表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由|全体主義とプロパガンダの罠
表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由
去年、「表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由」という記事を書いた。その後、新聞で紹介されたりと想像以上に多くの方に読んでいただき、続編や完全版まで書いてしまった。
あれから約一年。現状は昨年よりもはるかに危機的な状況になっているという感触を覚える。そんな危機感の表れか国会前や全国で何ヶ月も反政権デモが開催されている。この状態は明らかに異常である。総理がろくに国会に出席しない。こんな国会は見たことがない。
去年は「差別」や「排外主義」を中心に書いた。しかし、この一年で、私の危機感はさらに強くなった。
歴史を振り返ると、その先に待っているものが見えてくる。独裁と全体主義である。
この記事のポイント(読む時間がない方向け)
表現という仕事は、平和と表現の自由があって初めて成り立つ。だからこそ、表現者は歴史と政治を学ぶ必要がある
自由や人権は、無関心や沈黙によって失われることがある。
ナチス・ドイツや戦前の日本をはじめ、権力は時代や国を問わず、表現を利用し、ときに弾圧してきた。
歴史を学ぶことで、全体主義やファシズム、プロパガンダの危険な兆候を、現代社会の中から読み取れるようになる。
自由や人権は、ある日突然すべて奪われるのではなく、「国家のため」「安全のため」といった言葉のもとで少しずつ制限されていく。
民主主義は、選挙で多数を取れば終わりではない。 言論、報道、司法、少数者の権利、そして市民が声を上げ続けることによって支えられている。
デモは民主主義に反する行為ではなく、民主主義を機能させるための正当な意思表示である。
表現者が歴史と政治を学ぶことは、自分の表現を権力や差別の道具にしないためであり、表現の自由を守るためでもある。
ファシズムや全体主義は、完成してから反対しても遅い。自由や人権を制限する兆候が見えた段階で、歴史を根拠に考え、声を上げることが必要である。
表現という仕事は、平和でなければ成り立たない
絵を描く人、
文章を書く人、
音楽を届ける人、
動画を作る人、
演技をする人、
喋りで人を楽しませる人、
写真を撮る人、
踊る人、
人間は様々な方法で表現をする。
表現という行為は、
平和と自由があって初めて成立する。
だからこそ私は、表現者ほど歴史と政治を学ぶべきだと思っている。右か左かの話ではない。保守かリベラルかの話でもない。問題はもはやそれよりはるかに低次元な、学ぶ姿勢や知識の有る無しという領域で生じている気さえしている。
「表現する」という行為は、
それだけで社会と関わることになる。
このSNS時代においては、
表現を享受し、それを伝播する者もまた同じことが言える。
しかし、そういうことを言うと、政治とか全然わからないからという声が返ってくる。確かに、各党の主張や立ち位置や、そもそも三権分立や国会の仕組みなど、義務教育で習っていてもよく理解していない人は少なくない。
実際友人に、衆議院、参議院なぜ二つあるのかわからないと言われて驚いたことがある。逆に、私はスポーツに全く興味がないので、セリーグ・パリーグの違いもよくわからないし、日本シリーズで何をやってるかも理解していない。
だが、スポーツと政治の大きな違いは、政治は国民の生活に直結しているということである。国民である我々は、国に税金を納めており、状況次第では戦地に送られたり、家族が路頭に迷ったりする。まさに、
「パーソナル・イズ・ポリティカル」
(The personal is political)
個人的な経験や悩みは、社会の構造や政治のあり方と深く結びついている。
政治の仕組みがよく分からなくても、近現代史を知れば、現在の政治がなぜこの形になったのかが少しずつ見えてくる。政治は歴史から切り離されたものではなく、過去から続く制度や対立、選択の積み重ねだからだ。
