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量子力学の<私>の視点から見たときの「気持ち悪さ」は、解消するのか?

「我思う、故に我在り」と言った、ルネ・デカルトは「我」、即ち<私>の存在は疑えないとしました。現代科学という営みにおいても、その能動的な主体である<私>の存在は、公理として仮定をされます。科学とは、人間の五感を出発点にして、高度な測定機を使った実験観測を対象に行って、その対象がその反応として返してくるデータを解析するだけの、人間の実証的な営みに過ぎません。

この事実は、特に量子力学において重要になります。この量子力学は、情報理論の一種であると、現在では理解をされています。

そして、一般に確率概念を使って表現される、量子力学での「情報」とは、どの観測対象に関する、誰にとっての、情報であると、はっきりと指定をしないと意味が定まりません。この「誰」が、まさに観測主体である観測者の「意識」であり、<私>と定義されるものです。外の世界にアクセスをしてデータを集めて、その解析と意味を考える科学の主体者こそが、この<私>なのです。

このように情報理論として量子力学を捉えれば、前世紀に散々議論をされた観測問題というものも存在しなかったことが分かります。

ところが、現在でも哲学者や、形而上哲学に関心がある一部の物理学者によって、未だこの観測問題が論じ続けられているようです。それは「波動関数の収縮」という特定の問題を超えて、量子力学を実在論的に理解しようと、彼らが抗い続ける方向性での議論です。そのため、「量子力学の観測問題」というよりも、「量子力学の解釈問題」という言い方が好まれる場合もあります。

ベル不等式の破れが実験的に検証されている現在、何故そこまで決定論的な実在論などに拘り続け、「解釈問題」を彼らが論じているのかは、個人的に理解できないままでいます。しかし、このあたりの彼らの心情は、佐藤文隆氏の『量子力学の100年』という書籍を読むと、察せられる部分があります。

実際には、実証科学としての量子力学に対して、その「解釈」を論じる余地は全くありません。波動関数や状態ベクトルも、量子状態トモグラフィ法によって実験ではっきりと操作的に定義されています。そこに解釈が入る隙はないのです。

量子力学には「観測問題」も「解釈問題」も、そもそも存在していません。量子の現実についていけないという、気持ち、感情の問題があるだけです。それは人間側の問題であって、自然界に何か問題があるわけではないのです。自然界を人間に引き寄せようとするのではなく、人間が歩み寄るべき状況です。

相対論において、走っている時計の時間はゆっくりとなり、走っている物差しは縮むといっても、現在の多くの人々はそれを感情的にも受け入れて、時空の性質であると理解をしています。相対論の自然観に、人間側が歩み寄ったのです。特に「相対論の観測問題」や「相対論の解釈問題」というものを多くの人は論じません。なぜ量子力学の現実だけは、長く受け入れを拒むのでしょうか?それを超えていくには、理性の力を個々人でもっと強く発揮するしかないのです。

量子力学は自然言語で記述されてないから、観測問題や解釈問題は依然としてあるという主張もされるようですが、それは人間中心主義のエゴイズムです。「自然言語」とは、特定の個人や組織が意図的に設計したものではなく、長い歴史や文化の中で自然に発展してきた言語とされますが、それは自然界の記述にふさわしい言語という意味ではありません。「量子力学を理解できる自然言語」とは、本来は自然界を正しくトレースするものであるべきであり、幼い人間側の理解の仕方へと、自然側を手繰り寄せるものではないはずです。

ところで、この「解釈問題」について、下記の意見を最近目にしました。

白石直人著 物理科学I(量子情報入門):講義ノート P43
https://naotoshiraishi.wordpress.com/wp-content/uploads/2025/04/2025-q-info.pdf

量子力学では、観測者自身もマクロな量子系ですので、<私>であると認知しているその観測者自身も、外部の他の観測者にとっては量子的な重ね合わせ状態になれます。その点では、人間の観測者であろうとも、同じ素粒子の集まりの量子系としては、シュレディンガーの猫と同じなのです。

ここで量子力学の矛盾のない理解で重要となるのは、「この<私>にとっての、<私>の波動関数や状態ベクトル」は存在していないという点です。たとえば、マクロ量子系であるアリスという観測者の波動関数は、飽くまで外部の他の観測者に対して定義をされるものであって、「アリス自身にとっての、アリスの波動関数」という概念は、量子力学にそもそも存在していないのです。

