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表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由【完全版】ー“空気”を変える力は、あなたの手の中にある

絵を描く人、
文章を書く人、
音楽を届ける人、
動画を作る人、
演技をする人、
喋りで人を楽しませる人、
写真を撮る人、
踊る人、

人間はさまざまな表現をする。
そして、

「表現する」という行為は、それだけで社会と関わることになり、また「表現」という力は、多大なポテンシャルを秘めている。ゆえに、戦争や独裁政権のプロパガンダにも使われてきた歴史を持つ。

しかし、表現を生業とする人間全てが、その威力や、発信することの“社会的責任”に気づいているかというと、そうではない。むしろ、無自覚な層が圧倒的に多く、積極的に無知であることを選んでいる人がほとんどだ。

果たして、それで良いのか。

“ペンは剣よりも強し”

ブルワー・リットン

“敵意ある四つの新聞は、千の銃剣よりもおそろしい

ナポレオン・ボナパルト

“ペンを握るということは、戦いに身を置くということだ”

ヴォルテール

このように“表現”を、“威力”として例えた言葉は数多くある。

“大いなる力には、大いなる責任が伴う”

ベン・パーカー

ご存じスパイダーマンのベンおじさんの言葉として有名だが、例えば一晩のライブで何万人も集めて熱狂させるアーティストの表現力は、ある意味“大いなる力”と言っても過言ではないのではないだろうか。

人の心を“打つ”表現、とはよく言ったもので、表現は、権力者を突く剣になることもあれば、使い方を誤れば人を傷つけるナイフや、大衆を扇動する装置にもなる。言わば“武器”だ。

剣の使い方を知らずにブンブン振り回すのは、危なっかしいことこの上ないが、“表現”という名の剣は、ほとんどの人が感覚で使いこなしている。結果、無自覚に人を傷つけてしまうケースがしばしば発生する。そうならないための取説が “歴史” だったりするのだが、取説を読む人はあまりいない。

そのモヤモヤが一気に噴き出したのが「表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由」と、「続・表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由」だった。

「こういう記事をずっと求めてた。」と公開直後から大きな反響を呼び、おかげさまで、スキの数が2,000の大台に乗り、ビューが31,300を超えた。(10月17日時点)読んでくださった皆様。拡散してくださった皆様。本当にありがとうございます。

しかし、たくさんの方に読まれ、スキをもらい、X、Threads、ブルスカで、コメントやシェアが広がっていく中、ある確信が芽生えた。

「みんな、モヤモヤしている。」


あのnoteは、昨今の情勢に対して抱いていた違和感、個人的モヤモヤを、文章として固形化したものだったが、これだけの反響をいただいたということはみんな言語化していないだけで、同じモヤモヤを抱えていたのではないかと。

加えて、この前後にいくつかの記事を書いたが、一見バラバラのようで、すべて一本の線でつながっているのではないかと。そこで、今回、これらの記事を、再構成と、追記で、一冊の思想の流れとして編み直した完全版にしようと試みた。ただまとめ直すのではなく、大幅に追記した結果、5万字以上になった。(※3章までは無料で読めます。)


✅このnoteで得られること(再構成した理由)

・無料公開した記事を再構成し、全体を一つの流れとして整理
・新たにリード文、注釈、図解例などを追加
・書き下ろし終章「“表現”は未来を変える」はこの本だけ
・有料noteにすることで、新着に押し流されず常に“自分の棚”に置いておける「手元に残る1冊」


このnoteは、表現者と、その表現を受け取る方々のためのnoteだ。同時に、SNSで何かを発信しているすべての人にとっても、自分の手元に置いておきたい“社会の読み方”になっているはずだ。

自分の言葉が、作品が、選択が──
誰かの自由を奪ってしまうことがある。

そんな“厄介な事実”から目をそらさず、
それでも表現を手放さずに生きていくために、8つの章にまとめた。


戦後80年の今年が、新しい戦前にならないように。
どうぞ、ゆっくり読み進めてほしい。
読み終えたとき、あなたの中に一本の“軸”が通っていることを願って。

ウラケン・ボルボックス


第1章|分かりやすいという劇薬

「分かりやすい。」
私が、今までSNSに絵をUPしてきて返ってきた反応で、最も多いのはこの言葉だ。イラストレーターなのに、絵がカワイイとか、この絵好きとかではなく、「分かりやすい」という反応が多いのも果たしてどうかと思うが、実際体感的にこの反応が一番多い。
絵を褒めてほしいのだが、どうしても絵という表現を使って、分かりやすくすることに情熱を燃やしてしまう傾向がある。例えば、2016年に描いたこの図解だ。
アメコミ映画界大人の事情一覧表。

今でこそ、20世紀FOXがディズニーに買収され、一本化されたが、2016年の頃はマーベルコミックスのキャラクターの映像権が、映画会社によってバラバラで、どこがどの権利を持ってるのか、わかってるつもりでも、頭の中ではいまいち整理できていなかった。モヤモヤしていた。

そこで、キャラクターと権利関係を一覧にしたのがこの表だ。

「分かりやすい!」「ようやく理解できた!」「知らなかった!」と様々な反響をいただき、初めて1.2万RT、1.2万イイネまで伸び。今まで感じたことのない脳汁がドバドバ出たのを覚えている。ただ、ハルク単体の映像権はユニバーサルが持っているので、この表も実は完全に正確というわけではない。

この体験から得た一つの教訓がある。

「ヒトは分かりやすいが大好き」だということだ。

人は「分かりやすい」が大好物

ヒトという生き物は「分かりにくい」が大嫌いだ。例え、分かりやすく書かれている文章でも、文字数が多いと反射的に読みたくなくなる。考えさせるものは最初から避けて通る人もいる。

逆に「分かりやすい」は大好物だ。

先日の選挙で議席を伸ばしたオレンジの政党の支持者の多くは、元々選挙に興味がなく、投票にも行ったことがない層だった。政治などという、難しいことは考えたくないし、長い文章は読みたくない。だから、あの政党が打ち出している激ヤバすぎる憲法案を読んでいない。

