しらすの白い海
あらすじ
熊本県水俣市の漁師・徹は、不知火海での二十年の経験に、静かな自負を持っていた。新入りの健斗に網の張り方を教えたある朝、たった二週間の若者が海の声を聞いていることに気づき、自分の傲慢さと向き合う。
いとしい煩悩 その六「傲慢(ごうまん)」
しらすは、網の中で光る。
体長は三センチにも満たない。イワシやカタクチイワシの稚魚で、骨も内臓もまだ透き通っている。その透明な体が、水揚げの瞬間に朝の光を受けて、一斉に白く跳ねる。銀というより、白だ。光そのものの色、といった方が近い。網を持ち上げるたびに、何万という命がいっせいに光って、いっせいに動いて、それがひとかたまりのまま揺れる。

その光景を、徹は二十年見てきた。見るたびに、同じように息を飲む。どれだけ年を重ねても、慣れない。それだけは、正直に思う。
だがそれ以外のことは、もう全部分かっている。潮の読み方、網の張り方、天気の変わり目。不知火海のことなら、誰にも負けない。そう思って二十年、やってきた。
新入りの名前は、健斗といった。二十二歳で、去年の秋に水俣に来た。どこかの漁師町の出身らしいが、不知火海は初めてだという。体は大きいが、目がまだ子供みたいだった。
徹の船に乗ることになったのは、組合長の差配だった。
「よろしくお願いします」と健斗は言った。
ずいぶんと、頭を深く下げた。

徹は「ああ」とだけ言った。
弟子を取るのは初めてだったが、たいしたことではないと思っていた。自分がやってきたことを順番に教えれば、それでいい。そのはずだった。
最初の一週間は、見せるだけにした。徹がやることを、健斗はずっと見ていた。メモを取って、質問して、また見ていた。質問は的外れなものもあったが、黙って答えた。
二週目に入って、網の張り方を教えることにした。徹がやって見せて、健斗にやらせた。最初はぎこちなかった。当然だ、と思った。自分も最初はそうだった。

三度目に健斗が網を張ったとき、徹は手を止めた。
何かが、違った。
健斗は網を繰り出しながら、船首の方向を少しだけ変えていた。教えた通りではない。潮に対して網を入れる角度を、自分の判断で五度ほど修正していた。
「なんでその角度にした」と徹は聞いた。

健斗は網から目を離さないまま答えた。
「水の色が、さっきと少し違う気がして」
「どう違う」
「あっちが少し暗い。流れがぶつかってる感じがする。あと、海面の揺れ方が……波じゃなくて、下から来てる感じで」
徹は海面を見た。健斗の指した方向、船首から三十メートルほど先。確かに水の色が一段深かった。暗い、というより、密度が違う。冷たい流れと温かい流れが交わる場所で起きる、微妙な色の差だ。ベテランでも見落とす。風が少しでも出れば、波に紛れて分からなくなる。今朝は風がなかった。だから見えた。
それでも、
たった二週間の人間に見えるとは思っていなかった。
「海面の揺れ方、どう違う」
と徹はもう一度聞いた。確かめたかった。
健斗は少し迷ってから言った。
「風で揺れると、横に広がる感じがするんですけど、さっきのは、小さく立ってる感じで。なんか、下が動いてるような」
徹は黙っていた。
下から来る揺れ。潮目の下で流れがぶつかるとき、海面はわずかに、内側から押されるように小刻みに動く。それを漁師たちは「立つ」と表現する。健斗に教えた言葉ではない。自分で感じて、自分の言葉にしていた。

健斗の言う通りだった。
その夜、港で一人、船の手入れをしながら徹は考えた。
二十年、誰にも負けないと思ってきた。腕も、勘も、経験も。それは本当のことだと思っている。でも今日、健斗の網の角度を見たとき、胸の奥で何かが揺れた。

傲慢というのは、自分だけが見えていると思うことだ。
健斗はまだ何も知らない。でも持っているものがある。徹が二十年かけて覚えたことを、健斗は二週間で半分くらい体で感じている。それが悔しいわけではない。ただ、自分が思っていたより、この海は広かった、ということだ。
翌朝、船に乗り込んできた健斗に、徹は言った。
「昨日の潮目、合ってた」
健斗は目を丸くした。「ほんとですか」
「ああ」
健斗は少し照れた顔をした。それから真剣な顔に戻って、「もっと教えてください」と言った。
徹は海の方を見た。不知火の海が、朝の光を受けて白く光っていた。しらすの群れのように。

「ああ」と徹は言った。「教える」
それだけ言って、エンジンをかけた。
この物語は、熊本県水俣市に生きる人々の「いとしい煩悩」をひとつずつ描いた連作短編シリーズです。次回は「煩悩その七」をお届けします。

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(C)視点の落としもの
いとしい煩悩シリーズ(第一部 全八話)
水俣の町と、不知火の海と、ここに生きる人々の「いとしい煩悩」。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
それぞれの物語へのリンクはこちらです。
その一「無欲」 百歳の誕生日会ではじめての告白
その二「執着」 和ろうそくの炎
その三「後悔」 土の甘さと、ありがとう
その四「嫉妬」 茶摘みと嫉妬
その五「未練」 甘夏(あまなつ)の午後
その六「傲慢」 しらすの白い海
その七「怠惰」 朝の貝汁(かいじる)
その八「思い込み」 スウィートスプリング
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