搾取される子、愛玩される子
子どもを生きづらくさせてしまう親、は、兄弟姉妹を平等に扱うことはありません。
勿論、子どもは一人ひとり、違った心、を持っていますし、様々な要素が絡みますので、
必ずしも親が子どもに、如何なる局面に於いても、いつ何時も、画一的で平等な扱いを出来る、とは限らないのですが、
子ども一人ひとりに、違った対応をする場合、親には、共感する能力、が求められます。
子ども一人ひとりの気持ちを汲み取る、共感力、です。
ところが、子どもを生きづらくさせてしまう親は、
とかく子どもを自分の感覚で測り、
自分の思い描く、子ども像、に当てはめて、
親都合の独りよがりな子育てを断行します。
「お兄ちゃんは、今落ち込んでいるから、妹に優しくしてあげる余裕が無いんだな。」といった様に、
子どもの気持ちに寄り添うことが出来ません。
只々親自身が思い描く、お兄ちゃん像、に当てはめて、
「お兄ちゃんなんだから妹に優しくしなさい!」と、
落ち込んでいるお兄ちゃんの気持ちを、ぺしゃんこに潰します。
共感力が無いから、潰すのです。
どうして共感力が無いのか、と言うと、
その親の情緒が未成熟だからです。
共感力が高いが情緒は未成熟、という心理的状態はあり得ませんし、
共感力が低いのに情緒が成熟しているという状態も無い、と言えます。
情緒の成熟度は共感力の有無に直結しています。
共感力が無い親は極めて、独りよがり、な世界に生きており、
つまり子どもを思いやることが出来ません。
だから親自身の感覚で子どもを測り、親が思い描く、子ども像、に子どもを当てはめます。
そうした時、例えば、お兄ちゃんにはダメな子、という烙印を押し、責めに責めます。
妹は良い子、と決めて接します。
お兄ちゃんには、ダメな子、の役割りを与え、
妹には、良い子、の役割りを与える訳です。
ダメな子の役割りを与えられた子を搾取子(さくしゅし)と言います。
良い子の役割りを与えられた子は愛玩子(あいがんし)と言います。
搾取子は、いつもいつも責められて育つのですから、自己評価は地に落ちます。
心の奥底には、自分には価値が無い、と言う、無価値の思い込み、が貼り付けられ、
ただ存在するだけで許されない様な感覚に支配されます。
搾取子はいつも責めに責められ、怒りを覚えますが、幼い子どもは徹底的に無力である為、怒りを親に向けることが出来ず、心の奥底に抑圧します。
生きづらさ、の主成分は抑圧した感情です。
毎日毎日責められては湧き上がる怒りを抑圧する搾取子は当然、重大な生きづらさを抱えて生きることになります。
では、良い子の役を割り当てられた愛玩子は生きづらさを抱えないのか、というと、そうでは無く、
親から与えられた役割りを演じ切らなくては、という強迫観念に苛まれる様になります。
親から与えられた役割りを演じて初めて、価値が有る、ということは、
ありのままの自分には、価値が無い、ということであり、
回り回って愛玩子も、自分には価値が無い、という無価値感に苛まれることになります。
親が共感力を欠く親である限り、独りよがりな世界に生きる親は、ありのままの子どもを受け容れることは無く、
ありのままの自分を否定されるのですから、搾取子にしても、愛玩子にしても、
生きづらさを抱えてしまいます。
そう考えれば、子どもの生きづらさの原因は必ず親の心にある、のだとつくづく思います。
搾取子、愛玩子、を創り出す親は、親自身が、重大な生きづらさを抱えており、
その生きづらさをそっくり搾取子に背負わせます。
本当は親自身が、嘘つきである、という引け目を感じているとしたら、
搾取子を嘘つきだと責めます。
本当は親自身が、弱虫である、頭が悪い、というコンプレックスを持っていたら、
搾取子を弱虫だ、頭が悪い、と責め立てることで、自分の無価値感を搾取子になすりつけます。
挙句の果てには、夫婦仲が悪いことの原因は搾取子にある、と責めたりします。
搾取子は親の、ネガティブな感情、のゴミ箱にされるのです。
親は、愛玩子を持ち上げますが、其処には意図があります。
味方が欲しいのです。
親は、無価値感に苛まれる人、です。
自信がある様に振る舞っていても、本心では、自分には価値が無い、といつも感じています。
自分ひとりでは成り立たない人です。
だから味方が欲しいのです。
無価値感をなすりつける対象は、搾取子です。
だから今度は、味方、を創る為に愛玩子を持ち上げます。
学校や職場で、無価値感に苛まれる人達が、集団で一人を虐めるのと同じです。
標的を虐めることで、自分の価値が上がった様に錯覚し、
複数で一人を虐めることで、虐めに加担した者同士は味方である様に感じ、
アレもコレも、虐めの対象が悪いことにしておけば、何もかもが解決した様に感じることが出来るのです。
だから搾取子を創り、また愛玩子を創り出します。
全ては親自身が抱える重大な無価値感から目を逸らす為、という極めて独りよがりな動機に拠るのです。
搾取子を貶めるのも責めるのも自分の為、
愛玩子を持ち上げるのも自分の為、です。
その親は持ち上げるけれども、心から褒めることが出来ません。
自分のことしか見えないから、愛玩子の本当に讃えるべき部分を見つけることが出来ないのです。
世間体が良けれ、体裁が良ければ、持ち上げますが、
心から褒めることが出来ないその親の、持ち上げ、は、
言わば、親の意図を叶える為の、おだて、です。
責められる搾取子も、おだてられる愛玩子も、
最終的には、情緒未成熟で思いやりを欠く親の為に利用され、生きづらくなってしまいます。
ケースバイケースではあっても、兄弟姉妹が在る場合は述べた様に、搾取子と愛玩子は固定的な場合が多いと言えますが、
一人っ子の場合は、搾取子と愛玩子の役割りの両方を、
その場その時の親の気分や都合によって、担わなくてはならなくなります。
兄や姉が居て、弟や妹が居て、親から固定的に搾取されたり愛玩されたりする在り方も当然、子どもにとって過酷な環境ですが、
情緒未成熟な親から振り回される一人っ子は、逃げ場が無く、
一層、過酷さに輪をかける様に思います。
過酷な幼少期を過ごした一人っ子は、長く苦しんだ先に、生きづらさを手放したい、と思った時、
親から愛されたのか、利用されたのか、
幸せなのか、不幸せなのか、
自分は何なのか、
といった、自己像が極めて曖昧で、
自分の心理的な立ち位置が不明確な場合が多い様に感じています。
ある時は、親の都合でおだてられ、
ある時は、親の気分で責め立てられ、
そうやって親に振り回されるうちに、親の顔色を覗い、親の感情を拾い上げることには長じても、
自分自身の感情がさっぱり解らなくなってしまいます。
自分の感情が解らず、自分という存在が不確かで、自分の人生を生きられないのですから、
搾取子と愛玩子の両方の役目を果たした一人っ子も、
搾取子として責め立てられたお兄ちゃんも、
愛玩子としていい様に利用された妹も、
成長した今、
親が決めた役割りを果たす必要は、
もうありません。
搾取される為に生まれた訳でも、
愛玩される為の存在でも無いのです。
責められることを許し、
騙されることをもう、
許容する必要はありません。
価値有る自分として、
自分の人生を歩む権利を、
尊い気づきに至った人は、
持っています。
信じて踏み出した一歩が、
本当の自分、を生きる一歩目です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
