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第9回展示会報告(上)「戦前80年展ー戦後80年の今、あえて戦前80年(ぐらい)前を見るー」

 2025年8月13日から20日まで、長野県長野市のギャラリー82で開いた信州戦争資料センターと八十二文化財団主催の展示会「戦争80年展」を開きました。県内外から400名余の方においでいただきありがとうございました。
 一方、さまざまな事情から来られなかったという方もおられますし、次は行ってみるかと覆っていただく狙いもあり、展示の状況を詳細にお伝えします。一点ごとの写真とはいきませんが、会場を訪ねた雰囲気を感じていただければ幸いです。今回、量が多いので、3回連載でご紹介させていただきます。準備した感想ーやはり80年は長かった…。
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展示会場全景

 ごらんのような会場です。右手から順次回って壁際の展示を2回に分けてご紹介し、最後に3つのアクリルケースと長机上の展示の説明をしたいと思います。

 まず、最初にお出迎えするのが敗戦の80年前、慶応元(1865)年に信濃国西条村(現・長野県中野市)の豪農が作らせたまな板です。今から160年前、敗戦まで80年という時間を感じてもらう一つの材料として展示しました。が、ごめんなさい! 諸事情から展示は3日目からとなっています。ので、説明文も合わせてどうぞ。

慶応元年の年号が残る。表側の使い込まれた様子も見られます

 このあとあいさつがありますが、既に記事にしましたので、まず目につくこちら。神武天皇の人形です。明治新政府が新政府として実権を握ったのは、天皇を背後に据えたことが大きかったため、以後の日本政府が天皇親政の形を取るのは、そこが起原と説明し、何度も象徴的に天皇が登場し神格化する経緯で登場するため、まず説明しました。

神武天皇人形

 最初のパネルは、下関戦争を伝えるロンドン絵入り新聞。1864年と敗戦の81年前になるのですが、長州藩がこの戦争を境に攘夷から開国・討幕へ変わるきっかけであり、諸外国と日本の関係の開始を象徴するものだからと選びました。合わせて戊辰戦争のうち、現在の長野県で唯一行われた「飯山戦争」を太政官日誌の記述で紹介しています。

松代藩など、信濃国の諸藩が新政府軍に加わり長岡藩を攻めたことも紹介

 2枚目。中野騒動と徴兵制導入。新政府は旧幕府と旗本の領地を新政府の領地とし、府県を置きました。廃藩置県までは、各藩の財政や政治運営は各藩のもので、新政府の特に財源は府県の年貢によるものでした。財政が不安定なので、増税と実収を早く上げる方針を示したため、現・長野県の北部にあたる中野県では、隣接する松代藩などの一揆が成功したのをみて(藩独自の処置が可能だったーのちに新政府の指導で反古にされるが)、兵力もない中野県庁を襲いますが権知事に逃げられ、一揆勢は焼き討ちを繰り返します。新政府としては威信にかかわることから、徴兵3中隊を差し向けたとありますが、まだ徴兵告諭が出たばかりのころで、手許にいた佐賀藩兵約600人を差し向け、各藩の協力も得て一揆参加者らを摘発、自白もない中で刑罰を強行しているのも、新政府の面子の問題でした。
 パネルでは、徴兵の詔、徴兵告諭、初期の「鎮台兵」に徴兵された長野県の方のくじ、徴兵適齢者を登録するよう指示する長野県の資料を並べました。

明治政府が直轄軍を得る前に起きた中野騒動と、その後の徴兵の動きを説明

 パネル3枚目。征韓論が内政優先として破れたのに、江藤新平を佐賀の乱に絡んで死刑にすると、しばらく前の琉球島民が台湾で多数殺害されたことを口実に、1874(明治7)年、台湾に明治政府初の出兵を行います。この結果、清国から賠償を得ることに成功。そして廃刀令などで各地で士族の乱が起きますが、徴兵の鎮台兵が制圧。1877(明治10)年の西南戦争で内戦が終結します。
 展示では、西南戦争から始まった戦争錦絵、征台の役と西南戦争の関連資料を長野県のものを含め紹介。靖国神社となる東京招魂社に西南戦争の政府軍を合祀し、西南戦争終戦の日に慰霊祭を執り行うとの資料もあります。

戦争錦絵は、事前に描かれた西郷隆盛討死の図
参考資料として、太平洋戦争当時に海軍で使っていた軍人精神注入棒をパネル前に展示

 パネル4枚目。憲法発布が1889(明治22)年です。いくつも作られた憲法発布と天皇を絡ませる錦絵の一枚を入れました。空が赤いのは瑞雲を表す演出であるとみられます。そして1886(明治15)年の万国赤十字条約加盟関連で明治10年代の長野県での勧誘資料、国産兵器開発に伴う工廠への雇い入れなど、さまざまな戦争準備が進みます。1894(明治27)年の日清戦争の開戦の詔書は、天皇の権威を利用した資料として出しました。

