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息子の命を国に差し出させたうえ、さらに供出に奮闘するのが良い母親ときた1944年8月発行の国策紙芝居「雄魂に應へん」

 展示会では毎回、国策紙芝居を出させていただいていますが、こちらも今回、展示候補として考えている国策紙芝居です。収蔵しているだけでも1945(昭和20)年の敗戦間近まで、貴重な厚紙やインクを使って作り続けられた国策紙芝居。その戦争末期の状況下で国が何を求めているかが伝わってくる作品です。作・岩本薫、画・木俣清史、ヒマ増産奨励画劇と裏書にあります。

大政翼賛会選定、大日本画劇株式会社製作

 舞台は関東地方の農村。主人公は既に夫を亡くし、一人息子の清一を飛行兵として送り出して、一人先祖代々の畑を守る「おらくさん」です。

ほかの人が引き上げても、なお頑張って働くおらくさんの望みは息子の手柄

 そんなある日の夜、役場から清一の戦死の報せが届いたのです。「清一は御国へ捧げた子だ、清一は自分の子ではない、天子さまにおかへしした子だ」と自分を納得させるも、できれば戦死の様子を知りたいと願います。

戦病死では切ないという雰囲気が漂う

 そこへ、清一の所属部隊の部隊長から手紙が届きます。そこには詳しく戦死の様子が書かれていました。清一伍長は偵察任務に出ていたところ、敵戦闘機の攻撃を受けてしまいます。
 征一伍長は傷ついた機体に、逆に闘志を燃え立て、敵飛行場の格納庫めがけて自爆します。

傷つきながらも自爆して果てる尽忠精神と持ち上げます

 隊長は手紙で「見事なる伍長の玉砕精神こそ日本軍人の亀鑑と部隊一同等しく感動仕る次第にて候」と伍長を惜しむ雄叫びを上げます。
           ◇
 その数日後、常会が開かれ、飛行機の潤滑油とするヒマの栽培割当の相談が始まりました。飛行機をつくれないので、せめて潤滑油をつくることで戦争のお手伝いをしようという説得にも、既に応召された人も多かったことでしょうし、はかばかしい意見が出てきません。
 そこへ「飛行機の油になるヒマ」と聞いたおらくさんが膝を乗り出して取り組みを申し出ます。

村人は清一伍長を亡くしたばかりのおらくさんを気遣うが

 そして、とにかくおらくさんは一人でヒマの種まきを始めます。「飛行機の油を作るのが、せめて清一の霊を慰めることだ」と。

いつか微笑みさえ浮かべてヒマの種まきを他人の分までやってしまう

 そんなおらくさんの姿に感動した村人たちが、次々とヒマの栽培を始めます。そして成長したヒマは「軍国の母おらくさんの姿に感激した人々の汗の結晶であり、清一の雄魂に応へようと、奮い立った村人の姿でもあったのだ」と盛り上げます。

そして、勤労奉仕の手で収穫されたヒマが運ばれていきます
日本の母としてのよろこびが湧き上がる

            ◇
 いかがでしょうか。太平洋戦争初期のころは、母親が苦労して送り出した息子が「立派に」戦死するまでで一話の国策紙芝居が作られていました。まずは、子どもを躊躇せず兵隊に送り出すことが求められたのです。そしてこの1944年の作品では、息子を戦死させただけではなく、それをばねにして、さらにヒマ増産に取り組む母の姿を描いています。

 息子は自分の子ではなく天子さまの子、とあきらめさせるだけではなく、さらに一層の貢献を求める内容。しかも息子の戦死は敵の格納庫へ突っ込む命と引き換えの戦果という仕立て。海軍の神風特別攻撃隊が初出撃するのは、この作品が描かれてからわずか2カ月後の1944年10月のことです。
 既に自爆兵器の開発は進んでいる時期でしたが、あらためて自ら命を捨てることを名誉なことと、この時期に刻み込ませる狙いの国策紙芝居が作られていたことは、偶然ではないと思います。命を捨てる覚悟をあらためて示さねば、臣民はついてこないと為政者は見て取っていたのではないでしょうか。そして、そこまでした母がいるとなれば、協力しないやつはいないと。

 子を差し出し、国の求めることに積極的に応じることこそ「日本の母」と強調する紙芝居の内容には、ひたすら臣民に犠牲を強いて戦争を続けた世相、政治がはっきりと表れています。二度とそれが「日本の母」と称揚されることがあるような世の中にしてはならないと、あらためて実感しました。


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