学校の歴史で習った出来事や、大河ドラマで描かれる物語の多くも、過去の政治の話である。本能寺の変も、単なる裏切りや謎の事件ではない。権力、軍事、主従関係、統治をめぐる、れっきとした政治の出来事だ。
歴史と政治を知れば作品に奥行きが生まれる。そういう意味でも、歴史を学ぶことは表現者にとってプラスでしかない。
善人の恐るべき沈黙
表現には、メッセージを何倍にも増幅させる力がある。使い方を誤れば、無自覚にプロパガンダを撒き散らす可能性すらある。だからこそ、何をどう発信するかを判断するための知識が問われる。
権力を批判して炎上する俳優、
権力に阿った言動で炎上する芸能人、
どうせ炎上するのであれば、黙って静観していれば良いと言いたいところだが、歴史にはこんな言葉がある。
「私たちは常にどちらかの味方をする必要がある。中立は抑圧者を助けるものであり、犠牲者を助けるものではない。沈黙は苦しめる者を励ますだけで、苦しめられている者を決して励まさない」

アウシュヴィッツの生存者であり、人権活動家でもあったエリ・ヴィーゼルのノーベル賞受賞演説の一節である。「中立」や「沈黙」を決め込むことは、結果的に強い立場にある悪(抑圧者)をサポートすることになってしまう、という現実を鋭く突いた言葉だ。
同様の言葉を、アメリカ公民権運動の指導者であるキング牧師も残している。
「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の恐るべき沈黙である」
どうせ炎上するのであれば、黙って静観していれば良い。だが感の良いファンはそれすら見ている。
独裁・全体主義・ファシズム・プロパガンダとは何か
歴史を振り返ると、多くの独裁政権や全体主義体制は表現へ介入し、芸術や映画、音楽、新聞などをプロパガンダに利用してきた。これらは同じような場面で使われる言葉だが、意味は少しずつ異なる。まずは、その違いを整理しておきたい。
ファシズム、全体主義、軍国主義、独裁主義は混同されがちだが、それぞれ指しているものが違う。
イメージとしては、
全体主義は「国家と社会の関係」、
ファシズムは「政治思想」、
軍国主義は「国家運営の優先順位」、
独裁は「権力の持ち方」
を表す言葉である。
そのため、歴史上はこれらが重なり合って現れることも多い。例えば、ナチス・ドイツはファシズムを掲げ、全体主義的な国家を築き、独裁体制のもとで軍国主義を推し進めた。戦前の日本も、軍国主義を基盤としながら、全体主義的な統制を強めていった。
ざっくり整理すると、
全体主義=どこまで支配するか
ファシズム=どんな思想で支配するか
軍国主義=何を最優先する国家か
独裁=誰が支配するか
という違いになる。
◎全体主義(Totalitarianism)
支配の深さ(社会のあり方)
「国家が個人の生活をどこまで支配するか」
国家が政治だけでなく、人々の思想・教育・芸術・報道・宗教・私生活にまで介入し、社会全体を統制しようとする体制である。
「何を考え、何を描き、何を歌うか」まで国家が決めようとするため、表現者は統制の対象となる。
個人の利益よりも、国家(あるいは国家が定義する共同体)の利益を絶対視し、そのために思想や教育、芸術、報道などあらゆる分野を国家に従属させようとするのが特徴である。
主な例
アドルフ・ヒトラー政権(ナチス・ドイツ)
ヨシフ・スターリン政権(ソ連)
毛沢東政権(文化大革命期の中国)
ポル・ポト政権(民主カンプチア)
戦時下の日本(大政翼賛体制・検閲・治安維持法など)
政治思想は違っても、
検閲
言論統制
教育統制
芸術統制
という点では、非常によく似た特徴を持っている。
みなみに、高市総理が過去に著した憲法論について、憲法学者の木村草太氏は、
「自分の憲法では国民の権利をもっと制限しやすくするのだということが書かれている。つまり、国民の権利を政府が制限しやすいのが理想の国家だとおっしゃっている」
と評している。
◎ファシズム(Fascism)
特定のイデオロギー(思想・運動)
