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第9回展示会報告(中)「戦前80年展ー戦後80年の今、あえて戦前80年(ぐらい)を見るー」

 展示会の壁面展示の続きです。会場に展示したパネル、全部撮影したつもりでしたが、こちらは撮影していませんでした。それだけ量が多かったということで、こちらは準備段階の写真でご勘弁ください。

 パネル9枚目。第一次世界大戦後の不景気や疲弊状態を伝える資料です。不景気と軍縮で、将校の就職斡旋依頼や、現役兵が召集されて家業が立ち行かなくなったので「ほかにも帰休兵が多い」と聞くとして、村長からの帰休願い願いなど、軍隊の維持も困難な状況になっていたと分かります。
 また、度重なる戦争で多くの廃兵(後の傷痍軍人)が生じ、日露戦争で足や目を失ったがわずかな追加恩給ではやっていけないと抗議行動をした様子1922(大正11)を紹介。戦争の影の部分を示しました。そして昭和に入り、こうした勝ち負けに関係なく人々を不幸にする戦争をなくそうと、「国策遂行の戦争」を認めない「不戦条約」が日本も参加して1939(昭和4)年に発効しました。既に中国の主権確認と門戸開放の機会均等を決めた列国による「九か国条約」が日本も参加して1922年に批准されており、帝国主義の時代も変化し始めていました。

帝国主義時代の変化を伝える

 パネル10枚目。しかし、日本は日露戦争や第一次世界大戦時の21か条要求で得られた権益を守ろうと、蒋介石率いる国民革命軍の北上を阻止するため、山東半島への3回の出兵を繰り返し、この間の1928(昭和3)年に起きた済南事件では満州に駐屯していた歩兵第50連隊も出動し、国民革命軍阻止の戦闘で多数の犠牲を出しています。済南からは天津を経て北京に到る最短距離であり、ここで時間を稼いでいる間に、当時北京で実権を握っていた張作霖(日本の支援を受けていた満州軍閥)の延命を狙って居ました。
 ただ、張作霖自身は日本から距離を置きつつあり、そうした微妙な間隔を感じ取った満州駐屯の関東軍は、蒋介石の北伐が満州に及ぶのを恐れ、早めに張作霖を脱出させて満州の奉天に戻る途中で爆殺事件を起こします。関東軍は、これを国民革命軍の仕業として混乱させ、一気に満州を武力制圧する狙いでしたが、死が伏せられてタイミングを失い実行できませんでした。

 しかし1931(昭和6)年9月18日、今度は自ら満鉄の線路を爆破して、これを張作霖の息子で反日姿勢を明確にしていた張学良の仕業と装い、一気に満州を占領します。この時は朝鮮に配置した陸軍が無断で越境する事件を起こしますが、こうしたことがトップにとがめられず、現地に「何をやっても結果を出せば良い」という暴走の意識を広めてしまいます。
 展示は当時の新聞が中心ですが、国際連盟からの休戦提議も受け入れず、それでも「自衛の戦闘」という無茶な状況で無理を押し通します。

10枚目のパネル。済南事件に出動した50連隊、満州事変勃発、国際連盟の介入など

 パネルは11枚目。国際連盟は、あくまで日本を列強の一角につなぎとめておこうと配慮し、リットン調査団派遣が決定されます。その調査中、関東軍による満州への独立国建国を嫌い、地方の傀儡政権にとどめて国際的な批判をかわそうとした犬養毅首相が暗殺される五・一五事件が勃発。そしてリットン調査団の結果報告前に、日本は満州国を国家と承認し、日満議定書を調印します。この取り決めにより、日本は軍隊をいくらでも満州に配置し、軍事行動を行い、資源開発や鉄道敷設ができるようになります。

