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【創作大賞2025】応募作品 心の声を、聞いて

いくつかの記事を投稿しながら、「創作大賞2025」に応募してみることにしました。
応募を決めたのは、自分の実体験をもとにした物語を、多くの人に届けたいと思ったからです。

私が描きたいのは、
子どもの心の中にある「助けて」という小さな声。
それに気づいても、見て見ぬふりをするしかない大人の無力感。
そして、たとえ声をかけても、その優しさに気づけない子どもたちの孤独です。

母子家庭、貧困、見えにくい家庭の問題――
そんな現実に、少しでも光を当てられるような作品を目指しています。




1.借家で始まった暮らし


物心ついたときから、私はボロボロの借家に住んでいた。

土壁はところどころ剥がれ、畳はふかふかと沈み、押し入れの底は水が滴っていた。

台所は湯沸かし器と2口のテーブルコンロに、追い炊きだけができる小さな風呂釜に、水洗ではないトイレ。

借家だけど2階はあった。

その家に住み始めたのは、私が二歳のころだという。

けれど、今でも不思議と覚えている情景がある。

ある夜、眠っていたはずなのに、ふと目が覚めた。

見慣れない天井。見慣れない部屋の匂い。

そして、隣の布団で肩を震わせながら泣いていた母の姿。

その背中を、祖母がゆっくりとさすっていた。母の声はかすれていたけれど、「大丈夫だから」と、何度も何度も繰り返していた。

あのとき、何が起きていたのかは、今でもはっきりとはわからない。

けれど後になって、祖母がぽつりとこう言った。

  「同居していた家から逃げてきたのよ」

"逃げてきた夜" の記憶は、なぜ今もこんなに鮮やかに残っているんだろうか。

そのうち父もやってきて、家族四人での暮らしが始まった。

母は本当は、離婚を覚悟して逃げてきたのだという。

けれど、父が「離婚したくない」と言い、借家での生活が始まった。

母方の祖父母も近くに住んでいて、日々の暮らしは慎ましくも、あたたかかった。

近くに住んでいる祖父母が、いろんなことを教えてくれるのが楽しくて、祖母の昔話をよく聞いていた。



2.祖母が言った「あの子を守って」


私が小学一年生のとき、母のいとこが近くに引っ越してきた。

そこの子どもは、ちょうど私と同じ年頃の男の子で、生まれたときから定期的に家族で会っていた。

だから家の近くに引っ越してきたときは、すごく嬉しかった。

小学校から帰ると、彼らが家にいた。大好きだったからとにかく嬉しかった。

でも、彼らが引っ越してきた理由は、子どもだった私には理解できなかった。

後から知ったのは、母と祖母がいとこの状態を「何かおかしい」と察して、家を訪ねたらしい。訪ねたその家には、大人の姿がなく、腐りかけたご飯だけがテーブルに残されていたということ。

お腹を空かせた子どもたちは、母と祖母が買ったハンバーガーを必死に頬張ったそう。

祖母は言っていた。

  「あの子たち、本当に辛そうだったの」

子どもだった私には、どう助けたのかなんてわからなかった。

だけど、ひとつだけ心に深く焼きついているものがある。

それは、泣いているのに声を上げない彼の姿。
涙が頬を伝っているのに、彼はただじっと耐えていた。

引っ越してきたばかりのある日、祖母が私に言った。

  「あの子を、守ってあげて。」

その言葉が、私の胸にすとんと落ちた。

だから私は、「守る」と決めた。
何から守るのかも、守るってどういうことかも、よくわからなかった。
ただ、一緒にいることが「守ること」だと、小学一年生の私は信じていた。