「どのような思想(イデオロギー)に基づいているか」
強い国家と強い指導者を中心とする、強烈な国家主義・民族主義・軍国主義を掲げる政治思想・政治運動。
特徴は、
国家第一
民族主義
軍国主義
個人より国家
民主主義への不信
もともとはベニート・ムッソリーニがイタリアで築いた政治思想を指す。「ファシズム」の語源は、古代ローマの『ファスケス(fasces)』である。ファスケスは斧のまわりに木の棒を束ねたものであり、国家の権威や結束の象徴とされていた。ファスケスの象徴的意味は「統一による力」で、1本のロッドは簡単に壊れるが、束になると容易に壊せないことに由来する。ムッソリーニはこの象徴を採用し、『強い国家のもとで国民が一つにまとまるべきだ』という思想を掲げた。ここから『ファシズム』という言葉が生まれた。
こうしたことから、ファシズム研究の第一人者で、ヒトラーの我が闘争を翻訳した政治学者五来欣造は、ファシズムの日本語訳として「結束主義」を提案してる。
主な例
ムッソリーニ政権(イタリア)
ナチス・ドイツ(ファシズムの一形態とされることが多いが、人種主義や反ユダヤ主義など独自の特徴を持つため、「ナチズム」と区別して論じられることも多い。)
◎軍国主義(Militarism)
国家運営の優先順位(国家の目的)
「軍事を国家運営の最優先に置く考え方」
軍事力を国家の中心に据え、外交、経済、教育、文化までも戦争遂行や軍事目的に従わせようとする思想・政策である。
軍国主義国家では、学校教育は愛国教育へ傾き、芸術や映画、音楽、新聞も戦意高揚や国民動員のために利用されるようになる。
特徴
軍事を国家運営の最優先事項とする
愛国教育を重視する
軍隊の政治的影響力が強い
戦争を国家発展や国益の手段として肯定しやすい
表現活動も戦争遂行のために利用される
主な例
戦前・戦中の日本
ナチス・ドイツ
大日本帝国陸海軍体制
軍国主義は必ずしも全体主義や独裁と一致するわけではない。しかし歴史上では、全体主義やファシズムと結びつき、プロパガンダを通じて国民を戦争へ動員した例が数多く見られる。
◎独裁主義(Dictatorship)
権力の持ち方(支配のシステム)
「一人、または少数の人間に権力が集中する政治体制」
民主的なチェック機能が弱まり、一人の指導者、または少数グループが国家権力を独占する政治体制。
主な例
フランシスコ・フランコ政権(スペイン)
アウグスト・ピノチェト政権(チリ)
多くの軍事政権
独裁だからといって、必ずしも社会全体を統制するとは限らない。経済や治安維持には強く介入しても、芸術や文化への統制は比較的限定的な政権も存在する。
◎プロパガンダ(Propaganda)
人々の考え方や感情を、特定の方向へ導くことを目的とした情報発信。
必ずしも「嘘」を意味するわけではない。
事実を編集したり、都合の悪い情報を隠したり、恐怖や愛国心を利用したりすることで、人々の判断を一定方向へ誘導する手法である。
歴史上、多くの独裁政権・全体主義国家では、
映画
ラジオ
新聞
ポスター
イラスト
漫画
音楽
などが積極的に利用された。近年では、このリストにSNSや動画配信サービス、生成AIも加わっている。
興味深いのは、新しいメディアが登場するたびに、その影響力に対する社会のルールや法整備よりも先に、政治的な情報戦や世論形成に利用されてきたことである。
ラジオが普及するとナチスは国民向け受信機を大量に普及させ、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは演説やニュースを通じて世論形成を行った。テレビ時代には映像が政治家のイメージを左右するようになり、現在ではSNSや動画配信サービス、生成AIが新たな情報空間となっている。
メディアは変わっても、「新しい情報技術がまず政治利用され、その後に社会がルールを整えていく」という構図は、歴史の中で何度も繰り返されてきた。
ゲッベルスは、映画やラジオ、新聞などを駆使して世論形成を行い。戦時下の日本でも、大本営発表や国策映画、戦意高揚ポスターなどが制作され、ソ連では社会主義リアリズムが公式芸術とされ、中国の文化大革命では革命歌や革命演劇が思想教育に利用された。
