人間が操作できる対象は物理的「実体」か?:佐藤文隆先生を悼む
佐藤文隆先生が亡くなられました。2025年9月14日午前0時56分、細菌性肺炎のため京都市内の病院で御死去。京都大学基礎物理学研究所での研究会で講演をされた2025年9月11日から、実質的にその2日後の御急逝でした。今回は、最近の先生のメッセージを読み解くことで、先生を偲びたいと思います。
青土社から2024年3月19日に出版され、その年の毎日出版文化賞が贈られた『量子力学の100年』という先生の書籍があります。
この中から、佐藤先生らしいメッセージを、以下にいくつか抜き出してみます。
いまやこの性質を表現するには量子力学におけるモノを『モノ』として捉えるよりもむしろ『量子情報』と呼ぶのに相応しいものであることが明確になっている。
「量子力学は情報理論」
EPRで提起された謎が実験による解明を経て、二一世紀に入った頃からは、量子的『情報の理論』として深化を深めている。
『情報の理論』とは、量子力学の数理理論に登場する状態ベクトルや波動関数といった数学的量は実在の表現ではなく、実在についての『情報の理論』であることが鮮明になったという意味である。
佐藤先生は過去100年の量子力学の歴史の中で、「プランク定数hのある量子力学」と「hのない量子力学」という構造を抜き出されました。「hのある量子力学」とは前期量子論から始まる作用量Sの量子化と結びついた話です。我々の身の回りの古典的領域の「モノ」の作用量Sは、hに比べて圧倒的に大きく、そのSを小さく制御していく過程で見えてくるものが「hのある量子力学」です。一方で、量子コンピュータなどの進展が激しい最近では、hが定式化に現れない情報理論が、量子力学のベースです。この量子情報理論のことを「hのない量子力学」と呼ばれて、その重要性を先生が強調されることも最近では多かったと思います。
佐藤先生が『量子力学の100年』を出版された後の、昨年2024年10月にはノーベル物理学賞とノーベル化学賞に、コンピュータサイエンスと近接をしたAIの成果が選ばれ、物理業界にも大きな動揺が走りました。これはひとつの象徴に過ぎませんが、現在のAI革命は、実際に物理学研究の様相も大きく変えていっております。今後、物理業界はコンピュータサイエンス業界の中の一分野として取り込まれ、その中で埋没していくのではないかと、心配する声も多く聞かれました。人間の物理学研究者が行うべき「仕事」とは何かが、深く問われ始めているのです。佐藤先生も、このAI革命に無関心ではいられなかったと思われます。はっきりと言及された文章を私はまだ見つけておりませんが、先生の思考においても、現在進行中のAI革命が大きく占めていたのではないかと、個人的には推察をしております。
たとえば、佐藤先生が書かれた、『科学』2025年9月号「量子力学は人間の特殊性・非普遍性を炙りだす」という記事には、次のような文章があります。
他方、量子力学を越えて、「確率」の存在論と認識論には広範な議論がある。特に近年、数理機器の広がりに伴って、統計データの科学処理の利用も広範な分野で活発になっている。物理学で主流である「因果性」を外した「相関性」の科学的手法が多くなり、科学における法則性の捉え方が流動化している。
この言及がAIを使った科学を指していることは明白です。この記事の中でも、量子力学が情報理論でもあることを、佐藤先生は下記のように強調をしています。
一般の状態ベクトルは基底ベクトルとベクトルの成分で表される。基底ベクトルの個数はベクトル空間の次元数を表し、次元数は2から無限大に及ぶ。すなわち、一般の量子状態は「重なった」状態として表現される。密度行列の導入で「重なった」と「混合」を同格で扱い、情報量のエントロピーをキーワードとする情報理論でもある。
ところが注意書きのように、先生はこのように続けています。
物理的操作で状態ベクトルを操作(manipulate)できるから、直観的にイメージできなくても、状態ベクトルは明確に物理的実体に根拠をもつ数学的表象である。物理学は物質界の新局面への展開において常に新しい数学的表象を追加してきており、非直観的でも数理的表象可能な実体を受容している。
物理学帝国主義最盛期の時代を生き抜いて来られた佐藤先生ですが、量子力学を基盤とする物理学が、コンピュータサイエンスや情報科学の一分野へと、ごく近いうちに落ちぶれることを懸念されたのか、佐藤先生はすこし方向性を修正されているように見えます。
ベル不等式の破れの検証や、状態ベクトルや波動関数の量子状態トモグラフィ法による操作論的な定式化から、量子力学が素朴実在論ではないことは明らかです。このことに関しては、佐藤先生もご意見を変えていないようですが、「素朴実在」ではなく、代わりに「物理的実体」というものを今後の物理学の中心に据えることで、物理学分野の独立性を保つ論を立てられていると思いました。
この記事で先生は明示的に「物理的実体」やその思想を詳しく語られていないのですが、私がその文章を読んで想起したのは、科学哲学分野での「実体実在論」(entity realism)です。目には見えない電子ビームを実在だと思う根拠として、「もしそれを射出することができるなら、それは実在する」を挙げるひとつの科学論です。電子ビームの実在性は、磁場などを調整したりすることで、ビーム進行方向にある物体を回転させたりすることができます。このように人間が操作可能な対象があれば、それは少なくとも物理的実体、または拡張された実在概念として、受け入れても良いのではないかというのが、実体実在論の大体の概要です。
