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「現代うつ」と「資本主義のディスクール」の構造について考える


ジャック=マリー=エミール・ラカン
Jacques-Marie-Émile Lacan🇫🇷
(1901年 - 1981年)


さて、まず現代的な「うつ」と資本主義の関係について書くことにあたり、精神分析家ジャック・ラカンの「ディスクール(語らい)」という概念からみていきましょう。ラカンは「あらゆる主体の決定、そして思考の決定はディスクールに依存している」と言っています。ここでラカンは社会を支配しているもの=言語langageのあり方がどのようなものであるのかを明らかにしようとしています。


ラカンによる四つのディスクール

ラカンは上の図の通り、四つのディスクールを提言していますが、その中でも「主人のディスクール」「大学のディスクール」の二つに重きを置き進めていきたいと思います。



 このディスクールの図式は、真理・動因・他者・生産物の四つの位置に、主人のシニフィアン(意味するもの)=(S1)、知(意味されるもの)=(S2)、斜線を引かれた主体=($)、対象a=(a)の四項がどう配置されるかによって、それぞれのディスクールが決まります。基本的な流れとして「真理」によって「動因」が「他者」に働きかけ、結果「生産物」ができるという流れです。
ここで「真理」と「生産物」の間に遮蔽線(//)があり「真理」が隠蔽され不問になっているということが重要となります。



では「大学のディスクール」をみていきましょう。
これは「大学」となっていますが、例えば大学以外の学校、家庭(親子関係)、企業などにも当てはまります。教師と生徒という関係でみるとわかりやすいと思うので当てはめてみていきましょう。
教師というのは普遍的な知(S2)を話しているようにみえますが、その知(S2)はなんらかの権威としての真理(S1)に支えられています。ここでいう権威とは教科書に書かれている内容であり、それを検定している文部科学省を考えるといいでしょう。S1とS2を分断する横線は、教師の知を支えている権威の存在(S1)が抑圧され、不問にされていることを意味します。
このことが「学校教育幻想」を生む根源となっていると僕は思っています。

そしてこの知(S2)が話しかける先が、生徒
(a)となります。この教育の結果、人間は斜線を引かれた主体($)として生産され、真理から遠ざかることになります。

超優秀といわれる官僚などを思い浮かべてみるといいと思います。システマティックにロボットのように知(S2)に従って正確に駆動する斜線を引かれた主体($)たち。この社会でいわれる「優秀な人たち」とはそういうことです。



次に「主人のディスクール」をみていきましょう。
この「主人のディスクール」は、上の「大学のディスクール」の位置関係を右回りに一個ずつずらした図であることがわかると思います。

この図は主人と奴隷の関係という図になっているのですがここも上同様、教師と生徒という関係でささっとみていきましょう。

教師(S1)が→生徒(S2)に働きかけ→生産物(a)が生み出されます。ここで生産物とは能力の育成だったり資格が取れるだとかを考えるといいと思います。そしてここで重要なのが教師も生徒も斜線を引かれた主体($)である、言い換えるなら分裂した主体であるということが(//)によって隠蔽されているということです。このようなことが僕たちの社会という中で実際に日常で起きていることなのです。

この二つのディスクールは密接に絡み合っていて、僕たちは「主体性を持って!」などと息巻いて語ったりしてますが、このような本質的な社会構図をみると「主体性(S)」なんてものはないということがわかると思います。「無い」というと語弊がありますが、主体とは禅でいう「空(くう)」であると考えてください。ラカンは「主体」と「自我」を分けていますが、一般的に僕たちが私だと思っているのは「主体」ではなく「自我」の方です。自我というのは他者によってつくられた虚像にすぎず、僕たちは鏡を見ている自分自身を知ることはできない。知ることができるのは鏡の中に映った自分(自我)だけなのです。