一方で、プロパガンダは独裁国家だけのものではない。第二次世界大戦中のアメリカでも、政府は映画やポスターを通じて戦争協力を呼びかけ、ウォルト・ディズニー・スタジオは軍や政府の依頼を受け、訓練映画や戦時公債の購入を促すアニメーションなどを数多く制作した。
民主主義国家でも戦時にはプロパガンダが行われる。しかし、全体主義国家との決定的な違いは、「国家に協力しない表現を選ぶ自由」が残されているかどうかである。
歴史を振り返れば、多くの表現者が国家と向き合う選択を迫られてきた。
ナチス・ドイツでは、映画監督のレニ・リーフェンシュタールが『意志の勝利』などを制作し、ヒトラー政権を象徴するプロパガンダ映画を世に送り出した。
日本では、画家の藤田嗣治が《アッツ島玉砕》などの「戦争記録画」を制作し、戦意高揚の役割を担った。藤田自身は戦後、「戦争画を描けと言われれば描くしかなかった」と苦悩を語っている。
一方で、チャーリー・チャップリンは『独裁者』によってヒトラーを痛烈に風刺した。表現は権力の道具にもなれば、権力を批判する武器にもなる。
だがナチスを批判した芸術家は「退廃芸術」として作品を没収され、展示を禁じられ、国外へ亡命した者も少なくない。
つまり、表現者は
権力に協力するか
沈黙するか
抵抗するか
という選択を、歴史の中で何度も迫られてきたのである。
全体主義国家では、国家に協力しない表現を選ぶ自由そのものが失われ、表現者は宣伝に加担するか、沈黙するか、処罰されるかという状況へ追い込まれる。この違いは大きい。
戦前の日本。
ナチス・ドイツ。
ソ連。
文化大革命下の中国。
このような現象はファシズム国家に限らず、スターリン体制、文化大革命期の中国、ポル・ポト政権など、右派・左派という思想の違いを超えて繰り返されてきた。
方法は違っても共通している。
自由な表現は独裁者にとって邪魔だからだ。
自由に描かれる絵。
自由に書かれる文章。
自由に歌われる音楽。
それらは、人に「考える力」を与えてしまう。だから権力は、自由に表現することを望まない。
「(権力にとって)正しい表現」
だけを残そうとする。
表現がSNSと直結してる現代社会において、歴史や政治と切り離された表現は、時に無意識なプロパガンダへの加担になる。自由に発信できる時代だからこそ、その自由を支える知識が必要になる。
その知識こそが、歴史と政治なのだと思う。歴史を学ぶことは、単に過去を知るためだけではない。自分の表現が何に利用され、何を守ろうとしているのか、今と未来を生きるために、自分自身で判断する力を身につける術でもある。
全体主義は、いきなり始まらない
全体主義は、ある朝突然やって来るものではない。少しずつ始まる。
「国のため」
「治安のため」
「秩序のため」
「子どもたちのため」
耳触りのいい言葉から始まる。
そして、
敵を作る。
不安を煽る。
メディアを籠絡する。
歴史を書き換える。
表現を管理する。
この流れは、何度も歴史が繰り返してきた。
だから歴史を学ぶ。
歴史とは、
同じパターンを見抜く学問だからだ。
歴史はOS、政治はアプリ
昨年の記事にもまとめたが、政治の前に、歴史をインストールする必要がある。考え方の基盤として、歴史的事実・前例を知っていれば、政治がおかしな動作をしようとしていたら、それはおかしい。と指摘することができる。なので、政治家によっては自分のやりたい政治のために、都合よく歴史を改変しようとする。さながら、アプリのインストールをきっかけにOSを書き換えようとするウイルスである。
歴史的事実を知っている強固なOSであれば簡単に書き換えられることはなく、むしろ「この構図、知っている」と対処することができる。
「安全のため」という法律が、表現を縛るまで