多くの人が読まずに投票している。契約書を読まずにハンコを押すようなものだ。

(そもそも、あの憲法案の危険性に気づくには、小学校の社会の授業で習った日本国憲法を、何となくでも覚えているという教養が必要だが…)

しかし、そんな彼らに刺さったのが TikTokや、YouTubeに流れてきた「分かりやすい」主張だった。複雑な背景など全部取っ払って、世の中が悪いのは、〇〇のせいだ。という分かりやすい図式。

仕事上、見てくれる人に刺さるようにと、ウンウン唸りながら『分かりやすさ』を捻り出しているので、『分かりやすい』をあのような使い方されることに憤りを覚える。

「分かりやすい」は使い方次第では、非常に有益だが、用法用量を間違えると大変な副作用を招く危険な劇薬なのだ。実際、ナチ党はそのやり方で台頭した。

ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、明確に「大衆は理性的ではなく感情で動く存在である」と見なしており、彼の言動や政策にはその前提が強く反映されている。

大衆は小さな嘘よりも大きな嘘を信じる。
なぜなら、大きな嘘をつける者がいるとは思っていないからだ

ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)

つまり、嘘だろうがデマカセだろうが分かりやすければ、『分かりやすい』が勝ってしまうのだ。事実、先ほどの政党の主張も、事実に基づかないデマカセときている。呆れた所業である。

であるならば、カウンターが必要だ。真っ当さが伝わるもう一方の『分かりやすい』が。

真っ当な「わかりやすさ」とは?

絵の世界で言うと、『分かりやすい』の一つが図解ではないだろうか。例えば、環境省のお仕事で描いたアメリカザリガニの拡散防止に関する一連のイラスト群だ。

条件付特定外来生物に指定されたアメリカザリガニが及ぼす影響、生態、付き合い方、見分け方などを9ページに渡って作成した。

中でも、この「衝撃!アメザリビフォーアフター」は定期的にXでバズっている。条件付特定外来生物であるアメリカザリガニが侵入することによって、水辺がどう変化するのかをイラストと、漫画的なコマ割りで説明したものだ。

バズっているのは、私のアカウントではない。環境省のHPなどから引っ張られた画像が、たびたびSNSで突発的にバズるのだ。写真や文章だけでは伝わりづらい内容が、イラストによって可視化されたことで、何度も拡散される現象になっている。

では、何故この「衝撃!アメザリビフォーアフター」は定期的にバズるのか。それは、



「圧倒的に分かりやすい」からだ。

手前味噌だが、まぁー分かりやすい。アメザリが入る前と、入った後の差が一目瞭然。かつその影響の過程が、漫画風に説明してある。

文章や写真だけだと、とっつきづらい情報も、内容を整理し、簡略化し、イラストにして吹き出しを足すことによってグッと関心を持って読んでもらえるコンテンツに化ける。

逆に「わかりにくい」ものがバズる(支持を得る)のは難しい。そこで必要なのが、伝わらない世界を、イラストで翻訳する作業だ。

絵で社会は変えられるかもしれない

先ほどの、ゲンゴロウ飼育ブログさんのポストのインプレッションは105万なので、多くの方にアメリカザリガニの環境改変能力の危険性が伝わったはずだ。

彼らは日本固有の水辺を一変させてしまう。

アメリカザリガニを拡散させた原因は人間にある。要因は、彼らの危険性を知らなかったという「無知」だ。であるならば、「まず知る」ことによって、多くの問題は事前に防ぎ、また既に発生している問題も、改善に向かわせることができるのではないだろうか。

「無知が、誰かの未来を奪うことがある」

この場合の誰かは、人間に限定されない。自然や生き物も該当する。無知は自然を破壊し、生き物を殺し、人間さえも窮地に追いやる。

例のオレンジの政党が無農薬農法と称して、重点対策外来種であるスクミリンゴガイ(通称:ジャンボタニシ)を田んぼに撒いた。するとどうだろう、スクミリンゴガイは稲を食い荒らした。これもまた無知が招いた結果だ。

侵略! 外来いきもの図鑑 もてあそばれた者たちの逆襲

中身が嘘だろうがデタラメだろうが、人を「分かりやすい」主張で扇動することに長けた無知な政党に、デマを信じてしまった人々が投票し、議席を伸ばしているという悪夢の図式が出来上がっている。なんと恐ろしいことか。

「分かりやすい」は有益だが、使い方を謝れば劇薬に化けるということに、ここで初めて気がついた。

次の章では、なぜ表現に歴史と政治の知識が必要なのか、その根拠を、戦争の時代を通して掘り下げていく。

第2章|表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由

戦争、差別、プロパガンダ──それらの現場に、かならず「表現」が使われてきた。にもかかわらず、表現の力を扱う私たちは、あまりにも歴史を知らなすぎる。

無知が加担になる構造を、過去の実例を交えて明らかにする。

絵を描く人、
文章を書く人、
音楽を届ける人、
動画を作る人、
演技をする人、
喋りで人を楽しませる人、
写真を撮る人、
踊る人、
人間はさまざまな表現をする。

そして、「表現する」という行為は、それだけで社会と関わることになる。

表現がSNSと直結してる現代社会において、表現は、ただの自己発信ではない。歴史や政治と切り離された表現は、時に無意識の加害になる。だからこそ、描く前に知ること、奏でる前に学ぶことが求められる。自由に発信できる時代だからこそ、その自由を支える知識が必要になる。

表現には、メッセージを何倍にも増幅させる力がある。使い方を誤れば、差別の拡声器となって、無自覚にヘイトを撒き散らす可能性すらある。だからこそ、何をどう発信するかを判断するための知識が問われる。

その知識こそが、歴史と政治なのだと思う。

歴史を知らない表現は、無自覚な加害になりうる

アーティストや表現者が歴史的・政治的な文脈を踏み外して炎上するケースをよく目にする。意図的じゃない分、余計に切ない。たぶん本人も、こんなつもりじゃなかった筈なのだ。

