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宇多田ヒカル× KOHH — 静寂の奥に潜む”生と死の力動学”


2016年、AKB48という商業商品が消費音楽を量産し、様々な媒体で垂れ流され、音楽チャートの上位を占め世間を席巻していたその同年、『忘却』という紛れもない純度100%の芸術作品が創作されます。

宇多田ヒカルさんのアルバム『Fantome』に収録されたラッパーKOHHとのコラボ曲です。
元々宇多田さんがKOHHのファンで、話しを持ちかけたところ直ぐに合意し決まったようです。



KOHH(千葉雄喜)


KOHHは韓国人の父親と日本人の母親の間に生まれ、2歳の時に父が事故で他界しています。このショックに母親は精神的に追い込まれ薬物中毒に陥ります。精神病院にも入院していたようで、「夫が呼んでいる」と団地の9階から飛び降り自殺を図ったこともあったようです。後になって祖父から、父親は実は事故死ではないと聞かされて驚いたといいます。死因はうやむやにされたようですが、KOHH本人はオーバードーズによる自殺ではないかといっています。

ママに吸わされた初めてのマリファナ あの時驚いたけど笑う今なら
合法でも非合法でも俺の周りは薬物を使う人が多い それだけの話だ

『Drugs』


「あんな親の子供ならこんな子でもしょうがない」そんなこと言う馬鹿野郎大嫌い
誰が何をどうしたって
どうしようもない母子家庭    
同情するなら金をくれ
嘘じゃない本気だって

『Moon Child』


自身の曲のリリックでも書いているように、このような環境に育った彼が壮絶な人生を歩んだことは想像に難くないでしょう。

そして、宇多田さんも2013年に母親が飛び降り自殺でなくなっています。生前から精神的な病を抱えていたようで宇多田さんはかなり苦労したようです。また日本と海外の往復が多かったようで、自己のアイデンティティー(同一性)の確立が困難だったことが彼女の発言から伺えます。

※宇多田さんについては他でも記事を書いていますので、是非そちらも読んでみてください。


宇多田さんとKOHHというアーティストが繋がったのは偶然ではなく、必然的邂逅であったといえそうです。




それでは『忘却  feat. KOHH』の詞を見てみましょう。宇多田さん自身もトップ3に入るくらい気に入っている曲だそうです。

〈KOHH〉
好きな人はいないもう
天国か地獄
誰にも見えないところ
3歳の記憶
23年前のいい思い出も思い出せないけど
忘れられないこと
汚ないものでも美しく見える
懐かしい声俺から離れ誰かのとこへ
記憶なんてゴミ箱へ捨てる
ガソリンかけて燃やしちゃえ
喪服に着替えお迎えがくるまで
生きてんのは死ぬ為
そんで産まれてくるそれだけ
お墓ん中へ行ければ幸せ
眠る棺桶 刺青だらけこの冷たい手
みんなが泣いてるそんなの最低
そんなの最低
そんなの最低
全部忘れたらいい
過去にすがるなんてださい
もういらない

〈宇多田ヒカル〉
熱い唇冷たい手
言葉なんか忘れさせて
強いお酒にこわい夢
目を閉じたまま踊らせて
明るい場所へ続く道が明るいとは限らないんだ
出口はどこだ入り口ばっか
深い森を走った

〈KOHH〉
足がちぎれても義足でも
どこまでも
走れメロス
口閉じてるけど
開ける目を
強い酒と吐いたゲロ
二度と戻らない
出来ればもう一回
飲んだ唾を吐きたい
男にも二言あり
大好きだから嫌い
会えるんなら会いたい
幸せなのに辛い
俺たちは欲張りまたないものねだり
何もないお願い

〈宇多田ヒカル〉
熱い唇冷たい手
言葉なんか忘れさせて
硬いジーンズ優しい目
懐かしい名前で呼んで
広い世界に未知なるステージ
カバンは嫌い邪魔なだけ
強いお酒にこわい夢
いつか死ぬ時 手ぶらがbest