すでに2026年5月には、内閣総理大臣を議長とする「国家情報会議」を設け、内閣情報調査室を「国家情報局」へ格上げするための国家情報会議設置法が成立した。同法は、外国による情報活動だけでなく「影響工作への対処」も国家情報会議の所掌に含めている。政府はこれを情報機能強化の第一段階と位置づけ、スパイ防止関連法についても本格的に議論する方針を示している。
問題は、
何を「外国による影響工作」とみなすのか。
誰がそう判断するのか。
その権限を誰が監視するのか。
という点である。
「普通に暮らしている人には関係ない」
「危険なスパイだけが対象になる」
そう説明されれば、安心する人もいるだろう。しかし、歴史を知っていると、そこで立ち止まらざるを得ない。
戦前の治安維持法も、1925年の制定当初は、共産主義運動などによる「国体の変革」と私有財産制度の否認を取り締まる法律として始まった。だが、その後は改正と拡大解釈を重ね、宗教者、労働運動家、学者、作家、芸術家、学生などへ対象を広げていった。
北海道旭川では、学生たちが本を読み、語り合う日常風景を描いた菱谷良一さんが、その絵を「共産主義的な会話の証拠」と決めつけられ、逮捕された。
当時19歳である。
暴力や脅迫を伴う取り調べを受け、極寒の留置場と刑務所に計1年3か月拘束され、学校も退学処分になった。彼が描いたのは、軍事機密でも政府転覆の計画でもない。
一枚の日常の絵だった。
治安維持法が制定されたとき、多くの市民は、自分には関係のない法律だと思っていたはずだ。菱谷さん自身も、周囲から「いずれ自分たちにも累が及ぶ」と警告されながら、
そんなことあるわけがない。
と考えていたという。しかし、法律の線引きを行うのは、取り締まられる側ではない。権力を持つ側である。歴史を知るとは、
違う名前、違う大義、違う時代の装いをまとった制度の中に、過去と似た構造がないかを見抜くことである。
全体主義は、「空気」から始まる
法律による規制より先に、あるいは法律と並行して、表現を縛るものがある。
空気である。
「こんなことを描いたら叩かれる」
「仕事がなくなる」
「空気を読め」
実際に禁止されていなくても、人は自分から描くことをやめる。独裁とは、人々が互いを監視し、権力者の意向を先回りして忖度し、表現者が自ら口を閉ざす社会全体の問題でもある。
歴史を学ぶ意味は、まさにここにある。
ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、映画、ラジオ、新聞、ポスターなど、当時あらゆるメディアを利用し、人々の感情を動かした。
「プロパガンダの秘訣とは、狙った人物を本人がそれとはまったく気付かぬようにしてプロパガンダの理念にどっぷり浸からせることである。」
ゲッベルスが語ったプロパガンダの秘訣である。
プロパガンダは 人々を説得し
ある考えに駆り立てることができれば良いのである
大衆とは 弱く 臆病で 怠惰な人々である
アイデアがシンプルで
日常生活に関連していればいるほど
それをみんなに伝えたいという欲求が高まっていく
一人一人がそれを大衆に広めるなら
我々の世界観が国家を乗っ取る日が来るだろう
ゲッペルスは嘘と憎悪で塗り固めたプロパガンダ映画を次々と制作し国内外に撒き散らした。目的は、人々を力で従わせることなく。人々が、自ら進んで従う空気を作ることだ。
当時の社会民主党機関紙『ドイツ通信』は、ナチスについてこう分析している。
ナチスが活発な活動をいたるところで展開しているのは、
本当の共同性やどんな形をとるにせよ
自発的な結びつきが一切生まれないようにするためである
民族同胞を把握し 彼らを野放しにせず
そしてできる限り彼らが正気に戻らないようにしているのだ
つまり、人々が一人で考える時間を奪い、常に同じ情報に浸し続ける。現代で言えば、SNSや動画サイトのアルゴリズムによって、似た意見ばかりが流れ続ける状態にも、通じる部分がある。
先の自民党総裁選や、衆院選では、TikTokやYouTube、SNSに高市陣営から大量にデマや印象操作の動画が投稿されたと報道されている。イイねを大量発生させるスマホ農場なるものの存在も報道されている。
カルビーの白黒ポテトチップスは、一時的に「絵を描いて楽しむキャンバス」としてSNSで広まった。
