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「観測」の檻から抜け出すために — 二重スリット実験批判 〈ベルクソンを再起動する〉


二重スリット実験


近代物理学の最も奇妙な実験のひとつに、二重スリット実験というものがあります。

電子や光子といった素粒子が、観測されないときには波として振る舞い、観測されると粒子として振る舞うというこの衝撃的な現象は、観測者の存在が現実を決定するとまで言われることがあるほどです。

そしてこの言説が、偽霊媒師やスピリチュアル系の詐欺師たちによって使われ、考えるのが苦手な人たちが騙されカモにされていく、ということがまかり通っています。

はっきり言います。

量子力学とスピリチュアルは全く関係がありません。 



さて、この二重スリット実験はある問題を孕んでいます。

僕たちは現代物理学の暗黙の前提を問い直す必要があるのです。



🔳   二重スリット実験の「観測」とは?


「観測」が波動関数の収縮(コペンハーゲン解釈)を引き起こすといいますが、その「観測者」とは一体誰なのか?

量子力学における「観測」とは、量子系とマクロな測定装置の相互作用を意味します。

電子の通過位置を検出するセンサーを設置したり、光子のスピンを測定する装置を接続したり。

つまり、何らかの物理的な装置との相互作用によって、量子の波の状態が粒子の状態に崩壊(波動関数の収縮) することを「観測」と呼んでいます。

これは人間が目で見る行為=意識(志向性)は本質的に不要であるとして除外されています。



🔳   人間の観測(知覚)との違い


僕たちが「観測」と言うとき、多くの場合それは目で見ることや意識的に知覚することを意味します。
キルケゴールか「人間は精神である」と言ったように、これは精神の運動といえます。

しかし量子論では、人間が知覚するかどうか、記録を意識的に確認するかどうかは関係がありません。

観測装置と量子の物理的相互作用があるかどうかだけが決定的で、たとえば人間が画面を見る前にデータがすでに記録されていれば、それで観測と見なされるのです。

これは、物理学を客観的・再現可能な科学として維持するための考え方でもあり、測定の結果が人間の意識によって変わってしまうようでは、科学が成り立たないという前提が含まれています。

まさに、「人間の意識抜きの観測」なのです。




🔳   ベルクソンの持続 — 機械の「観測」は空間化された知覚である


アンリ・ベルクソン(Henri-Bergson)
🇫🇷 1859-1941


この問題に光を当てるのが、アンリ・ベルクソンの哲学、とくに『物質と記憶』(Matière et Mémoire, 1896)で提唱した純粋持続(durée pure)の概念です。


アインシュタインとベルクソン


1922年、時間の権威と言われていたベルクソンは、「一般相対性理論」を発表していたアインシュタインと対面し討論をしています。
これは20世紀最大級の哲学と物理学の対決といわれ、現代思想や時間論に大きな影響を残しました。

ベルクソンにとって時間とは、均質な空間の中で刻まれる時計的な「時間」ではありません。

それは過去・現在・未来が断続的に並ぶ「点の連なり」ではなく、全てが混ざり合った連続する流れとしての生きられた時間、すなわち「持続」こそが真の時間なのです。

僕たちは常に世界の持続の中にあって、そこから意味や価値、感情を感じ取っています。
単なる細切れな感覚の受容ではなく、生きられたリズムの中で世界が立ち現れてきます。


では、この持続の観点から、二重スリット実験をどう読み解けるでしょうか?


まず、この実験は時間の空間化に依存しています。

粒子がスリットを通過し、スクリーンに到達するまでの過程が、まるで静的な軌道のようにモデル化されています。そこには「この瞬間、粒子はここにある/ない」という前提が潜んでいます。

これはベルクソンが批判した知性の空間的枠組みそのものです。

しかし、もし粒子の運動そのものが空間的な軌道ではなく、純粋な持続のうねりだったら?

もし観測とは、流動的な過程に人工的に切れ目を入れる行為なのだとすれば?

そう考えると、観測によって波動が収縮するという出来事も、あたかも持続の流れを刃物のように断ち切る瞬間として捉えられます。

そのことにおいて、「観測」とは単なる物理的測定ではなく、存在の連続性に空間的な点を打ち込む行為となります。
それは本質的に人間の知性、もっと言えば意識の構造と深く結びついています。

本来的なリアリティは、粒子になる前の、過去・現在・未来の重層的に複合された流れにあります。機械の観測ではこの持続が失われ、現在という厚み(層)が切断されてしまいます。

しかし、人間の意識(記憶を含む)においては、過去を伴った現在が現れます。

これこそが純粋持続であり、外部から客観的に観測することはできないのです。

観測された粒子はすでに死んだ時間であり、持続そのものではない。

つまり、二重スリット実験が捉えるのは、けっして真の姿ではなくて、人間の認識様式によって構成された一つの仮象にすぎない、ということになります。 


そもそも粒子が「収縮する」とは、

(機械による)観測=情報取得=状態決定という物理的モデルです。

しかし、ここで根本的に問われるべきなのは

なぜ僕たちは状態を定めようとするのか。

粒子とは本当に世界の本質的な単位なのか。

ということです。

素粒子とはそれ以上分割できないとされる基本的な粒子(電子、クォーク、ニュートリノなど)を指しますが、
素粒子が世界の最小単位であるというのは、現代物理学の標準理論(標準模型)に基づく仮定・モデルにすぎません。

これは真理や絶対的事実ではなく、現時点で最も説明力が高い理論という位置づけにすぎないのです。

ベルクソンの視点からすれば、

波動関数が観測によって収縮するという物語は、持続的生成の流れを、切り取って観測可能な対象にするための虚構にすぎないのです。

もちろん、実験的には波動関数の収縮はある種の現象として、世界のある一面の記述を可能としています。

しかしベルクソンが問うているのは、その背後にある時間と存在の構造そのものなのです。
※ ベルクソンは科学そのものには敬意をしめしています。


ベルクソンは言います。

「我々は動きを空間的な点の連続としてしか考えられなくなっている」と。

これはまさに、現代物理の決定的な盲点といえます。

実験と数式によって時間を支配しようとする科学の知が、実は純粋持続という人間の本質的な時間性を圧殺してしまっているのではないか。

そしてこの問いは、単なる学術的な関心にとどまることではありません。

僕たちの生は、空間的な点の連続ではなく、もっと連続的な、壮大なオーケストラが奏でる音楽のように、言葉にならない流れとしての生ではないのか。


僕たちはこの「二重スリット」の背後で、自らがが切断してしまった流れの感覚と再び向き合わなけれはならないのではないでしょうか。

客観的物理学ではなく、自分自身の身体で深く感じることによって。


最後に、ベルクソンならこう言うでしょう。


「世界を測ろうとすれば、

それは死んでしまう。

しかし世界に身を投げ入れれば、

それは生きて語りかけてくる。」



最後まで読んでいただきありがとうございます。




てはまた。

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