彼に、もう泣いてほしくなかった。


それからは、いつも一緒だった。
お互いの兄も含めて四人組だったけれど、気づけば私と彼、ふたりでいる時間のほうが長くなっていた。


3. 彼が作ってくれた小さな世界

それから、月日はゆっくりと流れていった。

彼も笑顔が増えていった。あの頃の泣いている姿が浮かばなくなるほどに。

私たちはお互いに少しずつ、成長していった。
好きな人の話も、夢の話も、何でも話し合える関係になった。

秘密基地をたくさん作って、何も持っていなくても心から楽しかった。

段ボールで一人部屋を作ったり、机に毛布をかけてお城を作ったり。

カーテンにぶら下がってターザンごっこをしたり、傘で本当に空を飛べるかどうか試したり。

流行りの戦隊ヒーローやアニメの名シーンを、真似して遊んだり。

お金はなかったけれど、笑い声はいつもそこにあった。

だけど、その笑いの背景には、祖父母の静かな影があった。

戦後の貧しさを生き抜いた祖父母は、とても強くて、そして子どもたちの寄り添い方を本当によく知っていた。

何も持たない私たちに、言葉にならない優しさを与えてくれた。

私たちが安心して笑顔でいられたのは、祖父母の存在があったからだと思う。その影響は、今思えば、計り知れないほど大きかった。

彼が私にくれたものは、今でも心をあたたかくする大切な思い出。

人形ごっこに必要なものは、めったに買ってもらえなかったけれど、唯一サンタさんは来てくれて、人形だけはあった。

おもちゃがもらえるから、本当にサンタさんはいるんだって信じていた。

でも、人形の本体があっても、着せ替えの服やタンス、ハンガーはなかった。

そんなとき、彼が段ボールでタンスを、クリップでハンガーを作ってくれた。

  「これ、使えよ」
    ――照れくさそうに笑った彼の顔は、今でも心に残っている。
      涙が出るほど嬉しかった。


「買えない」世界の中で、彼が作ってくれた小さな世界。私のためだけの、たったひとつの宝物だった。

秘密基地を見つけてくるのは、いつも彼だった。

誰よりも先に見つけて、真っ先に私に教えてくれる。

私にとっても、彼にとっても、かけがえのない、たったひとつの存在だと信じて疑わなかった。

段ボールの収集場所を秘密基地にしたこともある。

積み上がった段ボールの山の中で、宝探しのように遊んでいた。

だけど、そのとき偶然、同級生の家族が段ボールを捨てに来て、子どもが「僕も遊びたい」と言った。

その子の親は、まるで汚いものを見るように、子どもの手を引いて「行くよ」とさっと立ち去った。

そのとき胸に残った、うまく言葉にできない悲しさを、私は今でも忘れていない。

私たちは通学団には入らず、いつも遅刻常習犯だった。

周りの子たちから冷たい目で見られることもあった。

でも、4人だからどうにか笑っていられた。

遅刻して、寄り道して、こっそり学校に行く毎日だった。

親がパチンコに行ってしまっても、4人で遊んでいれば、どこか安心できた。

彼がそばにいれば、夜の道も怖くなかった。

たまに兄と2人きりのときは、少しだけ怖かったけど。


そんなある朝、遅刻ばかりしていた私に、担任の先生が腕を掴んで言った。

  「親が起こしてくれなくても、
     自分で目覚ましかけて起きなさい。自立しなさい」


そのときの先生の表情は、今でも忘れられない。
怒っているというより、何かを必死に伝えようとしていた。

でも、当時の私は、まだわかっていなかった。

母は、よく夜中に私たちを公園に連れて行ってくれた。

誰もいない夜の公園は、しんと静かで、まるで世界に私たちだけしかいないようだった。

滑り台もブランコも独り占め。あの時間は、子どもだった私には夢のように楽しかった。

けれど、夜更かしすれば、当然朝は起きられない。

  「行きたくないなら、無理して学校なんて行かなくていいよ」

そう言ってくれる母の言葉に、私は甘えていた。

父も母も、夜遅くまでパチンコに行っていた。

だから、先生の言葉は、私にはただ戸惑いを残すだけだった。

守る対象だったはずの彼。
でも、ふと気づくと、その彼に守られていたのは、もしかしたら私の方だったのかもしれない。

恋とはまだ呼べない、淡くて静かな恋心。
けれど、周りの大人たちは、そんな私たちを微笑ましく見ることはなかった。
子どものころはよくわからなかったけれど、たしかに感じていた。
大人の冷たい視線。
気づいていても、何も言わない。何もできない。あるいは、伝えてくれていても、私たちにはそれがわからなかったのかもしれない。