この実体実在論を、どのくらい佐藤先生がシリアスに捉えられていたのかは、もう確かめることはできません。しかし、この実体実在論には多数の批判が既に存在します。たとえば宇宙の果てにあって、人類がそれを操作できない天体は「物理的実体」とまだ認定できないというのはいかがなものかという批判もあります。佐藤先生がご専門とされていたブラックホールも、人間が操作できる対象にはなっていないため、本来の実体実在論では、ブラックホールは実在であるとまだ認定されないと、結論されてしまいます。また人間による操作可能性だけならば、ゲームの中のアイテムやキャラクターは物理的実体かという問いかけも出てきます。これらのゲームキャラクターは、自律的にも、そして人間の操作でも、自由に動き回りますが、素朴実在論者はそれを実在だとは決して認めたくはないでしょう。実体実在論は、本来は実在という客観性のある概念の復活を目指すものだったはずです。でも、現在の最新技術では、バーチャルリアリティも、電子世界の中で本物の物理法則に従って自然に動き、そして人間の操作も可能な、デジタルな「実在」なのです。実在論者が真に欲していたものとは、随分と距離が出てきているのです。
情報科学に物理学が飲み込まれないための言い分として、本来は情報的な存在である量子力学の状態ベクトルを「物理的実体」と拡大解釈することは、大変弱い「論」であることは否めません。この弱点は、佐藤先生ご自身も気づかれていたのではないかとも、感じています。それでも、敢えて「物理的実体」と「客観性」を復活させたい先生の意図を感じさせる文章が、『科学』の記事の最後に出てきます。
量子力学の解釈をめぐるボーア・アインシュタイン論争が放置されても支障がない学問であるという現実は量子力学、ひいては科学の認識論としてはマッハ主義、道具主義を示唆しており、限界を無視したこの科学のメタファーの流行は政治・文化世界にpost-truth的風潮を助長するかもしれない。
量子力学という学問の現実は、「実在論」ではなく「認識論」としてのマッハ主義、道具主義を示唆すると書かれています。すると何が危惧されるのか?それは決定論的実在の客観性に基づいて担保されていた、「ただ1つであるはずの真実」という価値が社会で廃れて、個々人の思い込みによる陰謀論などのpost-truth(脱真実)が政治・文化世界の中で助長される可能性を、佐藤先生は指摘しているのです。
「限界を無視したこの科学のメタファー」の「限界」とは、「hのある量子力学」による現実の制限を指していると思います。科学リテラシーを持たず、陰謀論を好む人々は、原理的に可能な話と、現実の技術による限界の話をきちんと捉えられない状況があります。そして実際に「スピリチュアル系量子力学」というカテゴリーの非科学的な言説も社会に広まり、世界各国の政治にも影響を与え始めました。
たとえば量子コンピュータがマクロ化していく今のニュースを見て、「朝永振一郎の『光子の裁判』は現実であり、実際の裁判でのアリバイの合理性は、最新の量子力学の知見からは成り立たない」という強弁を聴けば、多くの理性的な人々はきちんと「それはおかしい」と指摘をすることでしょう。
マクロな量子系としての被告、波乃光子(なみのみつこ)のアリバイが量子的なものになるには、超精密に波乃光子の体の全ての原子分子を制御する必要があるわけですが、現実の波乃光子には、そのような制御はもちろん行われていませんし、実際人間の体全体の量子性を出すような制御技術を、人類は手にしていないからです。しかし、リテラシーなく、ものごとを雑に考えて、「限界を無視する」人々がこれから多く出てくる危険性があるという、佐藤先生のご指摘なのだと思います。
量子力学において、素朴実在というものは実験で既に否定をされますが、実際には間主観性の意味での客観性が、その量子力学の中に存在しています。この「間主観性」とは、素朴実在論での実在が担保をしていた強い客観性ではないが、多数の観測者が同意する緩い客観性のことです。これはエトムント・フッサールなどの哲学現象論の研究者達によって発展されられてきました。佐藤先生がご逝去の直前に参加された京大基研での研究会の中で、小澤正直先生が発表された内容も、この量子力学における「間主観性」の証明の話です。測定方法を量子力学で許される最善のものに選択することで、観測者の間での「事実の共有」が実際には可能なのです。そして、個人個人の思い込みを排除できます。
簡単のために図1のように、アップ状態とダウン状態の量子重ね合わせの純粋状態にある二準位スピン系Sを考えます。そして、4人の観測者(エージェント)が代わる代わるにそのSと相互作用をした後、その測定結果を4人の中で比べます。

もし4人とも誤差が大きな駄目な測定をすれば、4人の結果もバラバラになり、4人全員が納得する合意をすることもできません。しかし量子測定には、フォンノイマンのポインター基底測定のような、「正確な測定」というカテゴリーの測定があります。それを4人全員が採用すれば、図2のような、Sと4人の観測者の合成系状態を実現でき、そして4人の観測結果は全て同じになります。

これはスピンSがアップであるかダウンであるかが素朴実在論的に決まっていることを意味しませんし、またベル不等式の破れから、Sが素朴実在であることも否定をされています。