シュレディンガーの猫では、生きている猫の状態と死んでいる猫の状態の量子的な重ね合わせですが、これを記述する状態ベクトルは、この猫自身にとっての自己言及ではないのです。外部の、たとえば飼い主にとっての、猫の状態ベクトルであり、その重ね合わせ状態です。そもそも猫は片方の状態では死んでしまっています。生きている猫が自分が死んでいることを想像することはできても、自分が死んでいる状態と生きている状態との量子干渉をこの猫が実証することは、原理的に不可能です。したがって、この状態ベクトルが、猫にとっての猫自身への言及であるわけはないのです。

この猫のマクロな重ね合わせは、猫の体の極一部分の測定で、簡単に壊れるとも言われます。たとえば、この猫を簡単のためにN個の量子ビット系で近似してみましょう。それぞれの量子ビットは猫の細胞だとして、|0>はその細胞が死んでいる状態、|1>はその細胞が生きている状態としましょう。すると、「死んでいる猫」の状態は、N個全ての量子ビットが|0>である状態に対応し、そして「生きている猫」の状態は、N個全ての量子ビットが|1>である状態に対応します。そして半々で生死が重ね合わせになっている猫状態は、たとえば(1)式で与えられます。

(1)式:シュレディンガーの猫状態

ここで、猫全体の測定をせず、ただ最初の1つの細胞の生死を測定しただけでも、猫の状態は生きている状態と死んでいる状態の古典的な確率混合になります。最初の量子ビットのスピンz成分の測定における射影行列は、

(2)式:細胞の生死を測る射影行列

で与えられます。この測定を実行して、この1つの細胞が死んでいると観測された場合は、その測定後の猫全体の状態は

(3)式:猫が死んでいる状態

という、猫全体が死んでいる状態へと収縮します。同様に、この1つの細胞が生きていると観測された場合には、

(4)式:猫が生きている状態

という猫が生きている状態へと収縮します。各結果は同じ50%で起きるため、測定後は(3)式の状態と(4)式の状態を1/2の割合で平均化した古典的な混合状態になるのです。生きている状態と死んでいる状態の間の量子干渉性を観測することは、もうできません。

このようなことから、シュレディンガーの猫状態は、局所的な測定に対して非常に不安定であると、よく言われます。しかし、それはあまり精密な主張ではありません。ただ1つの細胞を測定する場合でも、別な測定をすれば、測定後の猫の状態はほぼ生死の量子的な重ね合わせのままにできるからです。

たとえば、最初の量子ビットに対してスピンz成分ではなく、スピンx成分を測定しています。量子ビットの測定なので、x成分の測定はz成分の測定と同程度に容易です。そのスピンx成分の単位固有ベクトルは下記で与えられています。

(5)式:スピンx成分の固有ベクトル

そして、x成分の測定に対する射影行列は

(6)式:x成分測定の射影行列

になっています。そこでシュレディンガーの猫状態において、最初の量子ビットのスピンx成分を測定したら、その細胞が+の状態に見いだされたとします。すると、猫全体の状態は

(7)式:最初の量子ビットが+となった後の猫の状態

と計算されます。同様に、最初の量子ビットがーであると観測された後の猫の状態も、下記のように計算されます。

(8)式:最初の量子ビットが+となった後の猫の状態

ここで注目されるのは、最初の量子ビットを除いたN-1個の量子ビット全体が、量子的な重ね合わせのままになっていることです。Nは非常に大きな数なので、猫はただ1つの細胞を除いて、ちゃんとシュレディンガーの猫状態をキープしていることになります。ですから、局所的な測定に対して、マクロな量子重ね合わせがいつも不安定であるとは言えません。


外部観測者にとってマクロな量子系である、内部観測者の<私>の量子的な重ね合わせにおいて、<私>の視点から見たときに起こる「気持ち悪さ」を解消しようと試みるのが、量子力学の「解釈問題」なのかもしれないと、先の著者は述べています。

ただ、もしその著者の言うとおりだとすると、この量子力学の解釈問題も、そもそも存在していないことは明らかなのです。ややこしいですが、「私」の量子状態とは、<私>にとっての、この<私>に関する自己言及ではなく、他者の立場におけるこの「私」への言及に過ぎないからです。それを以下で少し詳しくみてましょう。

まず量子ビットSとそのスピンz成分を観測する測定機Dを考えます。その合成系の初期状態は

(9)式:量子ビット系と、それを測定する測定機の合成系の初期状態

で与えられているとします。Sの状態はスピンz成分のアップ状態|0>とダウン状態|1>の重ね合わせになっています。Dの|null>という状態は、測定機の初期化された状態であり、まだSの情報を何も含んでいません。Sが0であることを観測したDの状態ベクトルと、1であることを観測した状態ベクトルは、下記のように直交をしています。