 こうした一連の行為は国際連盟に集う各国を刺激。それでも満州事変は中国軍の仕業とは考えられないとし、満州国も国民が望んだものではないという調査結果に沿いつつ、満州の主権を中国に認めながら、日本の特殊な事情も汲んだ自治組織を作り、日本の意見も十分取り入れて運営するという帝国主義国家日本に配慮した勧告案をまとめます。しかし、日本国内では国際連盟への意識も低く、脱退を支持。結果、勧告案の賛成者は日本だけという42対1の総会決議を受けて、日本は国際連盟ー列強の互助ーから飛び出し孤立の道を走ることになります。

11枚目。五・一五事件の速報や、国際連盟総会の結果を報じる号外など

 12枚目のパネルは、そんな日本で国内がどうなってきたかを紹介。天皇の神格化・権威化が進むとともに、戦争に勝ち続けて日本を引っ張ってきたという慢心も軍の中に現れます。在郷軍人でつくる信州郷軍同志会は、信濃毎日新聞の主筆桐生悠々を社説「関東防空演習を嗤う」を手掛かりに不買運動の圧力をかけて追い出し、正式な機関誌を創刊するなど、政治や世論への働きかけを公然としていきます。パネルには、その創刊号を掲示しました。

 そして天皇親政を求めるクーデター二・二六事件が1936(昭和11)年に発生。この戒厳令を利用して、陸軍は広田内閣成立に圧力をかけつつ、軍部大臣現役武官制を復活させます。この効果は、軍を退役した人を陸海軍大臣にできないことから、武力集団である陸海軍は、大臣を出さなければ気に入らない内閣をつぶせるという力を再び手にしたことを意味しました。そして、その効果は宇垣内閣を流産させるという形で発揮されています。

12枚目。信州郷軍創刊号や軍部による「宇垣内閣潰しの報道などを掲示

 13枚目のパネルは盧溝橋事件に端を発し、日中戦争に拡大する経過を示しました。事件は、これまでに見てきた軍部の力の増大を背景として発生しました。日本軍は清国時代の義和団事件鎮圧による北清事変で中国への駐兵権を得ていましたが、満州国に隣接する中国の華北地方を満州国同様、中国政府から分離させて傀儡政権を作る工作を進めるため、列国に無断で軍を増強します。この増強された部隊が北京郊外に駐屯地を構え、現地の中国軍と接するような形となり、その中で行われた夜間演習の際、おそらく中国軍側からびびったか、警告かの射撃を受けたのが盧溝橋事件です。
 指揮していた現在の長野県高森町出身の一木清直は上官の牟田口廉也に経過を報告し、交渉の前に「攻撃してよいか」問い合わせます。一木は、現地の判断としてはそうなるが、国際関係を考えればトップは止めるだろうという、手順を踏んだにすぎませんでしたが、牟田口は攻撃を許可します。驚いた一木は「本当にやるとなると国際的な問題になりますが、本当にやってよろしいんでしょうか」と聞き返し、牟田口は重ねて攻撃を支持します。こうして、泥沼の日中戦争に突入していくことになります。政府も国家総動員法により、この際徹底的に中国を痛めつけ反省させようと後押しします。これが日中戦争の目的であり、対華21か条要求以来繰り返してきた中国侵略の延長にあるのです。

13枚目。盧溝橋事件、海軍の南京爆撃、政府の同調や労働団体の弾圧、その中で販路拡大を図る新聞社のチラシなどを入れました

 14枚目のパネルは、最初は連戦連勝の勢いに浮かれる国内の様子を示すとともに、初めて経験する長期の全面戦争で消耗していく様子を示しました。

軍需景気で軽井沢の別荘が売り出される一方、物資不足の値上げ、節米呼びかけも

 そんな時代に発売されたこちら、世界興亡図。日本が万世一系の天皇によって続いてきた最古の国であること、神の国であることを示す掛け軸です。こうしたものがあふれ、日本が世界の潮流と離れるのも当然のことと独尊感情を植え付けます。その影響は、形を変えつつ、現代まで残っています。

