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『欠如』を抱きしめる究極の愛――宇多田ヒカル 『FINAL DISTANCE 』のラカン的読解


『FINAL  DISTANCE』

作詞:宇多田ヒカル     作曲:宇多田ヒカル

気になるのに聞けない
泳ぎつかれて 君まで無口になる
会いたいのに見えない波に押されてまた少し遠くなる
途切れないように keep it going, baby
同じ気持ちじゃないなら tell me
無理はしない主義でも少しならしてみてもいいよ
I wanna be with you now
二人で distance縮めて
今なら間に合うから
We can start over ひとつにはなれない
I wanna be with you now
いつの日か distance も抱きしめられるようになれるよ
We can start sooner やっぱり
I wanna be with you
ひとことでこんなにも傷つく君は孤独を教えてくれる
守れない keep on trying, baby
約束通りじゃないけど trust me
無理はしない主義でも
君とならしてみてもいいよ
I wanna be with you now
二人でdistance 見つめて
今なら間に合うから
We can start over 言葉で伝えたい
I wanna be with you now
そのうちに distance も抱きしめられるようになれるよ
We should stay together やっぱり
I need to be with you




『FINAL  DISTANCE』は2001年9月にシングルとして発売された楽曲です。

この時宇多田さんは18歳という若さです。


注目すべきは、この楽曲がきわめて特異な背景を抱えているという点です。




それは同年、2001年6月8日、大阪教育大学附属池田小学校で起きた無差別殺傷事件です。

この悲劇的事件の被害者となった児童の中に、宇多田さんの大ファンである女の子がいました。

当時宇多田さんはアルバム制作中であり、「DISTANCE」という楽曲をすでに完成させていました。

この事件を知った宇多田さんは、深い衝撃を受けます。
ポップで軽快なR&B調であった「DISTANCE」をリアレンジし、弦楽器やピアノを主体にした、厳粛で鎮魂的な雰囲気に楽曲を再構成します。
そして『FINAL  DISTANCE』 というタイトルで、犠牲となった児童とその家族への追悼の意を込めて、シングルカットとして発表しました。

宇多田さん自身が公式サイトのメッセージで、
「歌と映像をほぼ同時進行で制作した」と述べており、従来は歌が完成→後から映像を作るという流れでしたが、この作品では映像の演出も歌と同じように重視して並行して作業を進めた、というコメントがあります。

そして曲のアレンジだけではなく、歌詞の変更もあったのですが、確認すると驚くべきことに次の最後の一箇所だけなのです。

やっぱり  I wanna be with you

『DISTANCE』

          ⬇︎

やっぱり  I need to be with you

『FINAL  DISTANCE』



このことからこの曲はただの男女間の恋愛ソングでもなく、男女間の複雑な関係や想い(例えば不倫)などを歌った曲ではないことが分かると思います。

もちろんそう解釈することもできますし、それは間違っていないと思います。むしろ正しいといえるでしょう。

なぜなら宇多田さんは表面的には男女間の恋愛ソングだと解釈できるように、意図的にそうしているからです。

しかし本質はいつも表層には現れず、深層に潜み続けているのです。


結論から先に言うと、『FINAL  DISTANCE』「DISTANCE」とは単なる心理的、物理的距離のことではなく、人間の欠如=対象aとの距離感を象徴しているのです。
要するにここで問題となっているのは、存在論的な距離感なのです。

僕は『FINAL  DISTANCE』をこう訳したいと思います。

『究極の  欠如をめぐる軌跡』

と。

これはラカン的にいうと、「想像界・(象徴界)」と「現実界」との距離ということができます。





ラカンのボロメオの環
人間の主体は「言葉」や「イメージ」や「表象不可能な現実」が複雑に結び合って成り立っている。



すごく簡単に言うと僕たちが社会(日常)の中に置かれ、体験している自分と他者のイメージや役割「想像界」です。


「象徴界」
は言語、法律、規範、社会的ルールなどで構成される秩序の世界で、こうあるべき、こう振る舞うべきといった社会的制約を提供するものです。
僕たちが日常生活で従ったり、内面化したりしている社会構造にほぼ対応しています。


「現実界」
とは言語化、象徴化できないもので、僕たちの想像や理解の枠を超越したありのままの現実です。

つまり僕たちが「現実」だと思っているこの社会や生活体験の多くは、ラカン的には「想像界」であるという反転が起きています。

一方で「現実界」は象徴や想像では捉えられない、生の裂け目として普段は直接体験、認識することが不可能なリアルそのものです。
(ちなみに映画『マトリックス』は、この想像界・象徴界・現実界というラカン的構造を鮮やかに映し出しています)




