朝の貝汁(かいじる)
あらすじ
熊本県水俣市で祖母と暮らす拓海は、毎朝の白みその貝汁をスマートフォンを見ながら飲み続けていた。祖母が倒れた朝、初めて台所に立って、「おいで」の一言がどれほどの重さだったかに、ようやく気づく。
いとしい煩悩 その七「怠惰(たいだ)」
祖母の貝汁は、朝の六時にできあがる。
大粒のアサリが白みその汁の中で口を開けて、潮の香りが台所から廊下まで漂ってくる。その匂いで目が覚める。それが、拓海にとっての朝だった。
水俣に戻ってきて、二年になる。大阪の専門学校を出て、就職して、二年で辞めた。理由はうまく言えない。合わなかった、というより、何かが違った。それだけのことだ。
両親には頼れない事情があった。どこに行けばいいか分からなかったとき、祖母だけが「おいで」と言ってくれた。それで水俣に戻ってきた。

近くのスーパーでアルバイトをしながら、次のことを考えている。まだ、考えている途中だ。
「拓海、ご飯よ」
祖母の声がした。
「はーい」と答えて、布団の中でもう少しだけ目をつぶった。
食卓に着くと、貝汁と白飯と、小皿に漬物が並んでいた。毎朝、同じ献立だった。
祖母はもう食卓についていた。八十一歳で、背が少し曲がっていたが、台所に立つのは苦にしていないようだった。
「いただきます」と拓海は言って、貝汁を一口飲んだ。温かかった。アサリの出汁が、白みそと溶け合って、舌の上に広がった。

「うまい」と思う。毎朝思う。でも口には出さない。出す間もなく、スマートフォンを開いてしまう。
祖母は何も言わない。ただ、静かに飯を食っている。それが毎朝のことだった。
祖母が倒れたのは、木曜日の朝だった。
拓海が目を覚ましても、台所から音がしなかった。潮の香りもしなかった。不思議に思って起き上がって、廊下に出た。

祖母が台所の床に倒れていた。
救急車を呼んで、病院に付き添って、検査を受けて、脳梗塞だと分かった。命に別状はないが、しばらく入院が必要だと言われた。
病院から家に戻ったのは、夜の九時過ぎだった。
台所に入ると、昨日の夜から水に浸けてあったアサリがボウルの中にいた。祖母が砂抜きをしておいたものだ。拓海はそのボウルをしばらく見ていた。
作り方を知らなかった。
毎朝飲んでいた。二年間、一度も作り方を聞かなかった。聞こうと思ったこともなかった。祖母が作るものだと思っていた。当たり前のようにそこにあるものだと思っていた。
スマートフォンで検索した。アサリの貝汁、白みそ。レシピがいくつか出てきた。
鍋に水を入れて、アサリを入れて、火にかける。沸騰する前に白みそを溶かす。沸騰させてはいけない、と書いてあった。アサリが開いたら火を止める。

やってみた。みそを溶かすタイミングが分からなくて、少し早すぎた気がした。アサリが全部開く前に火を止めてしまって、もう一度つけた。
できあがったものを、椀によそって、一口飲んだ。
悪くはなかった。でも、祖母の貝汁とは違った。何が違うのか分からない。みその量か、火加減か、アサリの選び方か。それとも六時という時間か、あの台所の空気か。
拓海はしばらく椀を持ったまま、台所に立っていた。
二年間、スマートフォンを見ながら飲んでいた。一度も「うまい」と言わなかった。一度も作り方を聞かなかった。当たり前のようにそこにあると思っていた。祖母の六時が、毎朝どれだけの手間でできていたか、一度も考えなかった。

怠惰(たいだ)というのは、
体を動かさないことではない。
目を向けないこと、かもしれん。
拓海は思った。
翌朝、五時半に目が覚めた。
祖母がいつも起きる時間より、三十分早かった。それだけあれば、と思った。
台所に行って、昨夜水に浸けておいたアサリをボウルごとシンクに出した。塩水で砂抜きをする、とレシピに書いてあった。でも祖母はいつも真水で浸けていた気がした。どちらが正しいのか分からないまま、とりあえず祖母のやり方に倣った。
鍋に水を入れた。アサリを入れた。火は中火にした。昨日は強火にしてしまって、沸騰させすぎた。アサリは強い熱を与えると身が縮む、とスマートフォンに書いてあった。
鍋を見ながら待った。水面が少しずつ動き始めた。細かい泡が底から上がってきた。アサリが少し口を開きかけている。まだ早い、と思って火を弱めた。
白みそを小皿に取り出して、鍋の汁を少しすくって、小皿の中で溶いた。昨日は鍋に直接入れて、ダマになった。祖母がそうしているのを、そういえば見たことがあった。見ていたのに、覚えていなかった。
アサリが七割ほど開いたところで、溶いたみそを鍋に加えた。菜箸でゆっくり混ぜた。沸騰する前に火を止めた。

椀によそった。
昨日より色が少し薄かった。みその量が足りなかったかもしれない。アサリの口の開き方は、昨日よりそろっていた。
一口飲んだ。
温かかった。アサリの出汁がちゃんと出ていた。みそが尖っていなかった。昨日より、確かに近かった。
でも祖母の貝汁には、まだ何かが足りなかった。出汁の深さか、みそを溶かす手加減か、それとも何十年という時間か。
椀を持ったまま、拓海はしばらく台所に立っていた。

病院に持っていこう、と思った。祖母に飲ませて、どこが違うか聞こう。それから教えてもらおう。退院するまでに、毎朝練習しよう。
窓の外で、不知火の海が朝の光を受けて、静かに光っていた。
この物語は、熊本県水俣市に生きる人々のいとしい煩悩をひとつずつ描いている連作短編シリーズです。次回は第一部の最終回「煩悩その八」をお届けします。

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(C) 視点の落としもの
提供(C)有限会社たかやま Resop Studio
「いとしい煩悩」シリーズ 第一部
いとしい煩悩シリーズ(第一部 全八話)
水俣の町と、不知火の海と、ここに生きる人々の「いとしい煩悩」。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
それぞれの物語へのリンクはこちらです。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
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