もちろん、それ自体は自由な創作活動ではある。しかし、その白黒になった理由──印刷インク不足や、その背景にあるナフサ供給の問題──が忘れ去られ、「非常時を楽しむための商品」とだけ受け止めるのは、あまりに楽観的で、事態の本質を見誤っているように思えてならない。
歴史や政治を学ぶとは、「なぜそうなったのか」という背景まで考える習慣を持つことでもある。
ゲッベルスは、武器よりも先に「人の心」を支配しようとした。彼が目指したのは、人々を無理やり従わせることではない。自ら進んで従うように仕向けることだった。
高市政権を批判する俳優が叩かれ、高市政権に阿った言動をする芸能人が叩かれ、それとは全く関係なくただただ人道的な平和活動に興味をもった芸能人が叩かれる。一年前は極々当たり前で、むしろ当たり前すぎでちょっと笑えるくらいの意味合いだった「戦争反対」「世界平和」という言葉すら、なんだかちょっと発言するには勇気のいる空気が漂っている。
デモの意味と、機能していないメディア
国会前を埋め尽くすペンライトの光の波、さながら抗議と怒りのエレクトリカルパレードである。海外メディアは先んじてこれを世界に報じ、日本の大手メディアもようやくこれを報じ始めている。しかし、当の高市総理が抱えている経歴詐称、統一教会との繋がり、選挙戦での誹謗中傷動画大量拡散など、様々な問題についてはほとんど追及してない。
先の対戦中、もはや日本史に残ることは、ほぼ確定なほど国がズタボロの状態なのに、大手メディアが全然報道しないどころか、政府の虚偽や言い分をそのまま垂れ流していたというのは、それこそ歴史を知れば前例があることである。
今はどうであろうか。NHKは他国のデモは報道するが、国会前のデモはろくに報道しない。皇室典範改正案の国会中継では、日本共産党の塩川議員の「なぜ女性ではダメなのか なぜ、男系男子にこだわるのか。」という重要な質問がなされたあと、木原官房長官がしどろもどろになり始めたら、天気予報になってしまった。質問の順番をNHKの中継切れるタイミングに持ってきてるんじゃないかと、邪推したくなるほどの露骨なタイミングで中継が切れた。
そもそもNHKの役員人事や経営をめぐっては、過去の政権(特に安倍政権や菅政権)において首相官邸の意向が強く反映されているとメディアや国会で度々議論されている。つまり、NHKの報道は政府の問題を指摘する世論としての独立性が担保されていない。
他にも、放送事業者が許認可(電波利用権)を握られていることから、過去の政権において以下のような「報道への圧力」や「人事への介入」が指摘・問題視されてきた。
高市早苗総務相の「電波停止」発言 (2016年)
放送法が定める「政治的公平」をめぐり、高市総務相(当時)が、一つの番組でも極端に偏った内容であれば放送法違反にあたる可能性や、違反を繰り返す放送局に対して「電波停止」を命じる可能性に言及した。これにより、メディア側に政権批判を控える「萎縮効果」が生まれたと批判された。
放送法解釈をめぐる総務省の内部文書 (2023年公表)
安倍政権当時、首相補佐官らが総務省に対し、放送法の「政治的公平」の解釈を変更し、政権に批判的な番組(TBS『サンデーモーニング』など)を取り締まるよう圧力をかけていたとされる行政文書が公開された。
報道番組キャスター・スタッフの降板
テレビ朝日『報道ステーション』において、政権を批判していたコメンテーターの降板や、政権に対して厳しい姿勢をとっていたチーフプロデューサーの異動などが行われた際、これが事実上の「政権批判に対する粛清」や「官邸からの圧力」によるものだと野党やメディア関係者から追及された。
皇室典範改正案やら、 改正個人情報保護法やら、高市政権発足から約9か月。この国の軸にあったものが、ガタガタと崩れていく音がする。天皇といえば憲法で定められた国民の象徴である。今上天皇の実子である愛子様には天皇になる権限がなく、赤の他人とも言える親戚なら天皇になれる。そんなことが罷り通るのか。このまま行けば、2026は日本が終戦以降再び全体主義へ歩み出した年として、将来日本史のテストに出る年になるのではないかと危惧している。(そのような言論が許されていればの話だが)
