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「原因と結果は幻想か」─ヒュームと量子力学の対話


突然ですが、何でもいいので硬そうな物を爪で叩いてみてください。

「コツン」と音がすると思いますが、この一連の現象を僕たちは「硬いものを叩いたから(原因)→コツンと音がした(結果)」と直感的に絶対的因果として捉えます。


さて、ここで問うてみましょう。

この「原因が結果を生む」という僕たちが信じて疑わない必然性は、果たして成立するのか?



🔳   「因果律」は理性ではなく「心の習慣」である


デイヴィッド・ヒューム (David Hume)
🇬🇧 1711 - 1776


18世紀スコットランドの哲学者、デイヴィッド・ヒュームは、『人間本性論』(1739)および『人間知性研究』(1748)において、因果関係に対する根源的な懐疑を提示しました。

「私たちは本当に“因果”を見ているのか?」


ヒュームによれば、冒頭の叩いて音がしたという一連の現象は、「叩いた」・「コツンと音がした」という事象がただあるだけということになります。

たとえば、ビリヤードの球Aが球Bにぶつかり、Bが動いたとします。僕たちはこれを見て「AがBを動かした」と考えますが、ヒュームによれば、実際に見ているのは「Aが動く」、「その直後にBが動く」という二つの出来事の連続があるだけで、そこに原因が結果を生んだという必然的なつながりは、どこにも観察されていないのです。

そんなバカなことがあるわけないだろ!

と思うかもしれませんが、これは現代科学をもってしても反証はできないのです。(証明もできない)


科学的法則(例えばニュートン力学や熱力学)は、すべて観測された規則性に基づいています。
つまり、ヒュームが批判した帰納的推論に依存しています。帰納法の正当化は科学の外にあります。
科学では「明日も太陽が昇る」と仮定しますが、その仮定自体を科学で証明することはできないのです。
帰納法は「今までうまくいったから今後もうまくいくだろう」という因果性を前提としています。

僕たちは火に近づくと熱いとか、石を投げるとガラスが割れるなどの繰り返しの経験から、ある種の習慣を形成します。
この習慣が、次も同じように起きるだろうと確信させます。

しかしこれは論理ではなく、心理的傾向にすぎないとヒュームは言います。

つまり因果性そのものの本質的な必然性は観察できないのです。

我々が観察するのは、Aが常にBと結びついているということだけであり、両者の間に必然的な連結が存在するのを我々が知覚することは決してない。

ヒューム– 『人間知性研究』第7節


ヒュームにとって世界は、「AがBを生む」のではなく、「AのあとにBが来る」だけの、継起する印象の束にすぎないのです。



話がずれますが、宇多田ヒカルさんの『何色でもない花』という曲の中に、

朝日が昇るのは誰かと約束したから
ああ 名高い学者によると
僕らは幻らしいけど、

という歌詞があるのですが、”誰かと約束したから”という部分はヒュームの、反復による「心理的習慣の形成」のことを言っていると僕は解釈しています。
この「心理的習慣」が「明日も日が昇るだろう」という確信を僕たちに約束するということです。

“名高い学者”ヒュームのことで、“僕らは幻らしいけど”という部分は、ヒュームの人間は知覚の束であるということに対応していると思われます。

宇多田さんはベルクソンとラカンの書籍を読んでいますが、ベルクソンとラカンを読んでいる人は、間違いなくヒュームも読んでいるはずです。

宇多田さんの曲には、シンプルな表現の中にとても深い哲学が内包されているのです。




🔳   ヒュームと量子論—因果性の崩壊における共鳴


ヒュームのこの主張は、近代合理主義の根本を静かに切断するものです。そしてこの懐疑は、現代において意外な場と共鳴します。


それが量子力学です。



ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)
🇩🇪 1901 - 1976


20世紀初頭、物理学は古典的な決定論の限界に突き当たります。

電子の運動は、もはやニュートン力学(相対性理論をもってしても)では記述できず、ハイゼンベルクが示したように、粒子の位置と運動量は同時には決定できないという不確定性原理が支配します。

世界はもはや、こうすれば必ずこうなるという直線的な因果の鎖ではなく、確率と観測の網の中で揺らぐこととなります。

「ある瞬間において位置がより正確に決定されればされるほど、運動量はそれだけ不正確になり、逆もまた同様である。」

ハイゼンベルク—『量子力学的運動学と力学の直観的内容について』


たとえば、放射性原子がいつ崩壊するかは予測できません。ただ確率的に平均してこのくらいの時間で崩壊するとしか言えません。
その崩壊の瞬間に何が原因かを問うこと自体が無意味なのです。

ここで僕たちは、ヒュームの声を再び聞かなければなりません。

「我々は、ただ出来事の継起を見ているだけだ」

量子の世界では、因果律はもはや絶対的な法則ではなく、観測と出来事との関係の中で成立する一時的な構造でしかありません。

まさにヒュームの言う通り、因果とは我々の心が自然に投影した幻想にすぎないのです。



ニールス・ボーア(Niels Bohr)
🇩🇰  1885 - 1962


物理学者のニールス・ボーアも、「自然は観測されるまでは決定されていない」といい、物理法則そのものが観測との関係に依存していることを強調しました。

これはヒューム的な意味での因果の幻想を、現代科学が実証したとも読めます。


ヒュームが今から約270年前、この因果律の神話を解体しようとしたとき、それは哲学内部の静かな問いにすぎませんでした。
しかし現代の物理学が、その問いを自然そのものの構造において再発見したことは、驚嘆に値することだと思います。

人間の心の幻想が、現実世界の根源的な振る舞いとどこまでも響き合っている。

ベルクソンがいうように、僕たちが生きる現在というのは、絶え間のない持続としての生命的傾向(哲学)と物質的傾向(科学)が交わる交点に現象しているものなのではないか。



ヒュームの時代には、誰もこのような形で自然が答えを返すことを想像できなかったでしょう。

しかし今、因果の必然性は霧のように揺らぎ、僕たちは再び問わざるを得ません。

この世界の秩序とは、本当にそこにあるのだろうか。それとも、私たちがそう見ているだけなのか?

と。



最後に、量子力学の創始者の一人であるニールス・ボーアはいいます。

「科学は真理を見つける手段ではなく、

錯覚を減らす方法である。」



最後まで読んでいただきありがとうございます。



ではまた。

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