戦争準備と憲法制定で近代国家の様相固まる

 パネル5枚目。日清戦争は、二度目の外征ですが、国家同士の初の戦争であり、軍事公債の初の発行もありました。戦争錦絵が爆発的に売れていますが、新聞報道も従軍記者が登場して伝えます。長野県関連で軍事公債購入希望、出征兵士の家の支援、軍事資金寄付などの資料を提示しました。

戦争錦絵はリアルさと妄想がないまざっていました

 続いて、1904(明治37)年に日露戦争が勃発します。日清戦争、日露戦争とも、朝鮮半島の支配権をめぐる戦でした。明治期の日本の対外進出は、国防の前衛として、また、生産の拠点として、韓国をいかに日本に取り込むかが当初の国策であり、課題でした。ここに、日露戦争の開戦の詔勅と明治天皇ら皇族を描いた掛け軸を入れました。

製作時期不明ですが、流れから日露戦争のところへ入れました。小諸市の方からの寄付

 6枚目パネル。日露戦争を新聞の速報や附録で紹介。速報や写真の普及で、戦争錦絵はすたれていました。

日付を入れずに用意した号外、赤文字の号外など、目立つ工夫に力を入れて

 パネル7枚目。日露戦争の結果を、新聞報道の条約で紹介。日本は新日英同盟で英国から韓国の支配権を認められるとともに、英国のインドの支配権を認めています。そして日露戦争中から進めた韓国併合に向けた動きを戦後に加速させ、1905(明治38)年には外交権を奪い、1907年には全権を掌握し軍隊を解散、日本に反発する閔姫殺害という謀略も経て、1910(明治43)年に韓国を併合します。資料では戦死のため返送されたはがき、韓国併合祝賀行列の絵はがきや韓国併合を祝うデザインの年賀状で、そんな時代の変わり目を示しました。

手紙や絵はがきも時代を伝える重要な資料

 少しパネルから離れた場所に置きましたが、1897(明治30)年の民間煙草のポスター。絵柄は当然、軍のあやかりですが、煙草の専売制は1904(明治37)年、日露戦争中に始まりました。当然、軍事費の確実な確保を狙ってのことでした。

明治30年民営煙草ポスター。よく調べて描いてある

 パネル8枚目。第一次世界大戦と、続くソ連への干渉戦争をまとめました。1914(大正3)年の中国の山東半島にあったドイツ軍の青島要塞を攻める号外の隣には、1915年の中国への最後通牒の号外。第一次世界大戦のどさくさに、清朝が倒れ中華民国政府となっていた、その中国政府に対して、対華21か条要求を突き付けていたのでした。日露戦争で得た満州開発の利権を確実にするための、遼東半島の関東州租借期限や南満州鉄道租借期限を99年に延長すること、政府に日本人顧問を置くことなどを要求。中国は軍艦などの威圧、交戦区域外の済南の占領などを受けてやむなく調印しますが、これが排日排貨の起原となり、日中間の決定的な亀裂を生みます。
 シベリア出兵は、各国とも日本を誘い参加しますが、ソ連の安定化とともに撤兵するのに対し、日本は何とか勢力圏を残そうと1922(大正11)年まで撤兵を引き延ばしました。長野県松本市の歩兵第50連隊も、1920年から翌年にかけてシベリアに駐屯しています。貴重な生写真を展示しました。

青島や交戦区域、その外の済南といったことが分かる地図をメインにしました

 第一次世界大戦終了に合わせた記念地図。明治の日本とこの時の日本の勢力範囲を並べるなどしています。中央に大正天皇、右上が明治天皇、左上には写真風の神武天皇を配しています。展示のバランスと内容から、7枚目と8枚目のパネルの間に置きました。

日清日露の主な戦場を中心に記載

 そして昭和天皇の時代に入ります。こちらの掛け軸には神武天皇に加えて天照大神まで入れており、神格化が強くうかがえます。

小諸市の方からの寄付

 これから激動の時代に入りますが、続きは中で。
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 おまけ。ゴールデンバットというたばこが最近まで販売されていましたが、これも大正期から昭和の戦争中も発売が続きました。戦時下の変化が一番よく感じられるため、たいていの展示会で展示しています。激動の敗戦までの20年をイメージしてみてください。

ゴールデンバットのコレクション。途中で金鵄と改名

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 こちら続きの(中)です。

こちら、最終回の(下)です。


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