だから、私たちは自然と、似た家庭環境の子どもたちとだけ仲良くなるようになった。わかり合える子とだけ、そっと寄り添い合って。
お互いを、心の支えにしていた。


4.変わり始めた景色


小学四年生になったころ、少しずつ、何かが変わり始めた。

クラスが離れたこともあったけれど、それ以上に、彼の家庭が目に見えて壊れていくのがわかった。

目に見える彼の家庭の変化とは対照的に、自分の家もじわじわと崩れていたのに、私はそれに気づいていなかった。

彼は、真冬でも長袖を着ていなかった。

「暑いから! 寒くないから!」と、いつも笑いながら言っていた。

でも、それが強がりだということに、あのころの私もなんとなく気づいていた。

夏はエアコンのない家で過ごせず、空調の効いた施設へ避難。

冬は暖房が使えず、部屋を真っ暗にして、毛布にくるまって寒さをしのぐ。

そんな彼らを、私はよく自分の家に呼んでいた。

ボロボロの借家ではあったけれど、かまぼこ板で補強したこたつがあり、少しでも冷風の出るクーラーがあり、私の祖父母もパンやおやつをくれるだけ、彼らよりはましな暮らしだった。

彼はいつしか、栄養失調のような症状を見せはじめていた。

私は、祖母に教わる編み物や工作に夢中になっていて、いつの間にか、彼と過ごす時間が少しずつ減っていった。

泣く顔を見ることがなくなったから、もう、大丈夫。

あのころの私は、勝手にそう思っていた。

――崩れ始めていたことにも気づかずに。

だから、彼が同じような境遇の男の子と一緒にいることが増えてきたとき、私は少し寂しかった。

その男の子のことを、だんだん嫌いになった。

きっとその子も、私のことを嫌っていたと思う。

私の家でも、父が家にいる時間が増えていった。

母が頑張っていることは、子どもながらに感じ取っていた。

父は楽天的な性格だった。いや、貧しさがそうさせていたのかもしれない。

お金もないのに、旅行を計画したり、宝くじを買ったり、パチンコに行ったり。

今になって思えば、おかしなことばかりだった。

母は、それを子どもに悟らせまいと、陰で必死に支えていた。

夜中、父と母が喧嘩しているのを、こっそり見てしまったこともある。

でも、父は子どもの前では母に甘え、母もまた、それを黙って受け止めていた。

パチンコに通っていたのは、きっと母自身の心を守る、唯一の逃げ場だったのかもしれない。

母が高熱を出して寝込んでいた日、私は兄と二人で、父の帰りをじっと待っていた。

やっと帰ってきたと思った父は、母の鞄から財布を抜き取ると、何も言わずにまたパチンコへ出かけていった。

あのときの光景は、今でも忘れられない。

このころ、家庭環境によるいじめも経験した。

今でもはっきり覚えているのは、「しらみ事件」だ。

原因は明らかだったのに、なぜか私たちのせいになった。

教師は、彼の兄が原因だと言い、それが彼に移り、さらに私にうつったという流れを作った。

私は長かった髪を、ばっさりと切ることになった。

しらみが出ていても、学校側は私にプールに入るよう強く言ってきた。

祖母は戦時中のしらみの恐ろしさをよく知っていたから、小学校に直談判に行ってくれた。

この年、私はプールに入れなかった。


教師にとっては、「普通の家庭」よりも、「貧しい家庭」の子どものせいにする方が、きっと楽だったのだろう。

そんなふうにして、家庭にも学校にも、少しずつ余裕がなくなっていった。

祖母も母も、きっと彼の家庭の異変には気づいていたと思う。

けれど、自分の家を守ることで精一杯だった。

もう、助ける余力は残っていなかった。

彼が私の祖父に言ったことがある。

「俺、じいちゃんの養子になりたい」って。


5.日常が消えた

ある日の夜、彼の兄が家に来た。

  「段ボール、ちょうだい」

  「何かに使うの?」

  「うん、ちょっとね…」

そのとき、小さく「元気でな」と聞こえた気がした。

でも、気のせいかもしれない。

何か違和感はあったけど、深くは考えなかった。

その翌日、彼らはいなくなっていた。

夜逃げだった。

何も言わずに、突然に。

私はそのとき、小学五年生だった。

学校で先生から聞かされた。

  「○○くんは、今日から転校になりました」

その瞬間、頭が真っ白になった。

