」「私かなり参政党支持層と近い好み持ってるんだよね」「こんなこと書いたらこっちきなよって言われそうなくらい笑」と切り出した。
「ワクチンなるべく打ちたくないし(子どもの頃からずっと嫌い)」「オーガニック志向だし」「抗生物質も五年に一度くらいしか飲まないし(腸内環境を維持するため)」「国内ではないけど自然出産だし」「日本の伝統文化に誇り持ってるし習ってるし」と参政党と親和性が高い点があることを認めつつ、「わかるよ?わかるけどさ!って気持ち」「でも私にとって、たとえば野菜は在来種食べたいことと日本人ファーストって言えちゃうことは全然話が違う」「外国人やLGBTQを条件付きで受け入れようとする姿勢も差別的で無理!」「新憲法内容も無理なもの多過ぎて吐きそうで省略するけど」と性的少数者や外国人を受け入れる姿勢を見せない参政党にNOを突き付けた。
「政治思想は趣味志向と別で育ててきたものなのかも?と気づく、同じと思ってきたんだけどな?」「ナチスが最初聞こえがよいことで支持を集めたその内容をふわっふわっと思い出すんだよね」「だから無理!ってセンサーが働く」と支持を伸ばす参政党をナチスになぞらえた。
「でも私の周りではこの政治思想と趣味志向の組み合わせの人 結構いると思ってて」「自分でねじれに思うのも変なことだし リベラル側がいろんな人たちを取り込んで来れなかったことを考えないと長期目線では否定ばっかじゃ進めないというか面白くないなと思う」と既存のリベラル政党が広く支持を集められてこなかった点にも言及し、「新党じゃないと無理?」「でもとりあえず批判大事!」とつづった。
と、彼女は明確に「否」を突きつけている。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんも、排外的な空気に危機感を募らせている。
生きるためにコップ一杯の水を求める人々へ、「どこの国の人間だ」と尋ねてから水を配る人はいないだろう。しかし、「日本人ファースト」というキャッチフレーズを、当然のことだと考える人が増えたと感じる。場面は違っても、このふたつの言葉は、精神的な貧しさを表しているという点でよく似ている。
彼らの言葉に、どれだけの人が勇気づけられているだろうか。
表現や声明には、メッセージを何倍にも増幅させる力がある。
だからこそ、使い方を誤れば、差別や偏見の拡声器になり、無自覚のままヘイトを撒き散らす危険性すらある。だが逆に、正しい方向に響かせれば、差別を抑制する拡声器にもなりうる。差別や偏見の発信が“ノイズ”だとしたら、表現者の発信は、それを打ち消す「逆位相」のメッセージになりうる。まるでアクティブノイズキャンセリングのように、空気に流れるヘイトを減衰させる力がある。
その力を持っているのが、私たち“表現者”なのだ。
もし、万が一にもこの先の日本が、かつてのナチス・ドイツや戦前の軍国主義のような道を、再び歩もうとする日が来たとしたら。
そのときになって慌てて声を上げても、もう手遅れかもしれない。
私には、三人の子どもがいる。みんな、まだ幼い。
いつか彼らに「お父さんは、あのとき反対しなかったの?」と問われて、沈黙していた自分を悔やむような未来だけは絶対に避けたい。
今、日本には“黄色の信号”が点っている。
このまま進めば、間違いなく危険な領域に入っていく。
いま、立ち止まって考える必要がある。
表現者として、自由を守りたいなら。
人間として、差別や排除に加担したくないなら。
黄信号で止まれるかどうかが、未来を分ける。
沈黙は、時として「許容」と取られてしまう
日本人は、とかく“空気”に流されやすい。一度、排外主義の流れができてしまえば、一瞬で濁流と化すのではないか――そんな恐ろしさがある。だからこそ、多くのファンやフォロワーを抱える表現者が、「私は差別に反対する」と明言することは、その濁流を止めるストッパーになりうる。
また何度も繰り返すが、「名言しない」という選択は、時として“許容している”と見なされてしまうこともある。
表現という営みは、平和の上にしか成立しない
絵を描くこと、歌を歌うこと、映画を作ること――
それらはすべて、平和で、多様な価値観を受け止めてくれる社会があってこそ成り立つ営みだ。
戦争や排除や差別の中では、自由に想像し、創造することはできない。
だからこそ私は、多くの表現者の方々に申し上げたい。
「我々は、差別を許容しない」
どうか、その意思を明言してほしい。
表現次第で、この世は大きく振れる。
平和を維持できるかどうかは、あなたの意思表示にかかっている。
それでは、長文読んでいただきありがとうございました。
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