だが厳しいことに、今は「知らなかった」が免罪符にならない時代になりつつある。

絵を描くこと。
歌を歌うこと。
映像作ること。
文章を書くこと。

アーティスト、役者、声優、芸人、漫画家、文筆家、イラストレーター、フォトグラファー、映像作家、YouTuber、作詞家、作曲家、歌手、広告業全般 ──数え出したらキリがないが、表現という仕事は、ある意味では「公共に触れる職業」でもある。誰かの心に届くものを作っているということは、それが社会に対して、何らかの“メッセージ”として読まれる可能性があるということなのだ。

だからこそ、自分の作品が、無自覚に差別や偏見、歴史の歪曲やプロパガンダに加担していないかを、自分自身がいちばん意識しておく必要がある。逆に、「あえて何も言わない」ことで、「この人はどんな悲惨なことが起きていても無関心なのか」と受け取られることもある。

例えば、いまガザではイスラエルによって、子供たちが大量に虐殺されている。何のメッセージも発しなければ、それを黙認しているとも取られかねない。「反対すべきことには反対」と明確に示す必要がある。

表現というのは、ほんとうに繊細なバランスの上に成り立っている。

“偉人”を疑うという学び

1年前、あるミュージックビデオが炎上した。「こういう表現はやってはいけません」という事例を豪華舟盛にしたようなMVだった。

コロンブス。日本では“偉人”として扱われがちだが、世界的には“侵略者”や“大量虐殺者”、先住民を奴隷化して搾取を行った植民地主義の象徴として批判の対象になることも多い。

《コロンブスが批判の対象になる理由》
・「新大陸発見」の裏で、すでに暮らしていた先住民の土地を一方的に「征服」した。
・到達直後から、先住民を大量に奴隷化し、金の採掘や労働を強いた。
・抵抗した先住民には拷問や見せしめの処刑を行った。
・食料や資源の収奪により先住民の社会構造を破壊し、疫病の蔓延も含めて人口を激減させた。
・自らの手紙や報告書で、先住民の「従順さ」や「取り扱いやすさ」を強調し、スペイン王室に対して奴隷売買の正当化を図った。

このような背景を知らずに、コロンブスをテーマに無邪気な演出をすると、「植民地主義を礼賛しているのか?」と指摘されるのは当然の流れだ。

しかしこれも、歴史的な背景と、世界史の政治的な文脈を知っていればある程度防げたはずだ。表現をするには、学ぶ必要がある。特に歴史。中でも今の生活に直結している近現代の世界史は重要だ。歴史を知れば、政治の背景が見えてくる。

どうして、あっちでもこっちでも戦争や紛争をしているのか。表現を生業にしている人間こそ、その経緯を知っておく必要がある。

何故か。

表現という仕事は、平和でなければ成り立たないからだ。

歴史を知ることは、炎上を避ける知恵でもある

絵を描いたり、歌を歌ったり、映画を作ったりすることは、平和で、多様な価値観を持った受け手がいてこそ成り立つ営みだ。私自身イラストレーターを生業としているが私がペン先一本で生活できているのも、今のところ日本がある程度平和で、私の絵を許容してくれる人々がいるからだ。

逆に、全体主義や独裁国家では、そういう表現は「プロパガンダ」に取り込まれたり、「禁止」されたりしてしまう。

だからこそ、表現を仕事にする人には、自分が立っている平和という地盤がどういう過程で、どんな構造で出来ているのかを知る必要がある。それはつまり、歴史を学ぶことだったり、政治の文脈を知ることだったりする。

表現とは、ただの自己発信ではない。誰かの心に届き、時に社会の空気を動かし、意図せずして大きなメッセージを発してしまうこともある。とくに今のように、社会が分断と緊張に揺れる時代においては。

絵を描く人も、音楽を奏でる人も、言葉を届ける人も、歴史や政治の文脈を知らずに発信することは、偏った価値観や差別的な構造を無自覚になぞってしまう可能性があり、それは、本人の意図と関係なく、作品そのものが「プロパガンダ」になってしまうことすらある。

これは、表にでるアーティストだけでなく、裏方のスタッフにも言える。例のMVに関して言えば、作り手と意思決定のプロセスで、あの企画を止められるストッパーが何人もいたはずだ。大炎上するまで、誰もあのMVをおかしいと思わなかったのか甚だ疑問だが、もし歴史を知っている人間が責任者にいたら、あの大炎上は起こらなかったかもしれない。

歴史を学ばないと、自由が死ぬ

例えば、歴史を知らなければ、ヒトラーのナチ党が積極的に推奨した優生思想をなぞった発言を、無自覚にしてしまうかもしれない。

優生思想とは、「遺伝的に優れた人間を増やし、劣った人間を排除しよう」とする思想だ。20世紀初頭にアメリカや欧州で広まったが、ナチスはこれを極端な形で国家政策に取り入れた。

結果、「遺伝的に病んだ子孫を防ぐ」という名目で、知的障害、精神疾患、てんかんなどの人々に対して強制断種(不妊手術)を実施する断種法、障害者や精神疾患のある人々を「生きる価値のない命」として安楽死(実質は殺害)する国家プロジェクトT4作戦、「アーリア人」を「優れた人種」として美化し、ユダヤ人、スラブ人などを「劣等人種」として差別・迫害する人種衛生政策など、人権を無視した政策が国家的に行われた。

ソ連では、国家が芸術を「人民のためのもの」と定義し、「社会主義リアリズム」という唯一の芸術様式を強制した。体制に批判的な作家や作曲家は次々と粛清・追放され、芸術は個人の表現ではなく、国家の宣伝手段となった。芸術が“正しい思想”の証明手段にされたとき、創造は死に、自由も死ぬ。

自分の表現が、人の命や自由を奪うことになりかねないのだ。

歴史を学ばないと、繰り返してしまう

歴史を学ぶことは、世界がバッドエンドを迎えないように、先にシナリオを知っておくことに似ている。過去を知らない者は、何度もタイムリープを繰り返す羽目になる。タイムリープせずに済む方法は、「すでに一度あった未来」からの警告を受け取ることだ。

