茶摘みと嫉妬
あらすじ
熊本県水俣市の茶畑を守る義則(よしのり)は、福岡で会社を経営する弟の笑顔が、昔から好きになれなかった。ある朝、弟から届いた一通のメッセージを茶畑で読み、四十年間見えていなかったものに、ようやく気づく。
いとしい煩悩 その四「嫉妬」
茶を摘む指は、考えごとをしているときでも止まらない。
芽の二枚目と三枚目だけを選んで、ひねるように折る。その動作を、義則(よしのり)は四十年繰り返してきた。すっかり体が覚えている。目をつぶっていても摘める。頭の中で別のことを考えていても摘める。

今朝も、弟のことを考えながら摘んでいた。
弟の和則(かずのり)は、福岡で広告の会社を経営している。
社員が三十人いて、マンションの十二階に住んでいて、子供二人はどちらも大学を出て東京で働いている。年に一度、正月に顔を見せるとき、いつも少し日焼けしていて、いつも少し太っていて、いつも笑っている。

義則はその笑顔が、昔から好きになれなかった。
好きになれない自分が、みっともないと思っていた。それでも、どうにもならなかった。
二人は同じ家で育った。同じ茶畑で遊んで、同じ飯を食って、同じ学校に通った。ただ、和則だけが水俣を出た。大学進学のときに出ていって、そのまま帰ってこなかった。義則は残った。長男だったから、というより、残ることが自然だと思っていたから。
茶畑は好きだった。朝の霧の中で、山の斜面に広がる茶の列を見るのが好きだった。摘んだ葉が蒸されて、乾かされて、水俣茶になっていく過程が好きだった。それは本当のことだ。
でも、和則の正月の笑顔を見るたびに、胸の奥で何かが疼いた。
疼くたびに、義則は茶畑に出た。
スマートフォンが鳴ったのは、朝の八時過ぎだった。
摘みかけの列を途中で止めて、エプロンのポケットから取り出す。和則からのメッセージだった。正月以外に連絡が来ることは、ほとんどない。
画面を開いた。
「兄ちゃん、会社たたむことにした。体がもう限界で。誰にも言えんかったけど、三年前から心臓に持病があって、先月また倒れた。家内にも子供にも心配かけたくなくて、ずっと黙っとった。正月に会ったとき、言おうと思って、言えんかった。兄ちゃんにだけ、先に伝えたかった」
義則はしばらく、その文章を見ていた。
霧がまだ残っていた。茶の葉が、朝露で濡れていた。
正月の和則の顔を、思い返した。
日焼けしていて、太っていて、笑っていた。あの笑顔の裏に、そういうものがあったのか。義則には、何も見えていなかった。
四十年間、妬んでいた。
都会で成功した弟を。自由に生きた弟を。水俣を出ることができた弟を。
でも和則は、水俣に帰りたくても帰れなかっただけかもしれない。帰る顔がないと思っていたのかもしれない。長男が守っている茶畑に、次男が戻ってくる場所はないと思っていたのかもしれない。

そんなことを、一度も考えたことがなかった。
義則は返信を打とうとして、何度か書いては消した。「大変やったな」と書いて消した。「知らんかった」と書いて消した。「体を大事にしろ」と書いて消した。
どれも違う気がした。
しばらく考えて、一行だけ送った。
「帰ってこい。一緒に茶を摘もう」
送信して、スマートフォンをポケットに戻した。

返事はすぐには来なかった。
義則はまた摘み始めた。指が動く。芽の二枚目と三枚目。ひねるように折る。四十年、同じ動作。
嫉妬というのは、相手のことを何も見ていないということだ、と義則は思った。自分が作り上げた像を妬んでいただけで、和則のことを何一つ、見ていなかった。
霧が晴れてきた。
不知火の海が、山の向こうで光り始めていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
メッセージを開くと、一行だけ届いていた。
「ありがとう、兄ちゃん」

義則は返信しなかった。
それだけで、十分だった。

この物語は、熊本県水俣市に生きる人々のいとしい煩悩をひとつずつ描く連作短編シリーズです。次回は「いとしい煩悩 その五」をお届けします。

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(C)視点の落としもの
いとしい煩悩シリーズ(第一部 全八話)
水俣の町と、不知火の海と、ここに生きる人々の「いとしい煩悩」。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
それぞれの物語へのリンクはこちらです。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
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