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百歳の誕生日会ではじめての告白

あらすじ
不知火海を望む町の公民館で、百歳のトメが家族に囲まれた誕生日会。戦争をくぐり抜け、百年間いつも誰かのそばで世話をし続けた女性が、ひ孫の問いに答えて初めて打ち明けた、たった一つの小さな後悔とは。

いとしい煩悩 その一「無欲」



折り畳みのパイプ椅子が並んで、プラスチックの造花が飾られて、ケーキには百本ものろうそくを立てるのは危ないからという理由で三本だけ立てて、あとは「100」と書いたチョコレートのプレートで誤魔化した。誰かがそれを写真に撮って、みんなで笑った。

これまでトメは、そういう席でいつも笑う側だった。

孫が六人、ひ孫が十一人。娘は八十二歳になっていて、息子は七十九歳になっていた。集まった顔ぶれを端から見渡して、トメは「ああ、みんな年取ったな」と言った。また笑い声が起きた。それで場の空気が温かくなった。


食事が終わって、お茶が配られて、部屋がすこし落ち着いたころ、ひ孫の一人が聞いた。中学一年の男の子で、名前は航太という。目が細くて、耳が少し大きくて、亡くなった夫の若い頃に似ていた。

「ひいおばあちゃんってさ、後悔ってある?」

母親が「航太、そんなこと聞かないの」と小声で制した。

でもトメが、首をたてに振った。

「あるよ」と言った。



部屋が、少し静かになった。

誰かが「え」と言った。
誰が言ったのか分からないくらい、小さな声だった。

トメは百年を生きていた。戦争をくぐり抜けて、夫より長く生きて、子を育て、孫を育て、ひ孫が生まれるのを見た。何かが起きるたびに誰かのそばにいて、何かが足りないときは自分のものを差し出して、誰かが泣けばもらい泣きをして、誰かが笑えばいっしょに笑った。この町で「トメさん」といえば、そういう人のことだった。

だから誰も、後悔があるとは思っていなかった。

「一つだけある」とトメは続けた。
「たった一つだけ」

部屋がまた静かになった。今度は、さっきより深く。

「わたしね、一度も、自分だけのために何かを食べたことがないんだよ」

誰も意味が分からなかった。




「昔ね、太刀魚が好きだったの。不知火の太刀魚。港に揚がったばかりの、刀みたいに銀色に光ってるやつ。それを塩焼きにするとね、皮がぱちぱち鳴って、脂が滲んでいい匂いがして。あの白い身をほぐして食べるのが、わたしには世界で一番のごちそうだった」

記憶の中の「世界で一番のごちそう」

航太が「うん」と頷いた。

「太刀魚を焼くと、家の人間が全員台所に来るでしょう。においがするから。だからわたしはね、いつも食べる前に配ってたんだよ。夫の分、子供の分、順番に皿に取り分けて。自分の番になると、もう残ってなかったり、あっても端のところだけだったり。それが毎年のことで、でも不思議と嫌だとは思わなかった」


娘が「お母さん、そんなこと……」と言いかけて、口をつぐんだ。

「一度でいいから」とトメは言った。

「誰もいない台所で、朝の早い時間に、一人で、誰にも渡さないで、丸ごと一匹を、全部、自分だけで食べてみたかった。それだけが、後悔」



しばらく、誰も喋らなかった。

窓の外で、鳥が鳴いた。遠くに不知火の海が光っていた。

息子がゆっくり笑い出した。最初は静かに、それからだんだん肩が揺れるくらいになって、「なんだよそれ」と言った。娘も笑った。孫たちも笑った。十一人のひ孫のうちの何人かは、大人たちが笑うから自分たちも笑った。

航太だけが、笑わなかった。

椅子から立ち上がって、トメのそばまで来て、しゃがんだ。目の高さを合わせて、少し考えてから言った。

「来年の夏、俺が焼くよ。一匹丸ごと。ひいおばあちゃんの分だけ」


トメは航太の顔をしばらく見ていた。まだ子供みたいな顔で、でも目だけは真剣だった。

「来年まで生きてるかな」とトメは言った。

「生きてて」と航太は言った。

トメは笑った。百年分の皺が深くなった。

「そうだね」と言った。
「生きてみるか」

誰かがまた笑った。さっきとは少し違う笑い声だった。


夏はまだ、遠かった。




この物語は、熊本県水俣市に生きる人々のいとしい煩悩をひとつずつ描く連作短編シリーズの第一話です。次回は「煩悩その二「執着」 和ろうそくの炎」をお届けします。

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視点の落としもの


いとしい煩悩シリーズ(第一部 全八話)

水俣の町と、不知火の海と、ここに生きる人々の「いとしい煩悩」。

その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング

それぞれの物語へのリンクはこちらです。

その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白

その二「執着」 和ろうそくの炎

その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう

その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬

その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後

その六「傲慢」 しらすの白い海

その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)

その八「思い込み」 スウィートスプリング


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