しかし、主観的な観測者の集団の中でも、観測者の間での合理的な客観性だけは、量子力学でも確保されるのです。これが「間主観性」(intersubjectivity)です。ここで「間」(inter)とは、「国際的」という英語である「international」のように、「繋ぐ」という意味があります。ですから「間主観」とは、主観的主体である複数の観測者たちを繋いだ場合に正当化される事柄を指します。この意味で、客観的な素朴実在とは異なり、観測者集団に対する認識論的な概念とも言えます。また認識論的な量子力学解釈のひとつであるQビズム(量子ベイズ主義)でさえも、状態推定の更新だけでなく、測定方法の更新まで含めれば、この間主観性は最終的には満たされます。このおかげで、量子力学においても、個々人の妄想や勝手な思い込みを排除することができるのです。
実在論ではない量子力学の認識論的理解においては、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。」「独我論が言わんとするところは全く正しい。 しかし、 それは語られえず、 示されるのみである。」という主張こそが、その表現として正確だと私自身は考えています。量子力学は、「主体」である観測者が不在でも成り立つ、客観的な素朴実在を否定しているのは明らかです。また観測者集団の間主観性をきちんと理解した後でも、異なる実験環境での文脈依存性は、量子力学から無くすことができません。
また状態ベクトルを佐藤先生のように「物理的実体」と拡張解釈したとしても、それは異なる状況に置かれた観測者集団にとっては、異なる状態ベクトルが採用をされます。これは下記の量子テレポーテーションの例でも、はっきりしています。
状態ベクトルは、確率に基づいた情報概念なのであり、文脈(実験設定)や観測者の事前知識に依存するという性質は、不可避なのです。
ここで『科学』の佐藤先生の記事の「量子力学は人間の特殊性・非普遍性を炙りだす」という、タイトルに目を戻してみましょう。このタイトルの主張こそが佐藤先生が読者にもっとも伝えたかったメッセージのはずです。これについて、下記のように先生は述べています。
素朴実在論者としての物理学者の最大の不満は「観測」(測定)が、物理過程ではない形で、「hのない」量子力学に存在することである。(中略) 開いた系のモデル化でデコヒーレント化する変数(pointer-basis)を自然が選ぶとして人間は排除を貫こうとする試みもあるが、進化論的にはそれが人間に乗り移ってという意味で人間の特殊性を引きずっていることになる。これは、物理学の概念を人間の身体的・社会的経験(歴史)と独立な概念であるとする「素朴実在論」を揺るがす。進化論的に偶然に形成された人間の概念で構成される物理的世界像となる。マクロ世界の生存に特化して発達した人間(感覚・生存戦略の産物)と異世界との遭遇が生み出す齟齬である。
たまたま作用量Sが、プランク定数hに比べて異常に大きくなったこの世界の進化の過程の中に人類が現れ、そして量子揺らぎが無視できる装置を使って、科学を営めることになった、この「偶然性」。人間が使える五感という能力に接続できる実験装置無しでは、科学を推し進められないという、根本的な事情。結局、人間の科学の営みが可能である本質的な理由は、ある意味「人間原理」でしか答えられません。
そして、人間や他の意識をもった観測者をその中から完全に排除する科学が不可能であることが明確になったのが、この量子力学の100年だったのです。実証科学で得られる世界観から、観測者(エージェント)を消し去ることは、原理的にできないのです。世界を自分の意識のスクリーンに映す観測者の「身体性」こそが、AI時代に物理学者が重視すべきひとつの要素とも言えますし、その身体性重視の姿勢は、素朴実在論での「観測者排除」とは全く別なベクトルを持つことになります。それこそが、先生が記事のタイトルに選ばれた「量子力学は人間の特殊性・非普遍性を炙りだす」の、意味の本質ではないかと、個人的に解釈をしています。
古典力学的な素朴実在論の世界観に、人類はもう戻ることはできないのです。現代の量子力学は、実在としての物理的対象物を扱うものではなく、世界の中の全ての存在を認識論的情報概念に還元して扱う理論です。このことは同時に五感から進化した科学の極限形態であることも強く示唆しているのです。
多分このことも、佐藤先生は重々承知の上だったと思います。先生の最後のご講演となった京大基研での発表タイトルは、このnote上部のサムネのお写真にあるように「量子力学の100年」でした。私は、出張先の海外からZOOM視聴をさせて頂きました。その講演冒頭では、ここで言いたいことは『量子力学の100年』という本に書いてあると、先生はおっしゃられました。このことを踏まえると、先生の最後の物理学者としての立ち位置が、浮かび上がってまいります。情報科学に飲み込まれんとする実在論的物理学への憐憫の想いを最後まで持ち続けた「恥じらいの実在論者」として、そしてそのラストサムライとして、多くの人々に影響を残しながら、天寿を全うされた先生の御逝去を、受け止めようとしている自分がおります。ご冥福をお祈り申し上げます。
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