私は、何も知らなかった。

何も聞いていなかった。

「どうして?」という言葉が、頭の中をぐるぐる回る。

誰かに何かを聞かれても、声が出なかった。

私の日常は、色を失った。

音のない世界に放り込まれたようだった。

彼らがいなくなった家の掃除を、私たち家族で手伝った。

誰も住まなくなったその部屋に入った瞬間、
いろんな想いが、胸の奥から溢れてきた。

段ボールの切れ端。ちぎれた布。ほこりをかぶった日用品。

彼が大切にしていたおもちゃ。

あの日、確かにあったはずの笑い声の残像。

けれど、そこに彼の気配はもうなかった。

そのとき、私ははっきりと痛感した。

  子どもは、無力だ。

私はあのとき、「守りたい人を守るには、力がいるんだ」って強く思った。

どんなに願っても、気持ちだけでは守れないことがある。

手を伸ばしても、もう届かない現実がある。

だから私は思った。

  守りたいと思ったときに守れる力がほしい。
  強くなりたい。

小学一年生のころ、祖母が私に静かに言った。

  「あの子を、守ってあげて。」

その言葉を聞いて、私は「守る」と心に決めた。

けれど、あの頃の私は、まだ何もわかっていなかった。

守るということの意味も、その重さも。

彼がいなくなっても、明日は確かに来る。

もう一緒に歩くことのない通学路を、

灰色がかった景色を眺めながら、一人で歩く。

心の奥に、また会える日をそっと秘めて。


6.再会は予想以上に早く訪れた


小学六年生の夏。

突然、母の携帯が鳴った。

画面に表示された名前を見て、母の声色が変わった。私はすぐに気づいた。

  「もしかして——」

胸の奥が熱くなる。期待を押さえきれず、心がざわめいた。

そう。あの日、突然いなくなってから、半年。

再会は、あっけないほど早くやってきた。

玄関の扉を開けると、そこに彼がいた。

あの日以来、姿を消した彼が——。

その瞬間、言葉は出なかった。

代わりに溢れたのは、涙だった。

一歩も動けないまま、ボロボロと泣いた。止まらなかった。

何も言わず、ただぎゅっと抱き合った。

言葉なんていらなかった。会えた、それだけで、世界が満たされた。

それからは、毎日のように電話をした。

  「ちゃんとそこにいる?」

  「生きてるよね?」

それを確かめたくて、何度も、何度も声を聞いた。

会うたびに、手をぎゅっと握りしめた。

二度と離さないように。

彼が当時よく聴いていた曲を、母の運転する車の後部座席でふたりで聴いた。

たった小学生の男女だったけれど、次に離れるのが怖くて、思わず抱き合った。

さすがに親が慌てて止めに入ったけれど、私たちはその一瞬すら名残惜しかった。

それでも私は、嫌いだったあの子に、彼が帰ってきたことを知らせた。

彼がその子に会いたがっていたことを、私は知っていたから。

本当は、胸が張り裂けそうだった。

それでも、自分の気持ちを押し殺して、彼を送り出した。

なのに——あの子は、私の目の前で扉を閉めた。

彼の姿が扉の向こうに消えていく。

その音が、心の奥に突き刺さった。

そのとき、私はただ、黙って泣いた。



7.途切れてしまったあの電話


ある日、母の携帯が鳴った。

ふと画面を覗くと、そこに表示されていたのは、彼の母の名前だった。

  「……私たちがここにいること、誰かに言った?」

母の表情が凍りついた。

胸の奥がざわついた。

——まさか。

その予感は、すぐに現実になった。

いつものように彼に電話をかけた。

けれど、返ってきたのは「ツー、ツー、ツー……」という、冷たく突き放すような音だけだった。

昨日まで、あんなに当たり前に声を交わしていたのに。

  「なんで?」「どうして?」「何があったの?」

混乱、恐怖、焦りが、一度に心を押し寄せてきた。

何度かけても繋がらない。何度やっても、同じ音が胸を突いた。

——また、いなくなった。
あの時みたいに、突然に。

私は彼を探した。必死だった。

どこかにいる気がして、走った。祈るように、名前を呼んだ。

でも、祖母も母も言った。

  「もう、諦めなさい。探したらダメよ」

どうして?

なぜ大人は、こんなにも簡単に終わらせようとするの?

私が嬉しくて、何度も電話したから?

そのせいで、誰かに見つかったの?

