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不渡りの果てに――経営者だった叔父は50代で亡くなった

経営者だった叔父のことに触れるのは、今でも少し苦しい。
私にとっては、苦い思い出が多い存在だった。――だけど、それでも、尊敬もしていた。

貧しかった我が家とは対照的に、叔父の家庭はいつも煌びやかだった。

新車を次々に乗り換え、広くて綺麗なマンション、ふかふかのソファ。
いとこには一人部屋もあった。
家族でハワイ旅行に行き、子どもたちは英会話教室にも通い、テレビ番組「はじめてのおつかい」に出たこともある。
ゲーム機も誰より早く持っていて、私と兄はずっと羨ましかった。

でも、祖母が倒れてから、叔父の家族は来なくなった。
正月元旦に半日だけだった。
そこから、少しずつ心の距離も生まれていった気がする。

高校生の頃、一度だけ兄と一緒に叔父の会社へ行ったことがある。
社員数はほんの数人の、小さなデザイン会社だったけど、講演をしたり、人望も厚かったらしい。

若い頃から器用な人で、営業職時代には「札束が縦に立つほどの厚さ」で給料をもらっていたという話も聞いた。
起業したのも自分で決め、順風満帆な人生を送っているように見えた。

――けれど、私の両親が離婚したのをきっかけに、叔父の態度は一変した。

「いいか、お前たちはもう子どもじゃない。大人だ」
中学生だった私たちに、そう言い放った。
「誰も社会を教えてくれないなら、俺が教えてやる」
「母親を守りたいなら、同じ土俵に上がれ」

今思えば、その言葉の裏には、頼れない母を背負って生きる私たちへの、厳しい“叱咤激励”のような気持ちもあったのかもしれない。

その後、叔父の会社は取引先の不渡りを受け、傾いていった。
それを表に出さないよう、必死にしがみついて頑張っていたようだった。
ちょうどその頃だったのかもしれない。こんな言葉を口にするようになったのは。

「対価を得るには、差し出すものも必要だ」
「誰かが幸せになるには、不幸になる人間もいる。それが現実だ」

あの頃の、厳しくも優しかった叔父はもういなかった。
彼にとって“守るべき家族”は、自分の家庭だけだったのだろう。
唯一、頼れていた存在。それでも、もう違っていた。

祖父が亡くなる直前の叔父は、“見栄はあっても金はない”状態だった。
祖母の介護もせず、なけなしの祖父の遺産を狙うような表情。
祖父は、私たちの知らないところで、叔父から金銭的な援助を受けていたらしい。
祖父は「起業のときと、会社が傾いたときに援助したからチャラだ」と言っていたけれど――真相は、今もわからない。

祖父が亡くなったあと、兄が購入した一戸建てに、叔父が来たことがある。
それまで借家暮らしだった私たちに、彼はこう言った。

「いい暮らししとるな」

あのときの表情は、今でも忘れられない。
叔父は、私たちに“ずっと不幸でいてほしかった”のかもしれない。

祖父の死をきっかけに、叔父との関係は決定的に崩れた。

そして――
50代という若さで亡くなったという知らせが届いたとき。
同封されていたのは、遺族からの「遺産放棄通知」と、借金の督促状だった。


叔父のこと、いとこのことを思い出すと、私は「起業したい」という気持ちにはどうしてもなれない。
もう保身しか考えられない。でも――
息子がやりたいことをやって、疲れたときに、いつでも帰ってこられる家にはしたい。そういう“安心できる場所”を守っていきたいな、とは思ってる。
叔父のことは思い出すと、息が詰まる。
書くのも、すごく苦しかった。
でも、煌びやかに見える独立や起業、経営者という肩書――
それは決して“良いことばかりじゃない”ということを、伝えたくて書きました。


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