1、過去の過ちを繰り返す

独裁・戦争・差別・弾圧……それらがなぜ起きたのかを知らなければ、同じ状況に置かれたときに抵抗できない。「ナチスの台頭」や「治安維持法の濫用」を知らなければ、自由を奪う法制度が生まれても見抜けなくなる。

2、自由を奪う者の手口が見抜けなくなる

自由を奪う者ほど「大義」や「国益」を掲げる。歴史を学んでいれば、「あ、これは昔にもあった手口だと」と気づける。

3、市民の自由意識が薄れる

自由や人権は「当たり前にあるもの」ではない。血を流して勝ち取ったものであるという歴史的事実を知らなければ、簡単に手放してしまう。

現に、人類は同じような過ち、つまり大量死を繰り返してきた。その悲惨な過去から学んだ者、経験から学んだ者が警告する。だが、老いて死ぬ。過ちを経験したことのない層が実権を握る。そして、また同じ過ちをする。人がたくさん死ぬ。

ナチ党の台頭を例とる。現代の一部ポピュリズム政党や陰謀論系の運動に、過去にナチ党が使用した手法と類似の印象がみられる。

ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は当初、多くの人々に「とんでも政党」「過激で取るに足らない極右集団」と見なされていた。1920年代初頭、ナチ党は小さな極右政党の一つにすぎず、特に知識人層や都市部では「扇動的で下品な連中」という認識で、ヒトラー自身も、長らく「野心家の変人」「一発屋的な扇動者」と捉えられており、真剣に受け取られないことも多く、保守派政治家たちからも軽視されていた。

結果的にこの見誤りが、全権委任法の成立、ワイマール憲法の停止、独裁体制の確立へとつながる。

ナチ党の初期の主張には、突飛で荒唐無稽な陰謀論(「ユダヤ人が世界を操っている」など)や、極端な民族主義が含まれていたため、多くの人々は「まさかこんな連中が政権を取るはずがない」と考えていた。

しかし、不況・失業・共産主義への恐怖・第一次大戦後の屈辱感を、ナチ党自身が意図的に煽りまくった。「ドイツは不当に罰せられた被害者だ」「共産主義もユダヤ人の陰謀」国民の誇り」を取り戻すという名目でナショナリズムを過激に鼓舞し、社会不安のすべてを、架空の「敵」のせいにすることで憎悪を集中させた。

ナチ党は、社会にくすぶる不安や怒りを「見つけて煽った」のではなく、「意図的に作り出して増幅させた」と言って良い。彼らの手法は、恐怖と怒りのマーケティングだったのだ。

また、1960年代の中国では、文化大革命の名の下に「革命的でない表現」はすべて敵視された。書籍や絵画、音楽、演劇は焚書され、伝統芸能は「封建的」として排除された。芸術家たちは自己批判を強要され、沈黙こそが生存手段となった。「正義の名のもとで表現を一色に塗りつぶすこと」が、どれほど危険かを示す典型である。

カンボジアのクメール・ルージュ(ポル・ポト政権)は、「理想の平等社会」を掲げて都市文化を否定し、知識人・芸術家・教師を大量に虐殺した。伝統音楽や舞踊は「反革命」として禁じられ、創造すること自体が罪とされた。
イデオロギーが“純粋”を追い求めたとき、最初に消えるのは多様性と芸術だった。

今日本だけでなく、この流れが世界各国で起こりつつある。絶対に、このような流れを繰り返してはならない。

だが、現代人は歴史という膨大なループのログを読むことができる。攻略本が既にあると言ってもいい。それを無視して未来を選ぶのは、選択肢の意味も知らずに分岐を進み、何度もバッドエンドに行き着くようなものだ。

だが、多くがそのログを読んでおらず、読んでいる他を巻き込みながらバッドエンドに突き進んでいる。学びが必要なのだ。過ちを繰り返さないために。

陰謀論に騙されないために、歴史はワクチンになる

言い換えれば、歴史とは「自由の使用説明書」であり、「警報装置」でもある。哲学者ジョージ・サンタヤーナは言った。

「歴史を忘れた民族は、同じ過ちを繰り返す」

裏返せば、「歴史を学ぶ民族は、自由を守り抜ける」とも言える。

「歴史は繰り返さなさい、しかし、韻を踏む」

「トム・ソーヤーの冒険」で知られる米作家マーク・トウェインの言葉とされる。全く同じではないが、似たようなことはよく起きるという警句だ。歴史を知っていれば、過去と同じような文脈を辿っていないか警戒することができる。
<歴史を学ぶことで得られる自由の防衛力>
・自分の立場を疑えるようになる
・他人の自由も守る視点が持てる
・「空気」や「同調圧力」に流されにくくなる
また、歴史を知っていることは、陰謀論に騙されにくくなるための強力なワクチンになる。

なぜ歴史を知ると陰謀論に強くなれるのか?

1. 似た構造の「過去」を知っているから

陰謀論は「裏に黒幕がいる」「すべてが仕組まれている」といった、魅力的だが単純化された構図を提示してくる。歴史を学んでいれば、「そう単純じゃない事例」がいくつも思い出せるようになる。

例1:「ユダヤ人が世界を支配している」という古典的陰謀論
→ ナチスがそれをプロパガンダに利用し、大量虐殺に発展した史実を知っていれば、警戒心が働く

例2:1923年の関東大震災直後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」といったデマが流れ、民間人や自警団、軍・警察によって多くの朝鮮人が虐殺された(数千人規模とも言われる)。
パニック時に流れる“誰かのせいにしたい”という衝動や、「異分子を排除すれば安心できる」という思考が、集団暴力を正当化する構造を生む。現代の陰謀論とまったく同じメカニズム。