——守りたかったのに。

私のせいで、彼を危険にさらしてしまったの?

答えは、どこにもなかった。
ただ、胸に残るのは、ぶつけようのない感情と、後悔だけだった。

小さな私は、その痛みをどうすればいいか分からず、ただ、揺れていた。

後になって知ったことがある。

彼は、私のランドセルに一冊の本をそっと忍ばせていた。

私が気づかないように、静かに入れていた。

後で祖母が言っていた。

  「何かを残しておけば、また会う口実になるって、彼に教えたのよ」

だから彼は、あの本を残していった。私が彼にあげた本を。
いつか、また会うつもりで——約束の代わりに。

けれどその優しさが、かえって私の心を縛りつけた。
本を抱きしめるたびに募る「会いたい」の気持ち。
でも、会えないという現実が、その想いにぽっかりと穴を開けていく。

ある日、学校の授業中に、担任の先生が言った。

  「虐待って、殴ったり蹴ったりだけじゃありません。
         衣食住を与えないことも、立派な虐待なんです」

その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

まるで、彼の家のことを言われているようで——怖かった。

なのに私は、先生を“敵”のように感じてしまった。

誰にも頼れなかった。彼のことを、他人に知られるのが怖かった。

それでも——先生はきっと、

私たちに直接何もできないと分かっていながらも、

それでも、何かを伝えたかったのだと思う。


8.心の拠り所を抱いて、私は生きた

二度目の別れは、一度目よりもずっと辛かった。

彼が「駅伝部に一緒に入ろう」と言ってくれた言葉を胸に、走るのが嫌いだった私は、一人で駅伝部に入った。

彼がいたら、きっと隣で走ってくれたのに――。

  「なんでここにいないんだろう…」

そんな気持ちが、胸を離れなかった。


だけど、彼のことだけを考えていられる環境では、もうなかった。

私の家庭も、ゆっくりと崩れていった。

母が初めて泣いた。その姿を見て、「今度は私が母を守ろう」と思った。

母を泣かせる父が嫌いで、私は家事を頑張った。

「スーパーで一番安いものを知っているのは、きっと私」
中学生だった私は、そんなことに少しだけ誇りを持っていた。

でも――自転車も買えない。給食費も払えない。

部活の費用は高すぎて、強制参加なのが恨めしかった。


新しい環境と、現実の苦しさに押しつぶされ、私は不登校になっていった。

兄も怪我が多く、不登校になっていた。

彼を勝手に心の拠り所にして、現実から逃げてばかりだった。


そんなとき、母が労災事故で怪我をし、父が大病に倒れた。

親の離婚が決まった。


  紙1枚で、家族ではなくなった。

病院のロビーで家族会議が開かれ涙をこらえた。

離婚を告げたときに見た、父方の祖父の冷たい視線が今でも忘れられない。

小さいころ、「大好きだよ」と抱きしめてくれた祖父の姿はなくなっていた。

  紙1枚で、愛情も途切れることを知った。

母方の祖父と叔父はとても厳しくなった。

私たちに現実を教えるために。

離婚してからは、兄も私も中学校へ行くように努力した。

ある日、中学校の部活動の先生が言った。

  「なんで部活に来ないんだ」と、冷たい目線で。

でも、家庭の事情を話すと、

  「早く言ってくれればよかったのに」と、優しくなった。

――早く言ったところで、何が変わったというのだろう。

お金でもくれるの?

部活動を強制にする必要がそもそもあるの?

そんなふうに思ってしまった。

私も兄も、進学するつもりはなかった。

けれど、母が「高校には行ってほしい」と泣いたから、自分たちで進学先を決めた。

兄は工業高校へ、私は商業高校へ。

高校時代は、母の労災の裁判、祖母の介護、祖父の厳しさに、

心が折れそうな毎日だった。

叔父に言われた。

  「誰かが幸せになるには、不幸になる人間も必要だ」

叔父のことは尊敬していた。

その叔父からそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。

だんだん涙を流すこともなくなった。

でも、高校で初めて心を許せる友達ができた。

だけど、彼のことを忘れてしまいそうで、不安になった。

それでも、勉強の面白さを知り、私は大学進学を決めた。

彼がいないまま――
小学校を卒業し、中学へ、高校へ、大学へと、時間だけが残酷に進んでいった。

お互いの今を知らないまま、ただ歳だけを重ねていく。

あんなに近くにいたのに、今ではこんなにも遠い。

約束の本を抱いて、彼を思い出すことが、私の義務みたいになっていた。

2人の思い出の場所にも1人で足を運んで、いつも彼のことを思い出していた。


彼を心の支えにすることで、素直で笑い会えた日々があったから、私は私でいられた。

 