次に、この四つのディスクールにプラス1された「資本主義のディスクール」をみていきたいのですが、その前にマルクスの剰余価値説を簡単に復習します。

労働者は自分の労働力を商品として資本家に渡し、その対価として賃金を受け取ります。この流れは通常自由意志にもとづく等価交換であるはずなんだけど、労働者は搾取されてしまう。なぜなら、労働力の使用価値である労働によって生み出される価値は、労働力の価値よりも大きくなるからです。この増大した部分の価値が剰余価値と呼ばれます。労働力という商品は、その使用価値を超えた価値を生み出す特殊性を持っている。そして資本家はその剰余価値を労働者から搾取して、自身の資本を増殖させていきます。

ラカンはこのマルクスの剰余価値論を、「主人のディスクール」の構造に当てはめて読み替えていきます。

主体(S)が市場(象徴界)に参入するためには、学歴や素養、体力などをアピールして、自分(S)を労働者としての使用価値(S1)によって表さなければいけません。一般企業などのくっそアホみたいなくそ面接の場を思い浮かべるといいと思います。しかし、労働者としての使用価値(S1)は、労働の成果としての商品の交換価値(S2)にならなければなりません。なぜなら資本家にとってそうなってもらわないと意味がないからです。
さて、ここが残酷なとこですね。使用価値と交換価値に取って代わられた主体は、剰余価値(a)を搾取された斜線を引かれた労働者($)になる運命を辿ります。

ここでラカンは剰余価値(a)を「剰余享楽」という用語で読み替えています。
僕たち人間は象徴界(言語・記号界)に参入することにより、なんらかのシニフィアン(意味するもの)に代替えされざるをえません。そしてそのことにより、「享楽」という何かを決定的に喪失してしまうのです。この「喪失」をラカンは剰余享楽と呼び、これが人間の思考、行動を決定しているといい、個々人がそれぞれの仕方でこの「喪失」との関係に苦しみ、その結果様々なかたちで「症状」として表れてくるといいます。

ここで「享楽」という語が出てきますが、これがまたかなり厄介な概念です。

ラカン派の主力であるミレールは、「享楽」とは子どもがはじめて言語と出会ったときに生じた衝撃としての「身体の出来事」としています。
しかし象徴界に参入した僕たち人間はこの「享楽」にはもうすでに到達不可能であり、ラカンのいう「現実界」のものとなります。この享楽への断念、否定によって別種の享楽が生み出されることを(否定するからこそ表れるもの)、ラカンは「剰余享楽」といい表しています。

ラカンのこのような読み替えは、僕たちは資本主義の奴隷であると同様に、剰余享楽の奴隷でもあるということを示しています。

ラカンはいいます。

歴史の進展が奴隷を何から解放したのかよくわかりませんが、確かなことがひとつあります。それは、〔歴史の〕あらゆる段階において奴隷は鎖でつながれているということです。救出のあらゆる時代にあっても、奴隷は剰余享楽につながれているのです。

奴隷制は現代でも剰余享楽という目にみえないかたちで続いているのです。僕たちの知らぬまに、ちびくろサンボで木の周りをぐるぐるまわってバターになっちゃったトラくらいのスピードで活動しているのです。それは労働者が知らぬまに搾取されている、マルクスの剰余価値説とちょうど対応しています。

しかし、現代のグローバル化した資本主義社会を主人のディスクールで論ずるのは少し無理があります。もうブルジョワによるプロレタリアからの搾取という構図で考えるのは無理があるし、マルクスの時代でさえこの図式のようになっていたのかというのは疑わしいと僕は思っています。確かに垂直的に切り取ってみればそうみえてしまうし、そうなってもいる。それが僕たち人間の思考の癖のようなものだし、ものの見方だからです。しかしもう社会というものを垂直的にみるには限界があるし、この思考法は常に疑った方がいい(僕が思うに陰謀論者は常に極端にこの思考しかもっていない)。
現代の資本主義社会においてある特定の黒幕なるものたちが裏に潜んでいて、何かを操っているという考え方には無理があると僕は思っています。

