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宇多田ヒカル—「ノンバイナリー」発言にみる 「女性」カテゴリーからの脱構築的脱却


2021年、宇多田ヒカルさんはInstagramで「私はノンバイナリーです」と公言しています。

宇多田さんは男/ 女という二項対立的な性別の枠に違和感を覚えていたことを明かし、また「性別を聞かれるのが嫌」という感覚も語っています。

しかしこれは単なる「表明」でないことは明らかです。

宇多田さんの意図は、「自分のアイデンティティを規定する社会の強制力」に対する抵抗にあります。




ジュディス・バトラー(Judith Butler)
🇺🇸 1956-  (69歳)



哲学者のバトラーによれば、性別は「自分の内側から自然に湧き上がるもの」ではなく、社会の中で繰り返し演じられる(perform)ことによって、後からできあがるものです。

例えば生まれた瞬間に医師や親がおちんちんがついていない/いる、という外見で「女の子だ」「男の子だ」と言うこと。

このような呼びかけの言葉は単なる「事実の記述」ではなく、その子どもに女性らしく、男性らしくふるまうことを期待する社会的規範をすでに伴っています。

つまりこの呼びかけの瞬間からジェンダー(性別)が言語的にパフォーマティブに規定されているのです。

スカートは「女性らしさ」、スーツは「男性らしさ」を演じるコードとして機能していたり、TVドラマ、アニメ、ゲームの多くは男らしいキャラクターや女らしいキャラクターが一貫したスタイルで描かれています。
家庭では母親は子育て、父親は稼ぐという役割が期待され、声の高さや話し方でさえも男性的/女性的とされ、それを模倣、反復することでジェンダーが演じられます。

つまりジェンダーが内在的に存在するのではなく言葉や服装、仕草や社会的儀礼といった繰り返しの行為によって、あたかも自然な性差が存在するかのように見せかけられているということです。

バトラーはいいます。

“There is no gender identity behind the expressions of gender; … identity is performatively constituted by the very ‘expressions’ that are said to be its results.”

ジェンダーの表現の背後に、あらかじめ存在する〈本当の性〉があるわけではありません。むしろ、私たちが『内面の性のあらわれ』だと考えているその表現こそが、アイデンティティを形づくっているのです。

Judith Butler-『ジェンダートラブル』




“セックスはつねにジェンダーである”


バトラーの理論をみていくと、「男/女」という二元的な制度に違和感を覚える宇多田さんの感覚は、性別が本質でなく構築物であるということを自ら体感的に示しているといえます。


ここでジェンダー(性別)には確かに多様性はあるが、セックス(生物的性)は男/女=雄/雌の二元的区分になるのではないか?


という疑問が沸くと思います。しかし、この常識さえも社会的、文化的に構築されたものにすぎないのです。

人間の身体(セックス)も「雄/雌」という二分法では捉えきれないグラデーション的多様性を持っています。
これを生物学的には インターセックス(intersex) と呼びます。

医学的記録として、男性と診断されている人の身体に卵巣や子宮のような組織が存在している例がありますし、外性器に男性的特徴と女性的特徴の両方を持つという例も多くあります。

そしてこれはごく一部の例であって、男性/女性の枠に収まらない、染色体・生殖腺・ホルモン・外性器が複合的に絡み合った組み合わせは無限に存在します。

こうした事例は、セックスは自然で二元的なものであるという社会の前提を揺るがします。

ジェンダーだけでなく、セックス(生物学的性)ですら実は、無限の広がりをもつスペクトラムであり、必ずしも「雄/雌」という動物的な繁殖モデルには当てはめられないのです。



さて、宇多田さんはこの強制される社会的パフォーマンスに違和感を覚えているわけです。
「性別欄に男・女しかないことがストレス」、
「性別を聞かれるのが嫌だ」とも語っています。

つまり性別を名乗ることは任意ではなく、言語や制度によって強制される規範的パフォーマンスなのです。この他者(社会)からの強制性への違和感が、ノンバイナリーという言葉によって可視化されています。

そして、社会的影響力をもつ宇多田さんが自己規定にノンバイナリーという言葉をあえて選んだことは、フェミニズムにおける女性カテゴリーの再考・脱構築においての、決定的な転換点とも言えます。


伝統的なフェミニズムは、「女性」という抑圧された集団を可視化し、その権利を主張するという形で展開されてきました。
しかし、ここには根本的なパラドックスが存在します。

「女性」というカテゴリーに訴えることで、かえって「女性」という本質的・固定的な存在を強化してしまうのではないか?


この問題は、1980年代以降のポストフェミニズム的批判や、ジュディス・バトラーの議論で繰り返し指摘されてきたことでもあります。


バトラーは『ジェンダー・トラブル』の中でこう述べています。

“The identity ‘woman’ is no longer understood as a stable locus of agency.”

「女性」というアイデンティティは、もはや安定した主体の場所とはみなされない


つまり、先でみたように、女性という概念そのものが文化的・社会的に構築され、固定的ではなく歴史的に揺れ動く流動的なものである以上、それに依拠した政治運動は、意図せずに本質主義に陥る危険をはらんでいるというのです。要は「女性」というカテゴリーの強化に繋がってしまうということです。

この文脈でみると、宇多田さんのノンバイナリーという発言は、この枠組みを宙吊りにし、フェミニズム運動の基盤そのものを批判的に問い直す契機となります。

「女性のためのフェミニズム」が、「女性」以外のジェンダーを排除することもあるという事実に対し、宇多田さんのノンバイナリー発言は、この排他的構造を破壊し、新たな連帯の可能性を切り開くことを示唆しています。

“What is most important is not to define the category ‘woman’ but to open up the possibility of the political.”

「女性」というカテゴリーを定義することではなく、政治的可能性を開くことが最も重要である

Judith Butler-『アン・ドゥーイング・ジェンダー』



このように、宇多田ヒカルさんの発言は単なる自己表明にとどまらず、既存のジェンダー規範に対する実践的な哲学的批判として読み取ることができます。

宇多田さんのような著名人による「ノンバイナリー」発言は、フェミニズムにとっての再帰的批判であり、自らの枠組みが生んでしまった新たな規範への問い直しという意味でも、とても大きな意義を持ちます。

それはまさにバトラーの言うところのサブバージョン(転倒)、撹乱としてのジェンダー表現の領域に接続するものとなるのです。


    “完璧なフリは腕時計と一緒に外して

                ベッドの横に置いて”

                                       


最後まで読んでいただきありがとうございます。



ではまた。


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