見出し画像

大平洋戦争のきっかけとして語られる「ABCD包囲網」ーなぜ作られたのか、所蔵している新聞で追ってみました

 太平洋戦争は、ABCD包囲網(包囲線、包囲陣とも)がきっかけで、日本が生き延びるための戦闘だったというご主張を目にすることがたびたびございます。では、なぜ包囲網ができたのか、その前のことを、少しだけ見てみましょう。

 1941(昭和16)年8月13日発行の情報局編さん「写真週報」第181号は、初めて「ABCD包囲線」という表現で、日本が各国(米国、英国、中国、オランダ)からさまざまな圧力を受けているということを掲載します。表紙は中国戦線の装甲列車であることから分かるように、日中戦争真っ最中です。

写真週報第181号
表紙をめくるとすぐこの図が

 図の表題は「日仏印共同防衛とABCD包囲線」となっています。そして、日本兵が仏印に記されていて、さらに「皇軍南部仏印増強」とあります。また、なぜかABCD包囲線は仏印を囲う形で示しています。ここから見えることは、日本軍の南部仏印進駐(1941年7月28日)がきっかけとなり、諸外国との緊張が高まったということでしょう。
 ちなみに、この写真週報では日仏印共同防衛の取り決めに基づいて派遣と説明し、部隊などの写真を掲載しています。また、増派とあるのは、前年の北部仏印進駐に加えて新たに南部仏印に進駐したのですが、新たにという点をぼかして、既にある軍隊を増やしただけとして、日本は特別なことをしていないという宣伝をしていると思えます。

「増派」とあるのは、既に前年に北部仏印に進駐していることからと思われます
共同防衛と言いつつ、資源につい目がいくようです(写真週報181号)

 では、少し時間をさかのぼります。こちら、1941年6月12日付大阪毎日新聞です。オランダとの石油などの輸入交渉が決裂したことを報道していますが「反省せば再交渉」と、すべて相手の責任にしています。この交渉自体は、特に日中戦争を継続するための資源確保が大きな狙いでしたが、既に前年に蒋介石への物資援助ルート遮断を主目的に北部仏印に日本軍が進駐してから急速に各国との関係が悪化してきていた様子を示します。
 ちなみに、仏領インドシナのベトナムでは、5月19日に対フランスの独立組織ベトミン戦線が誕生していました。日本が進駐する前から、現地での開放運動は始まっていたのです。

全権引き上げ。蘭印側も「譲歩の余地なし」と

 同じ紙面では、拓務省が「南方特別委員会」を設けて、南方資源の「総合的な開発」をするために委員を決めたとあり、調べる資源も列挙しています。南方の当時の蘭領インドシナなどを視野に「日本」が開発すると勝手に研究を始めたということです。普通の交渉が決裂した中で、こうした委員会が発足するのは、日本の南進策が見え見えですが。

ここまで露骨で隠しもしないとは、国民への煽りか

 そして1941年7月26日発行の大阪毎日新聞夕刊は、仏印共同防衛の決定を大きく報道。「大東亜の安全確保へ」とし、フランス政府と了解成立とあります。このころ、フランスはドイツ軍に破れて親独政権となり、当然植民地政府も弱体化しています。仏印進駐はそのタイミングを狙い、仏領インドシナの共同統治を狙ったのです。
 特に南部仏印が各国を刺激したのは、日本が露骨に南方資源を求めている所に、その足場となる南部仏印への進駐と飛行場の軍事利用などを認めさせたことにあります。そして「共同防衛」ですから、「大東亜」と見出しは掲げても、仏領インドシナの解放を目的とした進駐ではなかったことが明らかです。こちら、同じ紙面に米国などが即刻、日本の資金凍結など対抗処置を取ったことからも、その行動の影響の大きさが分かります。

1941年7月26日発行夕刊
仏領インドシナの主権を尊重、つまりフランスの統治は認めるということです

 そして、1941年7月29日発行東京日日新聞夕刊では、オランダも前年に取り交わした日蘭石油協定を停止するとします。つまり、この年に供給されるはずだった分がストップするという処置です。紙面では「万全の措置用意」としつつ、「一般民需に徹底節約」とあります。実際はこのころ、既に民需用のガソリンはほとんど出回らず、木炭バス、木炭自動車が走っていたぐらいなのですが。

1941年7月29日発行東京日日新聞夕刊

 残念ながら手持の紙面はありませんが、8月1日には米国が対日石油輸出を全面停止とします。1941年8月28日発行読売新聞夕刊で、英国は、はっきりと「日本の南進を阻止」と政策を掲げます。日本が南方の資源地帯の武力侵攻も辞さない姿勢であることは、南部仏印進駐が示したのです。これで英国も強硬姿勢を明確にし、各国からの資源輸入が困難な状況に追い込まれました。

英米がこのままでは敵対すると明確に

 そして、日本から見れば、このような構図となったわけです。大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(上)、8月9日の項には「仏印進駐を巡る英米の対日動向判断に於いて楽観に過ぎたるは既に明らかなり。状勢判断誤れるを告白す」とあります。こうした強硬態度を招いた結果、対米英戦必至かとの判断が生まれてきます。

1941年8月13日発行写真週報

 日中戦争を続けるための資源確保を狙った行動が、各国の強硬姿勢につながり、それを逆手にとって日本が被害者のようにふるまったのがABCD包囲線なる言葉なのです。この言葉はこれ以後、盛んに喧伝され、国民に被害者意識を擦り込み、それが太平洋戦争開戦で「明るい気持ち」を引き出す宣伝効果をあげたとみられます。

 なお、仏領インドシナにおいては、太平洋戦争ー当時で言うところの「大東亜戦争」が始まっても、いっこうに日本がフランスからの民衆解放を行いません。ここに、大東亜共栄圏の矛盾がはっきりと表れています。フランス軍の武装解除をしたのは1945年3月の明号作戦のことで、傀儡政権が立てられましたが、この武装解除は民族解放のためではなく、フィリピンを米国に奪還された後、日本軍が仏領インドシナを防衛するため、反乱の種となるフランス軍の武装解除に踏み切ったという、全くの自己都合でした。

 こうした歴史の基本を知っておかないと、アジア諸国にとんでもない失礼なことを言うはめになります。こうした事実に立脚してこそ、対等で良好な関係をつくっていけるのではないでしょうか。

 

いいなと思ったら応援しよう!

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…) ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。