9.“会えた”と思った、その先にあったもの

私は大学生になった。SNSが少しずつ広まり始めていた。
大学一年生の夏。

  「彼も、もしかしたらやってるかもしれない」

そう思って、検索してみた。

  ――表示された。

その瞬間、心も手も震えた。
すぐにメッセージを送り、やり取りが始まった。

  「本当に、また会えるかもしれない」

そう思った。

でも――違った。

  それは“なりすまし”だった。

しかも相手は、彼の親友で、私が大嫌いだったあの子。

私は知らなかった。彼もまた、複雑な家庭で育っていたということを。

その子は言った。

「自分も、“いなくなった彼”をずっと探していた」と。

どうやら彼は、私だけでなくその子にも、何かを預けていたらしい。

“また会える”と信じて。

だから、嫌いだったあの子も、私と同じように逃れられなくなっていた。

発想まで同じだった。

「同じ髪型でいれば、偶然すれ違ったときに気づいてもらえるかもしれない」
――同じ考え方が、正直、嫌だった。

彼は専門学校を中退し、毎日野菜ジュースと、わずかな食事だけで生きていた。

哀れに見えて、同情してしまった。

そして、奇妙な関係が始まった。

呼ばれたら、彼の部屋に行く。そんな日々。

会うたび、2人で“彼”の話をした。

お互い、ずっと嫌いだったはずなのに――

彼の話題で、私たちはつながっていった。

たぶん、私たちにとって、

周囲が彼を「いなかった存在」にしようとするのが、許せなかったのだ。

皮肉なことに、一番嫌いだったその子が、一番理解し合える存在になっていた。

でもある日、ふと思った。

  「このままじゃダメだ」

そうして私は、その子にこう告げた。

「私ね、もう“彼”を探すのをやめることにしたよ。

だって、自分の足で歩ける年齢になっても、彼が来ないってことは――

“会いたくない”ってことなんだよ」

ようやく私は、“彼”を忘れる努力を始めた。

そして初めて、“自分だけの人生”を考えようとした。



10.大人になった私たちは別々の道を歩んでいく


私は社会人になった。

ふと、いなくなった彼のことを思い出した。

忘れると決めたあの日から、もう五年ほど経っていた。

あの頃よりも、SNSはずっと普及していた。

出会い系ではない場でも、本人が顔出しするのが当たり前になりつつあった。

彼の兄は新しいもの好きだったから、もしかしたら――兄の名前で検索すれば何か出てくるかもしれない。

そんな軽い気持ちで、検索してみた。


そしたら、本当に出てきた。

そして、その友達リストの中に、彼がいた。


プロフィールは素っ気なく、写真もなかった。

だけど、彼の兄と両親だけが登録されていて――私は間違いないと確信した。


もう、手は震えなかった。

でも気づけば、メッセージを送っていた。


このとき、私は24歳だった。

もしかしたらまた“なりすまし”かもしれない――

そんな不安を抱えながら、夜の公園へひとりで向かった。


そこにいたのは、彼だった。


もう、涙は出なかった。


  「元気そうでよかった。会いたかった」

そう、私はつぶやいた。


思い出話に花が咲いた。

  「あんなこと、あったね」

  「こんなこともあったね」

――彼と会えなくなったのは、小学六年生のときだった。

あれから、もう十年以上の時が経っていた。


お互いの“その後”を知らない。

その距離が、くすぐったくもあり、少し寂しくもあった。


彼は中卒で働いていた。

高校にはバイト代で通ったけれど、父親の使い込みが原因で退学になったらしい。

母親は再婚し、彼はその家に住んでいるという。

兄は今、家に一時的に居候していて――たまたま今だけ、フレンド登録していると彼は言った。


  「俺の親は、ようやく“大人”になった」


彼がそうつぶやいた。


その言葉がとても重たくて、鼻の奥がツンとした。


私は自分の過去や活躍している仕事の話をした。

彼はふっと表情を曇らせて言った。

  「いろいろあったんだな。
   
   でも、俺、人気者って嫌いだな」


昔の私なら、その一言で会社を辞めていたかもしれない。

彼のために、全部投げ出して、彼の望む“私”になろうとしていただろう。

でも――もう、できなかった。