なぜなら一人残らず、全員が「剰余享楽」(消費)という終わりなき出口のないシステムに絡めとられているからです。

ラカンは主人のディスクールは、より現代的なものに書き換えられなければならと考え、五番目のディスクールである「資本主義のディスクール」の図式を示します。


上の図左が「資本主義のディスクール」になります。主人のディスクールの左側の上下が入れ替わっていますね。追加された矢印↓にも注目してください。(a)と($)が実線→でつながり、無限大∞の記号のように循環してる様子がみてとれます。左上に主体($)があるのは、ヒステリー者のディスクールと同じです。左下に(S1)があるのは大学のディスクールと同じです。右側に関しては主人のディスクールと同じです。
これをみると、資本主義のディスクールが主人のディスクールを基盤として、そこにヒステリー者のディスクールと大学のディスクールが組み合わさっていることがわかります。

このことは資本主義というものの倒錯性を顕著に表しています。僕たちが絡めとられているシステム自体が既に倒錯しているのです。


現代の労働者($)は、ヒステリーの主体のように日々の生活について不平不満をぶちまけるけど、その不平不満は計算可能な資本主義のアルゴリズムによって支配される知(S2)という他者に回収される。僕たちの不満はビッグデータによるマーケティング、統計学によって処理され、終わりのない平均化された製品の消費(a)が永遠に続く。

まさに

「エンジョイ(享楽)!コカ・コーラ!」

飲んでも飲んでも僕たちの渇きが潤うことはないのです。


そしてラカンはこの倒錯した資本主義からの脱出の可能性として、精神分析家のディスクールを位置づけています(分析家自らが対象aの位置を占める)。比べるとわかりますが、精神分析家のディスクールと資本主義のディスクールは共通する特徴を一切もっていません。

今だからこそ、現代の社会にはラカンの精神分析が必要なんだと僕は強くいいたい!


「消費せよ」、「露出せよ」という資本主義のディスクールが氾濫する時代の中で、僕たちは自らの欲望の対象に到達できるという幻想をいだき惑わされます。そこから僕たちは一種の強制された消費を繰り返し(時計だの車だのバックだの化粧品だの...)、もう欲望の原因がなんであるかもわからない、
排除された主体となってしまうのです。


このことが現代的なソフトな「うつ」(精神病とも呼ぶべき状態になるいわゆるメランコリーではない)と強い相関関係をもっているのは間違いないでしょう。

精神医学者でもあり哲学者でもある松本卓也氏は次のように言います。

『私たちは、ラカン的な見地から次のように言わなければならない。「新型うつ」などと呼ばれ、個人の側の「怠け」や「甘え」として捉えられている「病」は、現代のグローバル資本主義のディスクールの倒錯性が生み出したものなのだ、と。
問わなければならないのは個人のパーソナリティや脳の脆弱性ではなく、彼が職場と、そして広義の経済システムとのあいだに結ぶ社会的紐帯のあり方なのだ、と。
このような「うつ」が「うつ病」と呼ばれ、個人の「脳」が治療の対象とされることに何の疑いももたないような医学言説は、資本主義のディスクールが行う狡猾な「欲望の搾取」を不問にし、隠蔽してしまう。現代の「うつ」を一種の労働問題として捉えることの価値は、おそらくはそれが私たちの生きる享楽社会の問題を照らし出してくれるところにある。』

僕たちはこの倒錯した社会の中で、どのような位置にいるのかを知る必要があるし、知るべき(教えてもらうべき)だと僕は思います。そのためには「学ぶ」ことが必要だし、その「学ぶ」ことというのは一種の自己破壊でなければならないのです。
その上で如何にしてこのディスクールから脱出するかを思考する必要があるでしょう。

「空(くう)」である主体の呼び声を聴く努力、それは一瞬であるかもしれない、いや、その一瞬は永遠なのかもしれない。

僕にはわからない。

でも僕はそのような努力をして、今という持続の中を生きていきたいと思っています。

どこにつながるのか、どこで途切れるのかわからない逃走線を引くこと、まさにそれが僕の人生であり、それが僕の

セルフディフェンスなのです。

最後はラカンの言葉で締めくくりましょう。

「人はみな狂人である」




〈参考テキスト〉

・『享楽社会論』— 松本卓也
・『人はみな妄想する』— 松本卓也

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