例3:「アメリカの反共パニック(マッカーシズム)|1950年代
「政府やハリウッドは共産主義者に乗っ取られている」
→ 上院議員マッカーシーが証拠のないまま共産主義者の“リスト”を振りかざし、セレブや公務員、大学教授らが次々と「赤狩り」の標的にされた。 国民の「正体のわからない敵への恐怖」が煽られ、“忠誠”を示さない者は排除される雰囲気に。結果として、証拠もないまま社会的に抹殺された人も多く、のちに「魔女狩り」として非難された。

2. 「何度も繰り返された」パターンを知っているから

陰謀論はしばしば「新しい真実」のように提示されるが、実際は歴史の中で何度も姿を変えて現れてきた「古い手口」だ。これらの繰り返しを知っていれば、「また来たな」と冷静になれる。

例1:
14世紀ヨーロッパ(ペストの流行)
 ユダヤ人や異教徒が「井戸に毒を入れた」と非難され、虐殺された。
現代(コロナ禍)
 「ウイルスは人工的に作られた」「特定の国や企業が仕掛けた」などの陰謀論が世界中で広まった。

例2:
1930年代 ナチス・ドイツ
 「ユダヤ人が裏で社会を操っている」「秩序を壊している」という陰謀論が広まり、ホロコーストへとつながった。
現代の日本(SNSや一部メディア)
クルド人に対し、「不法滞在者で犯罪者だ」「乗っ取りを狙っている」などの根拠のない言説がネット上で拡散し、偏見や排外的感情を煽る動きが見られる。

例3:
冷戦期の反共パニック(アメリカ)
 「政府に共産主義者が入り込んでいる」として市民を監視・排除(マッカーシズム)。
現代のQアノン等の陰謀論
 「政治家の中に悪魔崇拝の犯罪者がいる」と主張し、実際に事件化(米議会襲撃など)。

例4:
19世紀初頭 イギリス(天然痘ワクチンの登場):
 ジェンナーによる牛痘ワクチンが広まると、「牛の病気を人に打つなんて危険だ」「打つと牛になる」といった荒唐無稽なデマが流れ、接種を拒否する人が多数いた。
現代(新型コロナウイルスのワクチン):
 「ワクチンでDNAが書き換えられる」「政府が国民を監視するための陰謀だ」といった根拠のない噂や陰謀論がSNSを通じて拡散された。

特定の民族や宗教、国籍を「脅威」と見なして攻撃する構図は、繰り返されてきた。歴史を知っていれば、「このパターンは前にもあった」と気づくことができる。

3. 「知識のグラデーション」が見えるようになるから

歴史を通じて、「100%真実」も「100%嘘」も少なく、複雑な背景や偶然の積み重ねで社会が動いていると知ることができる。そのため、「ぜんぶ裏で操られている!」という極端かつ単純な見方に対して、違和感を覚える感覚が育つ。

例1:太平洋戦争の開戦理由
・陰謀論的な見方:
「アメリカにハメられた」
「石油を止められたから戦争せざるを得なかった」
・実際の歴史を見ると:
資源封鎖は確かに圧力だったが、それ以前に日本が中国侵略をやめなかったことや、軍部の暴走、外交的失策、国民感情の操作など複数の要因が絡み合っていた
→ 白黒では割り切れない複雑な意思決定と背景があった。

例2:大政奉還と明治維新
・陰謀論的な見方:
 「薩長が幕府を裏切ってクーデターを起こした」「イギリスの操り人形だった」
・実際の歴史を見ると:
 幕府側も改革を模索していたし、朝廷も絡んでいた。薩摩・長州にも内部で意見の分裂があり、外国勢力との関係も一枚岩ではなかった。
誰か一人が仕組んだのではなく、多数の利害と偶然が交錯した結果として歴史が動いた。

歴史を学ぶと、世界はグレーでできていると気づく。陰謀論が提示する「悪いやつ vs 操られる人々」という構図は、あまりにも雑だ。歴史の動きは、あたかもピタゴラスイッチのように。

・誰かが落としたビー玉
・何気なく立てられたドミノ
・何の関係もなさそうなレールの接続
など、無数の偶然や行動が連鎖している。
歴史を学ぶというのは、「なぜこのスイッチが作動したのか」「どこで転倒したのか」「なぜ次の装置が動かなかったのか」を考えることだ。つまり、単純な黒幕探しではなく、構造と連鎖を理解することなのだ。

4. リテラシーが育つ

陰謀論のすべてが荒唐無稽なわけではない。実際に、かつては「陰謀論」として扱われながらも、後に事実と判明した例も存在する。

たとえば、ウォーターゲート事件、CIAによるMKウルトラ計画、アメリカのタスキギー梅毒実験などだ。だがそれらは、証拠、証言、内部告発などに基づいて明らかになった“検証可能な陰謀”だった。

一方で、現代の多くの陰謀論は、証拠のない主張や“信じたい物語”によって広まりやすい構造にある。だからこそ、どの情報が信頼できるのか、誰がどの立場から語っているのかを見極める目が重要になる。
歴史を学ぶことで、「どの情報が信頼できるか」「誰が何の立場から語っているのか」といった視点が身につく。それは陰謀論への耐性だけでなく、現代のフェイクニュース政治的プロパガンダを見抜く上でも重要な力となる。
歴史を「断片」でなく「文脈」で捉える習慣が、思考のリテラシーを鍛えてくれる。

例1:ナチスと映像プロパガンダ
1930年代のナチス・ドイツは、映画やポスターを通じて「ユダヤ人=敵」「ヒトラー=救国の英雄」と描いた。これらは当時の最先端メディア戦略だったが、多くの市民はそれを「中立の事実」として受け取っていた。
→ 歴史を学べば、「映像や言葉は誰かの意図で構成されている」という視点が持てるようになる。

例2:近年のSNSと戦争報道
現代では、X(旧Twitter)やYouTubeで戦争の映像や証言が瞬時に拡散されるが、それが加工・編集されたものだったり、出どころ不明なケースも多い。
→歴史の中で「情報がどう使われ、どう信じられたか」を学んでいれば、「この発信はどの立場からのものか?」という視点が自然と働く。

