『何色でもない花』 ― 世界がまだ色をもたないとき ― ヒューム的読解
『何色でもない花』
作詞・作曲 宇多田ヒカル 2024年
君がくれたのは何色でもない花
ああそんなに遠くない未来
僕らはもうここにいないけど
ずっと
I'm in love with you In it with you In it with you In love with you In it with you In it with you
朝日が昇るのは誰かと約束したから
ああ 名高い学者によると僕らは幻らしいけど
今日も
I'm in love with you In it with you In it with you In love with you In it with you In it with you
だけど
自分を大事信じられなきゃ
何も信じらんない
存在しないに同義
確かめようのない事実しか
真実とは呼ばない(呼ばない)
私たちの心の中身は誰にも奪えない
そんなに守らないでも平気
だけど
自分をじられなきゃ
何も言じらんない
In it with you (with, with, with you) In it with you (with, with, with you) I'm in love with you In it with you In it with you In love with you In it with you.
In it with you
宇多田ヒカルさんの『何色でもない花』は、一見すると恋愛ソングのように響いています。
しかしその歌詞をよく読むと、デイヴィッド・ヒューム(1711-1776)が提起した哲学的懐疑と深く重なっていることに気づきます。
他の楽曲にもみられるように、明らかに深層に存在論的なテーマを内包していると考えられるのです。
「何色でもない花」という表現は、ヒュームが「印象」と呼んだ、世界の根源的な与えを思い起こさせます。
そして特に注目すべきなのは、朝日が昇るのは誰かと約束したからという部分です。
ヒュームは因果論批判の典型例として『人間知性研究』の中で、「太陽が明日昇る/昇らない」という命題を挙げているのです。
宇多田さんは歌詞や表現に哲学的・文学的な深みを取り入れることが多く、このことから彼女がヒュームの著作に触れていると確信できます。
さて、それでは『何色でもない花』の詩をみていきましょう。
君がくれたのは何色でもない花
この最初の一節にこそ、この曲の本質が凝縮されていると言ってもよいと僕は思います。
ヒュームにとって知覚は印象と観念に分かれます。
印象は習慣や概念による色づけ以前の純粋な経験そのものです。
観念はその印象をもとに想起・再生・組み合わせたものであって、印象に比べて弱く二次的なものとなります。
しかしそれらの色や性質は、主体が経験のなかで習慣的にまとめあげるものにすぎません。そこには絶対的因果はないのです。
例えば僕たちが使う「赤い」という言葉や観念は、まさに根源的な「赤さ」という印象を言語化、概念化したものといえます。
ヒュームによれば、僕たちはこの印象を因果関係としてそのまま把握するのではなく、繰り返し経験することによって「赤さ」と「赤い」という観念を結びつけてゆきます。
この結びつきは自然必然の法則ではなく、あくまで心のうちに形成され反復される習慣によるものです。
つまり「赤い」という観念は、印象の直接的な所与から生まれるだけでなく、その印象が繰り返され、習慣化されることで初めて僕たちの思考に定着するのです。
音楽家は、言葉では捉えきれない「赤さ」を旋律や和声のうちに織り込みます。
それは「赤い」という概念を説明するのではなく、むしろ聴き手の身体に直接働きかけ、言語に還元されない強度の質として「赤さ」を立ち上がらせる試みといえます。
音色の選択やリズムの揺らぎが、比喩や記号を超えて、存在論的な深みを響かせるのです。
アーティストの“はのかるる”さんの『Lake』という楽曲は、まさに「湖」という習慣によって定着した観念ではなく、その背後にある言語化以前の「湖さ」を旋律によって立ち上げようとする試みだといえます。
音楽は言葉が届かない「印象」の領域を響かせることで、「観念」の枠組みを越えて、僕たちの精神に「湖さ」そのものを触れさせてくれるのです。
何色でもない花 とは、習慣や概念による色づけの前にある段階の純粋な印象の束のことを指しています。
それを君から受け取った、という形で主体がまだ定義されない純粋な経験に触れていることを表現しているのです。
ああそんなに遠くない未来
僕らはもうここにいないけど
ヒュームは自己を一貫する実体としては認めません。
自己とは連続的に流れる知覚の集合にすぎません。ここに出てくる「僕ら」は持続する実体ではなく、ただの瞬間瞬間の持続の流れであって、未来にはもう「ここにいる僕ら」など存在しない。
この歌詞は自己の非持続性=幻のような存在感を表現しています。
朝日が昇るのは誰かと約束したから
ここがまさにヒュームの因果論批判にあたります。太陽が昇る必然性を理性や科学で証明することはできません。
しかしヒュームは次のように言います。
That the sun will not rise tomorrow is no less intelligible a proposition, and implies no more contradiction, than the affirmation, that it will rise.