まさに「悲しみが悲しみのまま、美しさが美しさのまま、届いて来るような綺麗な音楽」です。


まずこの歌詞全体から2人に共通して読み取れることは「反復強迫」が起きているということです。


ジャック・ラカン(Jacques-Lacan)
🇫🇷1901-1981


精神分析家のジャック・ラカンはフロイトの「反復強迫」の概念を再解釈し、「主体が無意識の構造の中で、ある欠如やトラウマ的な出来事を何度も繰り返す」という構図を強調しました。

この反復は意識的な選択によるものではなく、無意識的・構造的に起こります。つまり「忘れようとしても、なぜか同じ痛みを繰り返す」という本質的構造をもちます。

この構造はフロイトが晩年に提唱した「死の欲動」(タナトゥス)とも一致します。

宇多田さんは「母の死」が、KOHHは「父の死」という象徴的喪失(欠如)が無意識の構造下で反復しているということです。

そして2人はこの苦痛をそのまま反復してしまう無意識的領域を静かに俯瞰し、音楽という芸術に昇華することによって自己を繋ぎとめているといえます。
この芸術への昇華が2人の決定的な精神崩壊をせき止めているのではないかとも思えます。

忘れたいがゆえに思い出す、思い出すがゆえに忘れられないという逆説的回路が人の無意識にはあり、そこからは逃がれられないということを2人は理解しているのではないかと僕は思います。

明るい場所へ続く道が明るいとは限らないんだ
出口はどこだ入り口ばっか
深い森を走った

この「反復強迫」という逃がれられないループを見事に表現したリリックです(天才的としかいいようがない)。


しかしこれはなにも否定的なことではなく、「忘却」という行為は、単なる記憶の消去ではなく(記憶は原理的に消去することはできない)、むしろ「記憶と共に生きることの生の芸術」そのものだと言えるのではないでしょうか。

2人にとって音楽とは、死の欲動が昇華される場なのです。そしてその昇華の度に新しい肯定的自己を立ち上げているのです。


足がちぎれても義足でも
どこまでも
走れメロス
口閉じてるけど
開ける目を
強い酒と吐いたゲロ
二度と戻らない

KOHHのこのリリックは、傷だらけになりながらも記憶と共に前へ進んでいくという自己の肯定が読み取れます。


熱い唇冷たい手
言葉なんか忘れさせて
硬いジーンズ優しい目
懐かしい名前で呼んで
広い世界に未知なるステージ
カバンは嫌い邪魔なだけ
強いお酒にこわい夢
いつか死ぬ時 手ぶらがbest

この宇多田さんのリリックも、何とか精神的葛藤を乗り越え記憶と共生し、自身の生きていく世界へ向けての肯定が感じられます。



村上春樹の『ノルウェーの森』(上)の中に

“死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。”

という文章がありますが、まさにこの2人は生をみながら死をみて、死をみながら生をみている
言い換えるなら死に先駆しているといえます。



宇多田さん、KOHHの両者は自我を主体にずらすことで、死者からの呼び声に耳を澄ませます。


エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas)
🇫🇷1906-1995


レヴィナス的にいうならば「語ることなき語り手」「沈黙の中の訴え」ということになります。


死者は問いかける。

「お前は私の死にどう応えるのか?」

「お前は私を忘れずにいるか?」



そしてさらに迫る

「私はいない、だが、私を忘れるな」

「私の死に、無関心であるな」

と。



死者の沈黙は「無言の非難」であり、「記憶の責務」なのです。

死者の呼びかけ(沈黙)は、僕たちが日々見過ごす小さな無関心への声にならない告発でもあります。

「お前の生は、私の死を忘れて成り立ってはいないか?」


ほとんどの人々がこのような沈黙の語りに耳(精神)を傾けることはなく、ただ墓参りにいってりゃいいと思っている。そして資本主義社会という共同幻想に没頭し身を粉にし、主体に帰ることなく死んでいく


しかし、僕はそんな人生は生きない。


そんな人生は糞だ。



この文章、そして今の僕の生き方は死んだ母、そして死んだ幼馴染みの友に向けた僕の応答でもある。


死者は「語らない」ことで、逆に僕たちに語らせる責任を要求してくる。


つまりこういうことだ。

死者の沈黙は、我々に倫理的覚醒をもたらす。



最後まで読んでいただきありがとうございます。



ではまた。


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