例3:「テレビや新聞は嘘だが、YouTubeは本当だ」という思い込み
「マスコミは嘘ばかり。テレビは信用できない。でも、YouTubeやSNSには“本当のこと”がある」という主張を目にすることがある。しかし、YouTubeにも政治的意図・ビジネス目的・視聴数稼ぎなど、情報のバイアスや演出は当然ある。映像で見せられると信じやすくなるが、それが「客観的事実」であるとは限らない。
→ 歴史を学ぶことで、「メディアの裏にある意図」や「発信者の立場」を考える習慣が身につき、「誰が何のために語っているのか?」という視点が養われる。

例4:ソ連の社会主義リアリズムと検閲
930年代、スターリン体制下では芸術・文学すべてが「党の理想を美化するもの」でなければならず、抽象画や私的表現は「堕落」とみなされた。反体制的な作家は収容所送りにされたり、命を落とすこともあった。
→ 「美しい絵」「感動的な文学」も、権力に奉仕させられるとき、それは自由を奪う道具になりうる。

例4:中国のネット検閲とプロパガンダ映像
中国政府はSNSや検索エンジンの情報をリアルタイムで監視・削除し、「政府に都合のよい物語」を優先的に広めている。映像やAI技術を使って若者向けに“愛国アニメ”を制作・拡散するなど、娯楽とプロパガンダの融合も進んでいる。
→「見ていて心地よい情報」や「かっこいい愛国映像」も、誰が作り、何の目的で広めているのかを問う視点が必要。

「テレビはウソ、YouTubeは本当」という単純な対立構造に引っかからないためにも、“情報の成り立ち”を疑う訓練が必要だ。そしてその訓練は、歴史を学ぶことでこそ得られる。歴史は、情報がどうつくられ、どう信じられてきたかの記録でもある。

ナチスや日本の戦時体制、そしてポル・ポト政権のように、思想の左右を問わず「絶対的な正義」が登場するとき、表現はプロパガンダに変わりやすい。だからこそ、歴史を知ることで「どんな思想でも、力を持てば暴走しうる」ことに気づけるようになる。

歴史の学びが、メッセージを読み解く鍵になる

また、学びがあれば、作品の中に込められた象徴やメタファーを読み解くことができる。逆に、自分の作品に、それを織り込むことで、直接的ではない方法で強いメッセージを伝えることもできる。
手前味噌で恐縮だが、この章のサムネイルも、何も知らなければ、潰れて飛び散った「ただのスイカ」にしか見えないかもしれない。しかし、背景にある歴史や文脈を知っている人には、それが発する“静かな叫び”のようなものが見えてくる。
赤・緑・白・黒の組み合わせは、パレスチナの国旗の色だ。

第三次中東戦争でイスラエルがヨルダン川西岸地域、ガザ地区、東エルサレムを占領すると、イスラエル当局はヨルダン川西岸地区とガザ地区でパレスチナの旗を使用することを非合法化した。 そこで、パレスチナ人たちがイスラエルを欺くために闘争のシンボルとしてスイカを用い始めた

スイカは、パレスチナ人のアイデンティティを示す抗議行動や芸術作品における公への表現の象徴であり、パレスチナ領域のイスラエルによる占領に対する苦闘と抵抗を表している。
学びがあれば、何故昨今のSNSにスイカのアイコンが並ぶのかその歴史とメッセージの重なりを知ることができる。(もっとも、ただスイカが好きという人もいるが。)

補足:スイカは黒人のステレオタイプの側面も持つ食べ物である。奴隷解放後、黒人たちはスイカを育てて生計を立てたが、それに反発した白人が「怠惰で貪欲」と嘲る風刺画を流布し、蔑視の象徴となった。同様にフライドチキンも、20世紀中ごろまで、「南部の黒人奴隷の食べ物」という偏見の目で見られた。たとえ善意や好意であっても、アメリカの文脈において人の客にスイカやフライドチキンを出すことは、人種差別的なステレオタイプを想起させる恐れがあり、無意識の差別(マイクロアグレッション)と受け取られる可能性がある。

歴史を先に学ぶ意義

表題では、「歴史と政治を学んだ方がいい」と言っておきながら今までずっと歴史を学ぶ意義ばかりを唱えてきた。政治は歴史の文脈上にある。歴史を先に知れば、何故いまその政治に至ったのかが自ずと見えてくる。だが、逆に政治から入ると、その政治が極右的だったり、差別主義だった場合、歴史を曲解しかねない。

以下にまとめる。

1、政治の土台には歴史的文脈がある

現代の政治制度、思想、対立構造、外交関係などは、すべて歴史的な経緯を踏まえて成立している。 たとえば、日本国憲法の成立には、戦後の占領政策や大戦の反省が不可欠だ。

2、事実と解釈を見分けるリテラシーが育つ

歴史を丁寧に学ぶことで、ある出来事を「どう語るか(解釈)」と「実際に何が起きたか(事実)」を区別できるようになる。これにより、政治的な主張(ときにプロパガンダ)に対しても、冷静な判断ができる素地ができる。

3、歴史が政治利用されるリスクを見抜ける

歴史を知らないまま政治的言説に触れると、「都合のよい歴史観」に染まってしまう危険がある。特に極端な思想(極右・極左問わず)は、過去の出来事を恣意的に解釈して自己正当化する傾向がある。

表現と政治は、親和性が高すぎる

現と政治は、本質的にとても親和性が高い。なぜなら、どちらも「人々の感情に働きかける言葉やイメージ」を扱う領域だからだ。だからこそ、表現はしばしば政治に“利用”される。本人がそのつもりでなくとも、結果的にプロパガンダの一部になってしまうことがある。

逆に、ヒトラーの演説スタイルは過剰な身振り手振り、間の取り方、声の抑揚のつけ方など、非常に演劇的でドラマチックだった。芝居がかっていたのだ。そのため、ナチ党が台頭する前の時期や国外の一部の批評家たちからは、「大げさすぎる」「俳優の真似事」として冷笑されることもあった。