精神分析家  ジャック・ラカン(Jacques-Lacan)
🇫🇷  1901-1981


ラカン理論はあまりにも複雑難解すぎるので、理解しているとは到底いうことはできないのですが、僕の理解の及ぶほんのごく一部ではありますが、できるだけわかりやすく丁寧に解説していきたいと思います。(僕自身の思考の整理にも繋がる)


まず、一般的な恋愛といわれているものでは僕たちは相手そのものを愛しているというよりも、実は相手に「自分の欠如を埋めてくれる何か」を見ています。

その「何か」こそがラカンのいう対象aというものです。

相手は完全な存在ではなく、あくまで自分が求めてやまない欠けているものを投影するスクリーンとなります。


ラカンは「欲望は他者の欲望である」といいます。

恋愛においては、相手の欲望の中に自分が位置づけられることを求めます。
しかしそれは決して完全に充足されない。
なぜなら欲望の先にある対象aは決して得られないものだからです。

この満たされない感覚、いい換えるとこの欠如の感覚こそが恋愛というものを持続させるエンジンともなっているのです。

パートナーを見つめるとき「彼/彼女の仕草がたまらない」とか「声が愛おしい」といった細部に惹かれることがありますよね。それは実際の人物そのものというよりも、対象aとして機能しているかけらへの欲望なのです。

だからこそ恋愛はしばしば理想と現実の齟齬を含み、幻滅や執着を生みます。


ラカンの有名な言葉で「性関係は存在しない」という大胆な言葉があります。

これは男と女が完全に一体化することは不可能であり、そこに対象aが介在しているからです。

恋愛はその不可能性のまわりを旋回する営みであり、対象aがその軌道の中心で駆動していると言えます。


さて、ここから男/女という空疎な社会的ジェンダーの概念を捨てていきましょう。

代わりに自我/超自我という概念に置き換えます。

先にみた「男と女の完全な一体化の不可能性」という箇所を、自我と超自我 (他者)の関係に変換していきます。


「自我と超自我(他者)の完全な一致は不可能である。」


この超自我は、イコール他者としても考慮してください。

自我は常に同一化や調和を希求します。
ひとつになりたい、完全に理解されたいという欲望は、自我的な要求といえますがその願いは常に挫折する運命にあります。

超自我(他者)は満たされることのない命令を下します。ラカンの言葉でいえば「楽しめ!享楽せよ!(Jouis!)」という命令です。

他者(超自我)は批判や禁止の命令だけでなく「もっと接近せよ」、「もっと一体化せよ」といった圧力をかけて自己(自我)を苦しめるのです。けれど実際には一体化は不可能なので、命令に従おうとすればするほど欠如は露呈していきます。

自我は一体化という理想像を求めますが、
超自我(他者)は、それでもまだ足りないと命令します。

そして両者の間で生じるズレや裂け目を埋めるかのように対象aが機能していわけです。

だからこそこの両者の関係はつねに欠如を抱えたままの循環になるのです。




見事に「distance」を描写したショット
わたしはアナタで、あなたはワタシ


さて、重要なところなので長くなりましたが、この辺で『FINAL  DISTANCE』の詩をみていきましょう。


気になるのに聞けない
泳ぎつかれて 君まで無口になる

冒頭のこの箇所は、欲望のもどかしさのようなものが描かれています。主体(≒自我)は相手に近づきたいが、君=他者の欲望は見えず、距離は広がっていきます。

ここでの距離=distanceは、すでに「対象aの欠如」として現れています。


会いたいのに見えない波に押されて
また少し遠くなる

欲望(対象a)の追求が常に横滑りする構造を表現しています。対象aは決してつかめず距離は埋められないからです。
ここで欲望はdistance(対象a)を埋めるために動きますが、満たされることはありません。


途切れないように keep it going, baby

それでも自我(≒主体)は欠如との共存を試みます。欲望の動きは決して途切れません。

distance(対象a=欠如)そのものを抱えつつ、関係を維持しようとする肯定的姿勢がみてとれます。


同じ気持ちじゃないなら tell me

他者の欲望を知ろうとする試みがみてとれます。
ラカン的には欲望は他者の欲望に依存するため、常に確認を求めることは避けられないのです。



無理はしない主義でも少しならしてみてもいいよ


超自我(他者)の「もっと一体化せよ」という不可能な要求を拒否しつつも、その幻想の甘美さを部分的に許容するというニュアンスが読み取れます。(本当に見事な表現だと思います)

