甘夏(あまなつ)の午後
あらすじ
熊本県水俣市に暮らす春子は、毎年甘夏をむくたびに、二十三年前に別れた男のことを思い出す。幸せな今があっても、水俣駅を北へ去った夜行列車のテールランプの赤だけが、今も体のどこかに残っている。
いとしい煩悩(ぼんのう) その五「未練」
甘夏をむくときは、まず皮に爪を立てる。
指先に力を入れると、表皮が裂けて、白い綿の層があらわれる。その下に果肉がある。房を一つずつ丁寧にはがして、薄皮ごとそのまま口に入れる。甘さの中に、かすかな苦みがある。その苦みが、春子には好きだった。

毎年この季節になると、甘夏をむく。
そして毎年この季節になると、賢一のことを思い出す。
―――
賢一と別れたのは、二十三年前だった。
理由は単純だ。賢一が東京に行くと言い、春子は水俣を離れられなかった。それだけのことだ。どちらが悪いわけでもなかった。ただ、向いている方向が違った。

最後に会ったのは、三月の終わりだった。
賢一は「落ち着いたら連絡する」と言って、連絡してこなかった。春子も、しなかった。
その翌年の春、春子は今の夫と見合いをして、半年後に結婚した。夫は穏やかな人で、文句も言わず、酒も飲まず、春子の両親の面倒をよく見た。娘が二人生まれて、上は今年二十一歳になった。

幸せだと思っている。本当に。
それでも甘夏の季節になると、賢一のことを思い出す。
思い出す自分が、みっともないとも思う。それでも、どうにもならない。
―――
「お母さん、何ぼーっとしてるの」
娘の彩が台所に入ってきた。大学の春休みで、今週は実家にいる。
「ぼーっとしてない」と春子は言った。「甘夏むいてた」
「一人で食べる気やった?」
「あんたの分もある」
彩は冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出した。コップに注いで、一口飲んで、春子の隣に座った。むきかけの甘夏を一房取って、口に入れた。
「甘い」と彩は言った。
「水俣の甘夏やけん」
「毎年この時期、お母さん静かになるよね」
春子は手を止めた。
「静かになる?」
「うん。なんか遠いところ見てる感じ。気のせい?」

気のせいではなかった。でも春子は「気のせいじゃない」とは言えなかった。
「歳のせいじゃない」と言った。
彩は笑った。「それ違う言葉やん」
―――
夕飯の後、夫が先に寝て、彩もシャワーを浴びに行って、台所に一人になった。
残った甘夏を皿に並べながら、春子は思う。
未練というのは、何に対するものだろう。賢一に対してではない、と思う。二十三年も会っていない人間に未練があるとは、少し違う気がする。ではなく、あの頃の自分に対してかもしれない。水俣を出ることを選ばなかった、あの春の自分に。
選ばなかったのではなく、選べなかったのか。
今でも分からない。
賢一の横顔は、もう思い出せない。ただ、水俣駅を出た夜行列車のテールランプの赤が、北へ向かって消えていったあの夜の空気だけが、今も体のどこかにある。

それだけのことだ、と春子は思う。
人間は誰でも、季節ごとに一つくらい、話せないことを持っている。それが甘夏の季節の、春子の話せないことだった。
「お母さん、甘夏もう一個食べていい?」
廊下から彩の声がした。
「食べなさい」と春子は言った。
彩が台所に入ってきて、皿から一つ取って、また出ていった。
春子はその背中を見ながら、いつか彩にも、季節ごとの話せないことができるだろうか、と思った。できるといい、と思った。それくらい、人間らしいことはないから。

窓の外で、不知火の海が夜の色に沈んでいた。
甘夏の皮が、台所に甘い香りを残していた。

この物語は、熊本県水俣市に生きる人々の「いとしい煩悩」をひとつずつ描いている連作短編シリーズです。次回は「いとしい煩悩 その六」をお届けします。

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(C)視点の落としもの
いとしの煩悩(ぼんのう)シリーズ(第一部 全八話)
水俣の町と、不知火の海と、ここに生きる人々の「いとしい煩悩」。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
それぞれの物語へのリンクはこちらです。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
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