とはいえ、こうした「芝居がかった」演出が、実際には多くの民衆に強い印象を与え、大衆操作の効果を高めていたことも事実だ。まさに、“見せる独裁者”としての象徴的スタイルだったとも言える。

表現者は歴史を学び、「免疫」を持っておく必要がある。そうでなければ、無知ゆえに自らの表現が、知らず知らずのうちに政治的な意図を補強してしまうという危険すらある。
しかも現実には、政治や思想の側から表現に“擦り寄ってくる”ことすらある。まるで善意に見える言葉や、魅力的なテーマ(郷土愛、教育、家族、国の誇り)で誘い、水面下でイデオロギーや歴史観を刷り込む。歴史に無自覚な表現者は、気づけばその思想の「媒介者」となってしまう。
実際、過去には多くの表現者たちが、知らずに政治に利用された事例がある。以下に、いくつかの歴史的実例を挙げてみたい。

《表現が政治に利用されたケース》
① ナチス・ドイツと映画『意志の勝利』
1935年、リーフェンシュタール監督の記録映画『意志の勝利』は、党大会を記録したドキュメンタリーでありながら、その映像美と演出でナチスを「英雄的」に描き出した。本人は「芸術としての映像美」を追求したと語っていたが、結果的にナチスのイメージ戦略を決定づけるプロパガンダ映画となった。“芸術は中立”という建前が、政治と結びついたときの危うさを象徴する事例。

② 日本の戦時下の「翼賛芸術」
1940年代、日本でも「大政翼賛会」などの体制下で、演劇・小説・漫画・映画・音楽などが「国策」に従属する形で発信された。たとえば、人気漫画家が戦意高揚を目的とした戦争賛美漫画を描いたり、有名作家が戦争を正当化する小説を発表した。彼らの一部は戦後、「知らなかった」「強制された」と弁明したが、結果的に表現が国民を戦争へと導く装置として機能した。

③ 現代日本の右派系SNS・YouTubeとイラスト文化
現代においても、右派思想や歴史修正主義と親和性のある表現が、SNSや動画プラットフォームを通じて広がっている。「かっこいい日本」「誇れる国」などをテーマにしたイラストやアニメ風の映像が、無自覚にナショナリズムの補強に利用されることもある。ときに「政治性がない」「愛国心はいいこと」といった“無色の言葉”で包装されるが、その背景にある歴史観や政治性を見抜くには、やはり歴史の学びが必要だ。

では、政治から先に学ぶとどのようなリスクがあるのだろうか。

政治から先に学ぶリスク

政治の言葉は、しばしば「共感されやすい正論」の形をしている。たとえば、「自国を誇ろう」「教育を立て直そう」「日本の未来は日本人で決めよう」といったフレーズ。これだけ聞けば、誰もが「それは正しい」と思ってしまう。だが、上記の表現は「日本人ファースト」的なナショナリズム文脈と非常に親和性が高い。
問題はその言葉の背景にある文脈だ。

1、イデオロギーに先に染まりやすい

政治的な思想は、「こうあるべきだ」という価値判断が前提にあるため、感情に訴える力が強く、共感しやすい傾向がある。

たとえば、近年注目されている一部の新興政党は、「教育」や「健康」「日本の誇り」といった共感を得やすい言葉を掲げ、政治への関心が薄い層にも訴求力を持っている。しかしその一方で、ワクチン陰謀論や歴史修正主義、排外的なナショナリズムといった過激な主張が混在していたり、組織的な同調圧力や“信者化”とも言える強い帰属意識が見られる点で、カルト的な性質を帯びているようにも見える。

政治を先に学ぶ(あるいは触れる)ことで、こうしたイデオロギーを「良さそうな言葉」だけで受け入れてしまい、背後にある歴史観や価値観に気づかずに引き込まれてしまう可能性がある。表面上の「正論」やキャッチーなスローガンに引き寄せられるだけでなく、その内側にある価値観や構造を冷静に見つめる視点が、ますます重要になっている。

安倍晋三元首相と旧統一教会の関係も同様だ。保守的な家族観や反共思想を共有する中で、政治と宗教が接近し、その接点が見えにくくなっていた。もし、信仰や政治の背後にある歴史的な背景を知らなければ、私たちは

・もっともらしいことを熱く語る人
・耳ざわりのいい正論を強く訴える人
・信念のように聞こえるセリフで共感を集める人

に無批判に賛同してしまう危険がある。

SNSでは、アルゴリズムによって「自分が見たい意見」や「気持ちよくなれる主張」が優先的に表示される。たとえば、「日本はもっと誇りを持つべきだ!」「移民は治安を悪化させる!」といった投稿に先に触れてしまえば、それが事実かどうかを検証する前に「そうだよな」と感情的に共感してしまうことがある。そこにナショナリズムや不安を煽る要素が加われば、さらに偏った視点に引き込まれやすくなる。

かの、アインシュタインはナショナリズムを、しばしば次のように語ったと伝えられている。

“Nationalism is an infantile disease. It is the measles of mankind.”
ナショナリズムは幼児病だ。人類のはしかだ。

過剰な国家への忠誠心や排他的な愛国心が戦争や対立を引き起こす原因になると考えていた。特に、第一次世界大戦や第二次世界大戦の時代背景の中で、ナショナリズムが軍国主義や人種差別と結びつき、破壊的な結果をもたらすことを強く懸念していた。

大切なのは、どんな主張や理念であっても、その背景にある歴史や構造を知った上で、自分の意思として判断することだ。

2. 歴史的因果関係を無視しやすい

歴史的背景を知らないまま政治を語ると、「なぜその制度があるのか」「なぜそういうルールになっているのか」といった背景に目が向かない。

制度や社会の仕組みには、過去の失敗や反省が反映されている。たとえば、憲法九条は、かつての戦争と軍国主義への反省が形になったものであり、生活保護制度は戦後の極貧状態を背景に整備されたものだ。

