「ない」から「ある」へのステップは喜び ― “与えられることが当たり前”になると、心は貧しくなる
見えない貧困の「心の貧しさ」について、最近よく考えています。
心の貧しさって、お金の“ある・なし”だけで決まるものではないのかなって。
日本社会で、心が貧しくなってしまう理由の一つは、
「与えられることに慣れてしまい、
与えてもらえなくなったとき」なのかなと思います。
簡単に、手に入る。
簡単に、もらえる。
簡単に、体験できる。
保育園から会社の寄付で届くジャムや洗剤。
無料イベントスペースでの職場体験。
無料の子ども食堂。
気づけば「与えられること」が日常になっています。
自分の力ではなく、誰かに与えてもらえる。
それは親だったり、親族だったり、行政や会社だったり。
与えられるものは、お金や物だけじゃありません。
思考や考え方、生き方そのものも、いつのまにか“人に委ねて”しまうことがあります。
人は一人では生きられないから、支えがあるのは当然のこと。
けれど、「与えられること」に慣れてしまうと、
失ったときの喪失感が大きくなる。
一人で立ち上がる方法が分からなくなる。
与えられないことへの不満が大きくなる。
それが心の貧しさにつながることもあるのかもしれません。
例えば、衣食住。
どれも生きるために欠かせないものですが、それにも“ピンからキリまで”あります。
「座って半畳、寝て一畳」という言葉があるように、
寝る場所さえあれば最低限は満たされるのかもしれない。
食事だってそう。
質素倹約を極めれば、漬け物とご飯だけでも十分。
服も、お下がりだろうと、穴が空いていようと、
着ることができて、寒さをしのげればいい。
だけど――
その“最低限”の中に、生きる楽しさはあるのかな?
みんなが同じようなものを持っていた時代には、「羨ましい」とか「見下す」とか、そんな感情はきっと少なかった。
お互いの身なりや持ち物を気にしなくてよかったんじゃないかな。
「ない」から「ある」へのステップは喜びだけど、「あったものがなくなる」喪失感は大きい。そこから抜け出せる人と、抜け出せない人がいるんだろな。
学びもそう。
義務教育、塾、家庭教師、進学。
学びの形はいろいろあって、
それを「やらされる」か「自分で学ぶ」かでまったく違う。
「とりあえず大学に行っとけ」
「進学するお金ないから働け」
どちらの言葉も、よく耳にする。
私は、“やりたい”と思ったときに、
その気持ちを信じて経験させてあげられること。
それが、本当の意味での“豊かさ”につながるんじゃないかと思うんですよね。
意味のない学校とか、偏差値だけで選ぶ進学先とか。
親が子どもの“行く意味”を決めつけてしまうから、失敗できなくなる。
学びは、もっと自由でいいと思う。
興味は人によってまるで違うから。
親が子どもの結婚相手を決める
――そんな話もまだ聞くけれど、
たとえ離婚しようが、遠回りしようが、それもまた人生。
「失敗した」と決めつけるより、「経験した」と受けとめられた方が、きっと豊かですよね。
私自身、母に「なんで信じてくれないの?」「経験させてよ」って、必死に伝えたことがあります。
高校生までは、母の言うことを“正しいもの”として生きてきました。
自分の家庭環境が母の言うことを“正しいもの”と思うしかなかったのかもしれません。
でもある日、母から言われたんです。
「経験もしていないのに、私(母)から聞いた話だけで耳年増だ」って。
その言葉を聞いたとき、胸の奥がざわつきました。
――経験させてくれないのに、経験してないって責めるの?
そこから、「どうして?」と考えるようになったことが、今の私の考え方につながっている気がします。
だから今は、息子にはできるだけ経験させたいって思うのかもしれません。
日本はきれいで整っていて、
多くの人が「これだけあれば十分」と言える国。衛生面が特に素晴らしいです。
私も海外に行って、昔の借家が“まし”だったと知りました。
海外に行かなければ、きっと過去の貧しさを引きずって、心のどこかで満たされないままだったかもしれません。
それだけ、「知らない」ということは、視野を狭くしてしまいます。
大学時代に感じたことを思い出します。
奨学金の金額――人によって背負う重さが違う。
借りずに済む人もいれば、少し借りるだけで心が重たくなる人もいる。
「ちょこっとだけ貧しい」
それが、実は一番苦しいのかもしれません。
「とりあえず」で大学に行けたり、
おこづかいをもらえたり、
誰かが何でも決めてくれる環境で育つと、
少しの変化でも「貧しい」と感じやすくなるのかもしれません。
あることに慣れる。
それがなくなることに、耐えられなくなる。
私は、それが怖いなと思います。
だから、息子にはできる限り「自分で考えてやる」ことを教えています。
周りから「まだ早い」と言われても、
自分のことは自分で。
「人生いろいろある。自分で考えて。」
もちろん、甘えたいときや寂しいときは、
ぎゅっと抱きしめます。
でも「ママ、やって」は、基本的にはやりません。
保育園の支度も、着替えも、歯磨きも。
成長段階で本当にできない部分だけ、そっと手を差しのべるようにしています。
夫も、息子が理解できることについては、
しっかりと叱ります。
息子はすでに整えられた衣食住を知っています。
これが使えなくなったとき、
彼は「また買えるように頑張ろう」と思うのか、
それとも「持っている人」を妬ましく思うのか。
親として生き方を導けたらいいなと思っています。
かつて叔父が言った言葉を思い出します。
「良い暮らししとるな。」
できていたことが、できなくなる。
買えていたものが、買えなくなる。
周りと比べるよりも、
“自分の過去”と比べたときに、
悔しさや苦しさが湧いてくるのかもしれません。
そして、かつて少し見下していた相手が、
自分よりも良い暮らしをしているのを目にしたときも――
心の奥がざわつくものです。
「可愛い子には旅をさせよ」
「千尋の谷に突き落とす」
この言葉たちは、子どもを“あえて厳しい環境に置くこと”の大切さを教えてくれる。
そこには、見守る親の強さと覚悟があるのだと思います。
守ることと、挑戦させること。
そのバランスをとることが、いちばん難しいのかもしれませんね。
視野を広げることが、心を解放させる。
知らないことを知らないままにせず、知ろうとすること。
他者の言葉に耳を傾けること。
それが、心を豊かにするための最初のステップなのかもしれません。