私は、自分で立つ方法を知っていたから。


昔、守りたかった彼が、目の前で大人になっていた。

その事実に、私はどこか、満足していた。

もう、私が守らなくても、本当に大丈夫なんだと。

辛い過去を乗り越えて、今こうして生きている。

それだけで、もう十分だった。


そして、私は気づいた。

私が彼に会いたかったのは――忘れられなかったのは、恋心じゃなかったのだと。


あのときの気持ちに、きちんと決着をつけたかっただけなのかもしれない。


彼も、同じように思っていたみたいだった。


LINEで、メッセージが届いた。

初めて再会したとき、私が大粒の涙を流したあの日のことを、彼は覚えていたという。

けれど、今日の私には、もう涙がなかった――

その姿を見て、彼も気づいたのだろう。

今の私の心に、自分はいないのだと。


会わなかった十年間。

互いのことは、何も知らなかったのに。

気持ちだけは、ずっと繋がっていた――

そんなふうに感じさせる、優しいメッセージだった。


今日、あの日のことが「思い出」に変わった。


あの日から止まっていた私の時間が、ようやく、動き出した気がした。


今の私にはもう、離れられない人がいる。

私を裏切らない、私だけの人がいる。


これからは――

その人と、人生を歩んでいきたい。



さいごに

私は大人になって、出産や育児を経験する中で、息子の目線に当時の自分の目線を、今の自分の目線に当時の母の目線を重ねることが増えました。

息子も、当時の私も、そして彼も、無条件にお母さんが大好きということを知りました。
息子は私に「お母さんを虐めたらだめ、僕が守る」と言ってくれます。
それは些細なことでもです。子どもは母親が好きなのです。
だから育児放棄の問題が幼少期であれば、なおさら、子どもからの発信って少ないんですよね。

そして、育児を通して、親も一人の人間で、成長途中だと思いました。
家事、育児、介護、仕事を精一杯やる中で、押しつぶされそうになっていて、それでも家族のために頑張っているのです。

今、息子はとても快適な環境で生活しています。
私は子どもにとって不自由な環境にしたくないから頑張るのですが、その反面、自分の子どものころを思い出すことが増えました。
そして今自分の周りの関係者の方はとても優しいと感じますが、放置子に対してはどうだろうかと思いました。

自分自身も経験があるように、きちんとした保護者がいる子どもには世間は優しいのです。
でもそうではない場合は?冷たい視線や助けたくても自分に降りかかるかもしれないということで見て見ぬふりになります。
私もそうです。守る対象が”息子”ですから。

でも当時の自分の気持ちも捨てきれず、noteに投稿することを決めました。
自分は文才もなくて、伝えることが下手です。
伝える文章って本当に難しいと感じました。
構成も重要だし、タイミングもあるし、自分の言いたいことをまとめるのは難しいです。それでも少しでも多くの人に知ってもらいたいと思いました。

本当は自分の環境を取り巻く変化やその環境で足掻いて生きてきたからこそ、それが仕事に活かされたり、不育症に悩まされたときの心情などまだまだ反映させたい部分はありましたが、今回の作品は彼にフォーカスをして描きました。

今だからこそ、地域のコミュニティってすごく重要だなって改めて思います。
祖父母の言葉やエピソードをいれたのは、私や彼が素直にいられた理由を見えるようにしたかったからです。そして子どもにどう寄り添えば届くのか、助けたい気持ちがあっても余力がないと難しい現実とか、お母さんが好きな子どもに声をかけても空回りしてしまう切なさとかそういうリアルを届けたいなと思いました。

子どもの無力さを、貧しい家庭に向ける大人の冷たさを、聞こえない声を聞こえてくれたらいいなと思います。
貧困問題は日本でも起こっている。
見えにくい格差を知ってほしいです。
そして、少しでもこの作品を読んで社会問題を考えてくれたり、誰かの力になったら嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。「スキ」をくれたら、とても励みになります。



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