つまり完全な合一は不可能と知りつつも、少しならその幻想に浸ることを自分に許すという態度の表れです。
これは「現実界」における欠如を引き受けながらも、「想像界」の幻想を遊ぶ余地を残す態度ととれます。つまり成熟と幻想の二重性を抱えた選択であり、この二重性の許容こそが人間的であり、愛の実践が持つ社会的現実の複雑さを示しています。




🪞 自我 ⇄ 他者(=超自我) 🪞
相手(他者)の声と超自我の声は分かれているのではなく、写し鏡のように反転して同じ軌跡を描いている。



そしてここからサビに入ります。鳥肌が立つほど印象的な箇所です。

I wanna be with you now


欠如としての自我は自分の内部にあり、常に満たされません。その欠如を他者に向けることで、対象aとの距離が生まれます。

ラカンは「愛は持っていないものを与えること」と言っていますが、これに照らし合わせると

“I wanna be with you now”は、

自我が欠如そのものを差し出す行為と読めます。

欠如を抱えたまま他者と共に在ろうとする瞬間、それがラカン的究極の愛の瞬間になるのです。


主体(≒自我)は常に欠如を抱えています。

あなたもまた欠如を抱えています。


「私の欠如(I)はあなたの欠如(you)と一緒にいたい」と歌うことで、単なる欲望の共有ではなく、欠如同士の共振としての関係が描かれているのです。

I wanna be with you now


とは自我(≒主体)の欠如の告白であり、同時にその欠如を他者と共有しようとする人間のもっとも根源的な愛の表現ということになります。


このことは次に続く歌詞で見事に表現されています。

二人で distance縮めて
今なら間に合うから

distance=欠如(対象a)を埋めて消すのではなく、縮めるという共に生きる試みが現れています。
欠如を否定するのではなく、決して満たされない距離を共有するラカン的愛の瞬間です。




自己の内に響く「音のない叫び」「存在しない存在」「完全な欠如」


We can start over ひとつにはなれない

完全な一体化の不可能性を率直に表現すると同時に、欠如を抱えたままの関係が愛の本質だということを示しています。


いつの日か distance も抱きしめられるようになれるよ

欠如(対象a)を肯定的に受け入れる姿勢がみてとれます。ラカン的愛の究極形、欠如を贈り物として相手と共有することの想いが強く読み取れます。


最後に、あの悲劇的事件の後に唯一変更された箇所をみていきましょう。宇多田ヒカルというアーティストが、類い稀なる本物の天才であることがわかると思います。

やっぱり  I need to be with you


DISTANCE(アルバム版)では、

“I wanna be with you ”だった歌詞が、

FINAL DISTANCE(シングル版)では

“I need to be with you”に変更されています。


“I wanna…” = 「〜したい」 という表現には、願望や希望を示す軽やかな響きが残ります。

“I need to…” = 「〜しなければならない/どうしても必要だ」 とすることによって、切実さ、存在の根源的な必然性を示す表現へと変化します。


つまり、「wanna(願望)」「need(存在の必然)」に変わることで、ポップで恋愛的な距離感から、いっきに切実で取り返しのつかない必然的必要な距離感へとぐっと深まっています。

ここでいう存在とは存在者ではなく、存在そのものを指しています


「wanna → need」の変更は、単なる言葉の差ではなく、主体(≒自我)の欠如感・必然性・喪失体験を象徴する深い心理的・存在論的変化をもたらし、結果として恋愛的distanceから、事件の悲劇と結びつく切実で祈りに近い宿命的distanceにまで昇華されています。



『FINAL DISTANCE』は、欲望のもどかしさや距離の不可能性を嘆く歌ではありません。
それは欠如を否定したり距離を消し去ろうとするのでもなく、むしろ欠如と不完全性という距離を抱えたまま他者と存在を共にし、その欠如を抱きしめながら存在そのものを肯定するそのような究極の関係(愛)を描き出しているのです。


“愛とは、欠如の名において

他者に語りかけるものである”


                            — ジャック・ラカン



最後まで読んでいただきありがとうございます。



是非もう一度、自己の疎外的、分裂的世界観を見事に描いた『FINAL  DISTANCE』の芸術的なMVをじっくりと見直してみてください。

きっと涙なくしては見られない、そんな思いを抱く人もたくさんいるに違いありません。

解釈も発見も受け取る人の数だけ重なり合い、胸に刻まれ無限に広がってゆくことでしょう。



ではまた。




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