和ろうそくの炎
あらすじ
熊本県水俣市に暮らすトシは、夫が逝ってから十七年、毎晩仏壇の和ろうそくに火をつけて話しかけてきた。帰省した孫の美咲に「寂しくないの」と問われ、トシは静かに答える。「じいちゃんの文句が聞きたい」
いとしい煩悩(ぼんのう) その二「執着」
仏壇の前に座るのは、毎晩八時と決まっていた。
夕飯の片づけが終わって、風呂を済ませて、湯上がりの体をタオルで拭いて。それから薄い綿の部屋着に着替えて、仏間に入る。座布団の位置を少し直して、正座する。膝がもう長くは持たないから、最近は片膝を崩すことも多い。それでも座る。毎晩。
地元産の和ろうそくに火をつけるのは、指先の感覚が覚えている。
マッチを一本取り出して、箱の側面で擦る。最初の一擦りで火がつかなくても、慌てない。二度目でつく。炎がろうそくの芯に移る瞬間、すこし大きく揺れて、それから落ち着く。その揺れ方が、トシの好きなところだった。

「あんた、今日も暑かったね」
トシは夫の写真に向かって言った。
写真の夫は笑っている。生前に娘が撮った一枚で、縁側で西瓜を食べているところだった。種を飛ばそうとして口をすぼめているから、少しおかしな顔になっている。それがかえって良かった。仏壇の写真というのは、たいてい改まった顔をしているものだけれど、トシはこの写真がいいと言って譲らなかった。

夫が逝って、十七年になる。
孫の美咲が帰省したのは、お盆の少し前だった。
福岡で働いていて、年に二、三度しか顔を見せない。来るたびに少し大人になっていて、来るたびに少し遠くなっていく気がする。それでもトシには、美咲が小学生のころ膝の上で眠った重さが、まだ体のどこかに残っているような気がした。

その夜も、トシはいつも通り八時に仏間に入った。
マッチを擦って、火をつけて、座る。
「おじいちゃん、美咲が来てるよ。太ったって言ったら怒るから言わないで」
くすりと笑いながら言った。そういうことを夫に言うのが、トシには楽しかった。夫は笑って聞いているだろうと思う。返事はしないけれど、聞いている。十七年、そう思ってきた。
廊下で足音がした。
襖が細く開いて、美咲が顔をのぞかせた。
「おばあちゃん、まだ起きてたんだ」
「毎晩この時間はここにおるよ」

美咲は入ってきて、トシの隣に座った。しばらく二人で炎を見ていた。和ろうそくの炎は、細くて、よく揺れる。エアコンの風に揺れて、また戻って、また揺れる。
「ねえ、おばあちゃん」と美咲は言った。「毎晩やってるの、これ」
「うん」
「十七年」
「うん」
美咲はすこし間を置いた。言おうか言うまいか考えているのが、トシには分かった。
「もうやめたら、とは言わないけど」と美咲は言った。「寂しくないの。毎晩一人で」
トシは炎を見たまま、少し考えた。
「寂しいよ」と言った。
美咲が顔を向けた。
「寂しいけどね」とトシは続けた。「一人じゃないんだよ」
美咲は何も言わなかった。
「あんたのおじいちゃんはね、口の悪か人でね。わたしが何かするたびに文句ば言うとった。魚の焼きが甘かとか、味噌汁が濃いとか、洗濯物の畳み方が違うとか。五十年、ずっとそれよ」
「それは……大変だったね」
「大変だったよ」とトシは笑った。
「そのくせ、出された料理はきれいに食べてくれる人でね、よほどの好物が出た人の食卓みたいに完食しよらした。」
トシは続けた。
「ただね、今となっては、死んだらなんも文句言わんごとなったでしょ。それが、かえって寂しかと」

炎が揺れた。
「文句が聞きたかと?」
「文句ば聞きたか」とトシははっきり言った。「おかしかね」
美咲はしばらく炎を見ていた。それから静かに言った。
「おかしく、なか」
その夜遅く、トシは床の中で天井を見ていた。
眠れないわけではない。ただ、すぐには眠れない夜というのがある。美咲が隣の部屋にいる気配がして、それがなんとなく温かかった。
執着というのは、みっともないことだろうか、とトシは思う。
十七年、毎晩火をつけてきた。誰かに言われてやっているわけではない。やめようと思ったこともない。ただ、やめる理由が見つからなかった。夫がそこにいる気がして、話しかけたら聞いている気がして、それで一日が終わる気がして。
みっともなくても、いい。
トシはそう思うことにしていた。

翌朝、台所に行くと、美咲がもう起きていた。
「おはよう」と言って、それから「おじいちゃんに話しかけてきた」と言った。
「何て言ったと?」
美咲は少し照れた顔をした。「太ったって言わんでね、って」
トシは笑った。肩が揺れるくらい笑った。
窓の外で、不知火の海が朝の光を受けて、静かに光っていた。

この物語は、熊本県水俣市に生きる人々の「愛しい煩悩(いとしいぼんのう)」をひとつずつ描く連作短編シリーズです。次回は「煩悩その三」をお届けします。

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視点の落としもの
いとしい煩悩シリーズ(第一部 全八話)
水俣の町と、不知火の海と、ここに生きる人々の「いとしい煩悩」。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
それぞれの物語へのリンクはこちらです。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
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