太陽が明日昇らないという命題は、太陽が昇るという命題と比べて、理解しづらいわけでもなく、矛盾を含むわけでもない。
僕たちは「太陽は明日も昇る」と信じていますが、それは必然的にそうなると分かっているからではないのです。
過去に何度もそうだったから、未来もそうだろうという心理的な習慣によって信じているにすぎないのです。
僕たちはそれを約束として生きる。
この歌詞は僕たちの心理的習慣を「誰かと約束したから」という擬人化で言い換え、世界の因果を信じる人間の習慣をやわらかく詩に溶かしていると読むことができます。
ああ 名高い学者によると僕らは幻らしいけど
先にも触れたように、人間は心の中に持続的な「私」(同一性)を見いだすことはできず、純粋な経験としての印象の流れ(知覚の束)だけがあります。
学者ヒュームの言葉は一見すると冷徹に響きますが、それを軽やかに受け止めています。
自分を信じられなきゃ 何も信じらんない
ヒューム的に言えば、ここは自己の懐疑と他者関係の交差の場面です。
自己が実体的にないなら、もはや自分をどう扱うかは決して確かではありません。
しかし他者や対象との関係も、自己の想定に依存しています。だから
「自分を信じられなきゃ、何も信じらんない」
この自己懐疑の深みを超えていかなければ、他者との関係も成り立たない、観念としての自己を信じるしかないんだという前向きな表現と捉えることができます。
存在しないに同義
これは先にみたヒュームの懐疑の極点といえます。自己の確かな実在を保証できないなら、それは存在しないのと同義であるということになります。
実際ヒュームは「哲学的に考えれば私は自己を見いだせない」と書いています。
確かめようのない事実しか 真実とは呼ばない
ヒュームは、因果や未来=「確かめようのない事実」は習慣にすぎないと述べました。
にもかかわらず、それを僕らは普段真実として生きています。
つまりここで歌われているのは 真実とは、証明できないものにしか宿らないという逆説的な信念なのです。
ヒューム的懐疑を通過したあとに残る、この世界のありのままの真実といえるのではないでしょうか。
私たちの心の中身は誰にも奪えない
ヒュームは自己の実体を否定しましたが、それでも印象=純粋な経験そのものが確かにある、と僕たちはどこかで直感しています。
僕たちの精神、その一瞬一瞬の経験の流れは誰にも決して奪われることはありません。
ここで宇多田さんはヒュームの懐疑を超えつつ、経験そのものの不可侵性に肯定を見いだしています。
I'm in love with you In it with you
”I’m in love with you“は、主体が現在の強烈な印象(感覚・体験)の流れの中にいることの表現であり、“In it with you”はその印象の流れの中で自己が他者(=言語)と同化し、流れの一部として経験していることの表現と読めます。
ヒューム的に言えば僕たちの恋愛感情もまた、まさに心の印象として現れています。
それを言語化することで相手との共有的な観念となっていきます。
このように、「何色でもない花」はヒューム的には「世界から与えられる印象」という根源的な贈与を指しています。シンプルで本当に素晴らしい表現だと思います。
人間はそれを習慣や言葉で色づけし、因果や自己の物語を紡いでいきます。
しかしその根底にあるのは無色の印象=確かめられない所与です。
宇多田さんはこの根拠のなさを虚無として嘆くのではなく、むしろそこに切実さを見いだすと共に肯定しています。
僕らは幻かもしれない。因果も約束にすぎない。
それでも僕たちは
「何色でもない花」
という可能性を受け取り、
愛や生を彩っていく。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
ではまた。
