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宇多田ヒカル『Mine or Yours』— ラカン精神分析的読解を試みる

昨日の僕は
僕が思う僕とはかけ離れていた
素直になれず君を泣かせるやつには
失望している

自分を大事にできるようになるまで
なんにも守れない

なにが食べたい? 店探すよ
元気出るまでダラダラしよう
なにか飲むかい? お湯沸かすよ
君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの

どの道を選ぼうと
選ばなかった道を失う寂しさとセット
令和何年になったらこの国で
夫婦別姓OKされるんだろう

冷めたら温め直せばいい
不安材料も味付け次第

ずっと一緒にいたいけれど
毎日一緒はしんどいかも
なにかいるかい? 買って行くよ
君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの

I love making love to you
掛け違えたボタン
一つ一つ外す
恐る恐る

自由に慣れれば慣れるほど
不自由だって、どうして誰も
僕らに教えてくれなかったの
君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの 




「綾鷹」のCMソングとして起用され、2025年5月2日にリリースされた宇多田ヒカルさんの新曲です。

なぜ僕がこの記事をかこうかと思ったのかというと、この曲があまりにも次元の低い幼稚な批判を浴びていることにビックリしたからです。


まずこの曲のコアである題名の『Mine or Yours』から見ていきましょう。訳すと「わたしのものか、それともあなたのものか」という意味になります。

シンプルですね。

ここで問題になるのが「わたしのもの」と「あなたのもの」という語が指し示している対象が何なのか?ということです。

答えは


「わたしがわたしと思っている自我」

ということになります。


そして、この題名の意味を整理すると次のようになります。

『わたしという自我は、わたしのものなのか、それともあなたのものなのか』


「なぜそんなことが言えるんだ!」と思う方もいるかもしれませんが、宇多田ヒカルさんという現存在を少しでも理解しようと努めながら歌詞全体を読めば、その意味が見えてくるはずです。


では読解していきましょう。


昨日の僕は
僕が思う僕とはかけ離れていた
素直になれず君を泣かせるやつには
失望している


曲は「僕」という自我と、「僕」が「僕」と思っている超自我との内省(≒反省)から始まります。


この曲の中で宇多田さんは、「僕」「君」という一人称と二人称を使っていますが、ここで多くの人は男性と女性という関係が頭に浮かんでしまうと思います。この歌詞の文脈からはそう解釈する人がほとんどだと思います。
もちろんそれでも構わないのですが、それではこの曲の歌詞全体が意味するところのコアを掴みきれません。

「僕」とは宇多田ヒカルさんの自我それ自体であり、「君」とはその自我と関係を結んでいる他者と考えてください。

ここで大事なのは、宇多田さんはセクシュアリティーの撹乱を狙っているということです。セクシュアリティーや個人を規定するような一般的な言葉を文脈の上であえて使うことによって、本当に伝えたいコアな部分をずらしているわけです。

ラカン的に言うとシニフィアン(意味するもの)と、シニフィエ(意味されるもの)の一般的関係性をずらしているということになります(これが宇多田ヒカルさんの凄さだと僕は思っている)。

この語の「ずらし」については宇多田さんの『Play A Love Song』という曲の考察の記事でも書いていますので、興味のある方は是非こちらも併せて読んでいただけたら幸いです。


宇多田さんは自身がノンバイナリーであると公言したことで話題となりましたが、他者、いい換えると個人を無視した強制的な社会コードによるセクシュアリティーの規定に疑問符を打ち付けているわけです。

宇多田さんは高校生の時点で、超難解な現代思想、フランスの哲学者ベルクソンの書籍を読破していたようで、「日本は近代で止まっている」というような発言もこのことを裏付けているように僕は思います。



このような複雑な思いが

令和何年になったらこの国で
夫婦別姓OKされるんだろう

という歌詞に表されています。


他者(社会)による自我に対する執拗なレッテル貼り
に虚しさと同時に嫌悪を示しているわけです。




ラカンのシェーマL


精神分析家のジャック・ラカンは、「主体」(S)というものはないと言っています。あるのはわたしがわたしだと思っている「自我」(a)だけで、それは他者(a’)によって形づくられたものにすぎないと。

主体がないなんて言われても、いまいちピンとこない方もいると思うので、簡単な思考実験をしてみてください。

頭の中で「わたしは誰なんだ」と問いかけてみてください。

「わたしは〜だ」というわたしを規定する色々なものが頭に浮かぶと思います。それは名前であったり、職業であったりするでしょう。わたしは〜が好きだとか、わたしは〜の母親だとか、今の状況や役割などであったりするかもしれません。