高市総理は、経歴を詐称して政治家になり、対立候補の誹謗中傷動画を流して総裁選に勝ち、2月に必要のない解散をし、今度は野党の誹謗中傷動画を流して自民党を大勝に導いた。こんなペテンまがいのことがまかり通っていいのだろうか。
しかし、ゲッベルスの映画「世界に告ぐ」( 1941年)にこのようなセリフがある。
世界はすぐに忘れる
嘘も何度も繰り返されれば
最後には信じられるようになるのだ
俳優、脚本家、アーティスト、著名な方々やクリエイターの方々がこの政治はおかしいと声をあげ始めている。本当に手遅れになる前に、1人でも多くの人がこの空気はおかしいと発する必要がある。その可視化がデモである。
デモが今と未来を変えた事例
デモの話題になると、
「デモでは何も変わらない。」
「変えたいなら選挙で勝て。」
そんな冷笑的なコメントが少なからず寄せられる。しかし、それは歴史の事実とは一致しない。デモは万能ではない。すべてのデモが成功するわけでもない。それでも、歴史を振り返れば、デモや抗議運動が政治や社会を動かしてきた例は多数存在する。
たとえば、アメリカの公民権運動である。
1963年、キング牧師らが主導したワシントン大行進には約25万人が参加し、「I Have a Dream」の演説は世界中に知られることとなった。この運動は、その後の1964年公民権法や1965年投票権法の成立を後押しする重要な転機となった。
1965年のセルマからモンゴメリーへの行進も同様だ。平和的なデモ隊に対する暴力が全米に報じられ、世論を動かし、投票権法制定への大きな契機となった。
近年でも、
バングラデシュでは学生デモが首相退陣につながった。
ケニアでは抗議運動を受けて増税法案が撤回された。
スリランカでは大統領が辞任した。
韓国では市民の抗議が戒厳令への反発を可視化し、大統領弾劾へとつながった。
もちろん、これらはデモだけで実現したわけではない。
世論、報道、司法、議会、選挙、
さまざまな要素が重なった結果である。デモはピタゴラスイッチの装置の一部でしかないが、そのボールのいく末を変えるかも知れない要素の一つである。なので、「デモでは何も変わらない」という主張もまた、歴史とは一致しない。
「変えたいなら選挙で勝て。」
この意見もよく見かける。もちろん、選挙は民主主義の根幹である。しかし、民主主義は投票箱だけで成り立っているわけではない。
請願、署名活動、言論、報道、集会、そしてデモ。
これらはすべて、市民が政治に意思を伝えるために認められている手段である。選挙は数年に一度だが、政治は毎日動いている。だからこそ、市民も毎日意思を表明できる。
デモは選挙を否定するものではない。
選挙を補完する民主主義の仕組みなのである。
この夏各地でデモが開催される。いつどこでどんなデモが開催されているか知ることができるデモカレンダーというサイトがある。
最後に、ナチス抵抗運動のリーダーとなり強制収容所に監禁され、生還したマルティン・ニーメラー牧師の言葉を引用したい。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、
私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、
私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、
私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、
誰一人残っていなかった。
私は、政治家でも、評論家でもない。
それでも、描けるもの、書けるものがある。
だから描き、書く。
子どもたちが、「何を描いたか」で怯えなくていい社会を残すために。

それでは、長文を読んでいただきありがとうございました。
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