しかし、こうした歴史を知らずに政治から学ぶと、制度を「今この瞬間の感情」や「政治家の言葉」だけで評価してしまう。

たとえば、一部の新興政党やその支持層のあいだでは、「国民を守るには軍備が必要」「今の憲法はアメリカの押しつけ」といった主張が聞かれる。これも一面的な歴史理解の上にある意見だ。戦前の国家神道や教育勅語的な価値観に言及する動きもあり、背景を知らないまま受け取ると、気づかぬうちにかつての過ちを繰り返す論理に同調しかねない。

生活保護制度に対して「働かない人に税金を使うな」という批判がある。背景を知らなければ、制度の本来の意義や必要性を見誤ってしまう。

3. 歴史の歪曲・否認に鈍感になる

極端な政治思想に触れると、歴史的事実が恣意的に解釈されたり、あるいは否定されたりすることがある。それに対して「おかしい」と感じられるかどうかは、歴史の知識があるかにかかっている。

例えば、「南京事件は捏造だ」「慰安婦は自発的だった」など、歴史修正主義的な発言がネット上には日常的に流れており、そこに初めて政治の関心を持った若者が触れると、「それが事実」と思い込んでしまう可能性がある。

安倍政権時代、教育勅語や道徳教育の強化、戦後レジームからの脱却という言葉が繰り返されたが、これらの政策も過去の歴史との連続性を無視して語れば、危険な意味合いを持つ。

このように、歴史を先に学べば、政治的立場にかかわらず「冷静に考える軸」を持つことができる。政治に関心を持つことは、とても大切だ。しかし、その前に知っておくべきなのは、「どうして今の社会がこうなったのか」という歴史の積み重ねなのだ。

とくに現代のように、SNSやYouTubeで断片的な政治的メッセージが溢れる社会においては、「歴史に裏付けられた視野」を持つことは、民主主義を健全に保つためにも重要だ。
歴史を知らずに政治に触れると、
極端な主張に引きずられ、
歪められた歴史を信じ、
そして自分の立ち位置さえ見失ってしまう。

誰かの言葉に乗っかる前に、
誰かの思想を信じる前に、
まずは、自分で歴史を学んでみる。

そして忘れてはならないのは、自国の加害の歴史を直視する勇気だ。戦争や差別の加害者であったという過去に向き合うことは、決して自国を貶めることではない。むしろ、過ちを認め、教訓として未来に活かす姿勢こそが、真に誇れる社会を築く礎となる。

歴史を先に学び、土台を築いてから政治を考えることが大切なのだ。

※この内容は事実関係に基づいていますが、特定の政党や人物を中傷する意図はありません。むしろ、市民一人ひとりが自分の目で歴史と政治を見つめ直すことの重要性を伝えるための文章です。

じゃあ、どうやって学べばいいの?

しかし、「よーし、じゃあ歴史勉強しよっと!」と、いきなりYouTubeやTiktokを開くと虚実ないまぜ(むしろ虚多め)な極右系・陰謀論系の“歴史系”チャンネルがポッカリ口を開けて待っていたりする。本当にたちが悪い。
なので、個人的にはこういうところから入るのをおすすめしたい

  • NHK『歴史探偵』

  • NHK『知恵泉』

  • NHKスペシャル『映像の世紀』

  • BSプレミアム『英雄たちの選択』

  • Eテレ『ダークサイドミステリー』

  • NHK『フランケンシュタインの誘惑』

長々読ませておいて、結局NHKかあああーい!という批判の声が、一部から聞こえてきそうだが、これらはエンタメ要素もありながら、しっかりと史実に根ざしていて、「歴史っておもしろい」と思わせてくれる良質な番組たちだ。陰謀論に対する“耐性”も育ててくれる。NHK以外のテレビや動画番組もある。

● テレビ東京『世界ナゼそこに?日本人』
● Netflix『ヒトラー(原題:Hitler – A Career)』
● YouTube「COTEN RADIO(コテンラジオ)」
もちろん、本を読むことも必要だ。

歌う前に学ぼう、描く前に振り返ろう

ナチスの宣伝映画も、文化大革命のポスターも、そして日本で「地上の楽園」と呼ばれた北朝鮮への幻想も、すべては“正義”や“希望”の名のもとに現実を塗り替えた試みだった。表現はいつも、信じたい物語と結びつき、時にその力で人を盲目にする。

表現とは、自由であると同時に、社会とつながる行為だ。だからこそ、過去を知らずに発する言葉や作品が、無意識のうちに加害や歪みに加担してしまうことがある。しかし、歴史を知れば、見える世界は変わる。怒りの背景が、痛みの理由が、伝えるべき真実が見えてくる。

学ぶことは、表現を縛るのではなく、守り、強くする。

文章、絵、音楽、映像、その影響力で世界が変わった過去の実例がある。表現とはそれほど大きな力なのだ。だからこそ、表現者は、感性と知性の両輪で走るべきだ。

「描く前に振り返る」「歌う前に学ぶ」──
それは、言葉を社会に届けるすべての人が持つべき基本姿勢なのだ。

伝えたいなら、まず知ろう。
届かせたいなら、まず学ぼう。

それが、表現を生きる者の覚悟だと思う。「正しそうな言葉」に流されず、自分で考え、選び取る。その姿勢こそが、これからの時代に必要なのではないか。

過去の歴史を知ることで、表現の危うさが浮かび上がってきた。では、現代社会で私たちはどのような場面で“加担”してしまっているのか。次章では、現実の政治状況と私たちの沈黙がどう結びついているかを見ていく。

第3章|続・歴史と政治を学んだ方がいい理由

“If you are neutral in situations of injustice, you have chosen the side of the oppressor.”
(不正義の状況で中立であるなら、あなたは抑圧者の側を選んだことになる)

Desmond Tutu(デズモンド・ツツ)

南アフリカの反アパルトヘイト運動を指導した聖職者デズモンド・ツツの言葉だが、言い換えればこういうことだ。

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