さて、そんなこんなでこう気づくはずです。

「あれ?これ全部外部から規定されたものじゃないのか?」と、ペタペタと外側から貼り付けられたただのレッテルにすぎないのではないか?と。

玉ねぎの皮をいくらむいてもむいても、その中心にあるであろうと思っていた「主体」というものはいっこうに姿かたちを現しません。

そうです、主体とは禅でいう「空(くう)」なのです。

だから人は血液型判断など、こういう類の全く根拠のない占いみたいなものが好きなんです。主体が空(くう)であるがゆえに、外側他者)から自分というものを決めて欲しいのです。「お前はこういうものだ」と保証して欲しいのです。
そうしないと「自我」が保たれないからです。

SNSなどでプロフィール欄に役職や肩書きなどをごちゃごちゃ書くのも、主体というブラックホールに吸い込まれないためのある種の無意識による自己防衛なのです。


さあ、この辺で最初の題名の解釈に戻りましょう。この曲の本質的なところです。

『わたしという自我は、わたしのものなのか、それともあなたのものなのか』


この問いの答えは


わたしという自我はあなた(他者)のもの


つまり


わたしという自我は他者によって規定されているものだ


ということであり、この曲は


現実に対する嘆きであり、それをどうすることもできないという憂鬱を歌った曲
なのです。



この憂鬱、嘆きは短い歌詞の中で3回繰り返される

君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの

という歌詞に如実にあらわれています。

僕たちは自分で消費している商品などを、自分自信で自由に決めていると思っていて、そこにあたかも自由意志があるかのように感じていますが、それは後付けの意志がもたらす錯覚にすぎません。僕たちの消費という行為でさえ他者=(資本主義システム)に絡めとられているわけです。
この嘆きは

自由に慣れれば慣れるほど
不自由だって、どうして誰も
僕らに教えてくれなかったの

という歌詞にもあらわれています。


ジャック・ラカンはこう言っています。

歴史の進展が奴隷を何から解放したのかよくわかりませんが、確かなことがひとつあります。それは、〔歴史の〕あらゆる段階において奴隷は鎖でつながれているということです。救出のあらゆる時代にあっても、奴隷は剰余享楽につながれているのです。


そして、『堕落論』の著者である坂口安吾もこう言っています。

終戦後、我々はあらゆる自由をゆるされたが、人はあらゆる自由をゆるされたとき、
自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。


この現代における資本主義の規定性については『現代うつと資本主義のディスクールの構造について考える』という記事で書いていますので、時間がある方は是非読んでみてください。





I love making love to you
掛け違えたボタン
一つ一つ外す
恐る恐る

そしてこの歌詞もシンプルに見えますが、かなり凄いことを言っています。

「I love making love to you」は「わたしはわたしがあなたを愛すること(愛し合うこと)を愛している」
というような意味になりますが、これは

「わたしはあなたと愛し合うこと(=セックス)それ自体を愛している」

ということです。それ自体ということがとても大事なところなのですが、ちょっと分かりづらいと思うので解説します。

精神分析家ラカンによれば、愛といったもの(言葉)はかなりぼやけたものだといえます。僕たちは相手(他者)のことを愛していると認識しますが、その時に他者(相手)そのもの自体は認識されていないのです。もうちょっと砕けた言い方をすると、自分の頭の中にあるイメージを愛しているだけであって、相手そのものを愛しているわけではないのです。
他者(愛する相手)とは無意識の中にあるカテゴリーに反応している表象にすぎないのです。

人は相手を好きになったり愛するのではなく、自分が相手に対して抱いているイメージを愛しているだけ
であって、「わたしはこの人を愛しているんだ!」という意識は後付けの幻想にすぎません。もっというと自分の中の欠如"その相手の中”(=自分の中)に置き換えているだけなのです。

ラカンは人の(性器を使った)性行為についても、「そこに性関係はない」と言っています。


このことを念頭にもう一回歌詞をみてみましょう。

I love making love to you
(わたしはわたしがあなたと愛し合うことを愛している)
掛け違えたボタン
一つ一つ外す
恐る恐る

人を愛するということの恐さ、難しさ、何ともいいがたい虚無感のようなものを読み取れると思います。



しかし、僕たちはこのような自己の立ち位置を了解した上で、この一見無意味ともとれる現実というものに抗わなければならない、と僕は常日頃から思っています。 


君はコーヒー 僕は緑茶、いつもの

この透明で消えてしまいそうな日常の反復に意味を与え、色をつけ、物語を紡いでいくことができるのは

やはり「僕」だけなのだから。



そしてこの曲はこうしたアンビバレントな気持ちを歌った曲でもあるということです。



冷めたら温め直せばいい
不安材料も味付け次第

自分を大事にできるようになるまで
なんにも守れない


「意味」というものは、何らかの自己の防衛(セルフディフェンス)によって、心の葛藤の中紡ぎ出されるものではないか、と最近僕は思っています。

そしてその葛藤をなすがままに全て受け入れること、葛藤と共存することによって自由というものが生まれるのではないでしょうか。


そう、全ては「僕」の中にある。



最後まで読んでいただきありがとうございました。



ではまた。


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