修養団発行の世界興亡図。都合よく南北朝の表記を操作するなどしている

 そして、物資不足は1940年の北部仏印進駐に伴う米国の屑鉄禁輸など、軍事優先の政治のため、拍車がかかります。金属回収は、そうした中で国家総動員法に基づいて金属類回収令が1941(昭和16)年に出されます。今回の国策紙芝居は、この金属類回収令を受けた「甦る鐘」を取り上げました。

金属回収を迫る町議は、人々の心情など国の為に犠牲になるのが当然という姿勢で、来場者からも嫌われていました

 関連で、同時期のポスターも掲示しました。

 こちらは1940年1月の少女倶楽部附録の双六。女児も戦争にどんな協力ができるかを示しています。そして中国人と仲良い兵隊というプロパガンダも仕込まれています。

1940年の少女倶楽部附録

 そしてこちら、翌年の少年倶楽部1941(昭和16)年新年号の附録で、表は共栄圏地図(日、満、支)、裏が兵隊への慰問はがきの手本集。この年は年賀状の特別取り扱いが取りやめになったため、年賀状の手本になるところがこのようになっています。そして、この附録は少年倶楽部の戦前最後の附録となり、物資統制、物資不足の厳しさを示します。

1941年の少年倶楽部新年号附録。戦前最後の付録に

 だんだん米国との衝突が危惧されるようになる中、当時の国粋同盟総裁笹川良一に連合艦隊司令長官山本五十六が送った手紙には、一度米国と戦争になれば、それはワシントン占領までいかねば終わらないが、政治家にその覚悟はあるのか、自重されたし、といった内容がありました。開戦直後、この手紙のその肝心の政治家の部分が欠けた状態で発表されました。こちらは完全な手紙を1943(昭和18)年に笹川が全国の学校に送ったもので、こちらは長野県の赤穂農商学校の収蔵物です。危機感を示していた人もいたことを伝えたいとここに掲げました。

山本五十六の手紙

 しかし、1939(昭和14)年の第二次世界大戦勃発は、日本と同様、国際連盟井を脱退し、軍事同盟も結んでいたドイツが戦勝を重ねます。1941年秋にはモスクワ近郊に迫り、こうしたドイツの動きが日本の海戦決意に影響を与えていきます。

ドイツ軍によるパリ陥落速報用の張り出しや新聞報道をパネルに

 そして15枚目のパネル。南部仏印進駐を取り上げました。太平洋戦争開戦の一番のきっかけといえば、日中戦争継続のための資源獲得を南方に求める狙いで行った南部仏印進駐でした。仏領インドシナ全域に進駐した日本軍は、同地を解放するではなく、フランスとの二重統治を続け、基地利用だけ行います。大東亜戦争と称するものの欺瞞性を、この二重統治が示しています。この結果、米国やオランダの石油禁輸、英国の日本資産凍結といった、予想以上の強固な経済制裁を受け、特に海軍がパニックになり、開戦への道を突き進むことになります。

15枚目のパネル。南部仏印進駐の報道や長野県の金属回収など

 最終16枚目。太平洋戦争突入後のじり貧を軸にしました。火薬原料の綿の回収、木造軍用船のための木の供出、そして犬の供出まで。占領地では軍票を無尽蔵に発行し、インフレで人々を苦しめた様子も伝えました。

 この16枚目のパネルで出てきた、飛行機の潤滑油「ヒマ」の栽培を題材にした国策紙芝居を並べました。

1944年8月の作品

 そして壁面の最後は松根油のポスター。とにかく、何かやっていれば戦争への不安が和らぐというだけの、無謀な取り組みでした。松根は掘っても乾留窯がない、乾留窯ができても、松根油をためる容器がない、容器が手配できても運ぶ貨車が確保できない、そして期待のプラントは空襲で破壊され、一部、増量剤となっただけで、まともに生産はできませんでした。

女性と子どもが主力のポスター

 これで壁面の展示は一通り終わりです。次回は、器物の展示を紹介させていただきます。
           ◇

 こちら続きの(下)です。

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