(10)式:測定機Dの測定結果を記録した状態の直交性

すると、DがSと相互作用をして、Sのz成分の情報をDが記録した後の状態は、下記のように書けます。

(11)式:測定後のSとDの合成系の状態

ここでDの結果を読み出す、観測者Oとしての<私>を含めた、次の状態を、先の著者はその資料の中で考えていました。

(12)式:量子ビットSと測定機Dと観測者Oの合成系

測定機Dと観測者Oが相互作用をすることで、Dに記録されたSの測定結果をOは知ることになるのですが、その後の状態をこの著者は

を満たすOのマクロ状態を使って、

(13)式:SとDとOのマクロな重ね合わせ状態

と書いています。ここで「気持ち悪さ」と著者が言ってしまうのは、その著者が、Oのそれぞれの状態を「0を見た私」や「1を見た私」と書いてしまっていることが、その原因だと思うのです。

上で既に注意してありますように、量子状態は対象の自己言及の概念ではありません。「見た私」と書いてしまうと、(13)式は観測者Oによる観測者O自身への言及だと誤解をさせてしまうのです。

それでは困りますので、以下ではOの名前をアリスだとして、「見た私」を「見たアリス」と書き換えてみます。また、測定機Dの自由度を観測者の一部だと見なしても、本質的な差を生みませんから、DとOを合わせた量子系として「アリス」という量子系Aを定義します。すると(13)式の状態ベクトルは

(14)式:量子ビットSと観測者アリスの合成系のマクロな重ね合わせ状態

と書き換えられます。これによって(13)式に含まれていた自己言及の間違いを修正できました。

つぎに、量子ビットSのスピンx成分を、アリスではない観測者ボブが測定するとします。Sは+であるとボブが観測した場合には、Sとアリスの系の状態は

(15)式:+が観測された後の合成系の状態

で与えられます。またーが観測された場合には、

(16)式:+が観測された後の合成系の状態

という状態になります。(7)式や(8)式のシュレ猫状態のように、アリスもマクロな重ね合わせ状態になっている点に注目してください。(以下では、シュレディンガーの猫を、シュレ猫と略します。)

量子ビットSのx成分の測定は、そのz成分と同レベルに容易です。その測定によって、人間アリスの「シュレ猫状態」が簡単に生成できるのです。なお、環境系のためにアリスの縮約状態が混合状態であれば、環境系の自由度を使って、合成系の状態を純粋化(purification)すればよいのです。ここでは、環境系とアリスが予め相互作用をしている場合に、アリスの状態を純粋化をする環境系の部分まで含めて「アリス」と呼ぶことにします。

先ほどの著者が気にしていた、観測者の<私>からの視点として、今の場合ではボブの視点を考えることができます。アリスから見れば、ボブも単なるマクロな量子系ですから、そういう視点を考えることに問題は起きません。そこで、アリスから見た量子ビットSとボブの合成系を次に考えてみます。

最初のSのz成分の測定で、アリスが0を見たのならば、Sは|0>という状態になっています。今度はそのSのx成分をボブが測定します。その初期状態は、アリスにとって

(17)式:アリスが0を見ていたときの、アリスから見たSとボブの合成系の初期状態

となります。そしてボブがSと相互作用をして、Sの情報を得た後の状態は

(18)式:アリスが0を見たときの、ボブの測定過程が終わった後のSとボブの状態

と書かれます。これはアリスにとっての、Sとボブの合成系の状態です。同様に、アリスが最初にz成分測定で1を見ていたならば、

(19)式:アリスが0を見ていたときの、アリスから見たSとボブの合成系の初期状態

という初期状態から、

(20)式:アリスが1を見たときの、ボブの測定過程が終わった後のSとボブの状態

という状態に変化しています。再度注意しておきますが、これらの状態ベクトルは、アリスにとってのものであり、ボブのボブ自身への自己言及の式ではありません。

更に、ボブのx成分の測定の後、アリスがもう一度Sのz成分を測定するとします。アリスが最初の測定0を見て、かつ2回目の測定でも0を見た場合には、アリスにとっての、Sとボブの合成系の状態は下記のようになります。

(21)式:最初に0、2回目も0をアリスが見たときのSとボブの量子状態

すると、今度はアリスから見たマクロ量子系のボブが、シュレ猫状態になっています。同様に、アリスが最初に0を見て、そして2回目に1を見た場合には

(22)式:最初に0、2回目に1をアリスが見たときのSとボブの量子状態

となりますし、またアリスが最初に1、2回目に0を見た場合には

(23)式:最初に1、2回目に0をアリスが見たときのSとボブの量子状態

となり、またアリスが最初に1、2回目に1を見た場合には

(24)式:最初に1、2回目に1をアリスが見たときのSとボブの量子状態

となって、いずれでもアリスにとって、ボブは重ね合わせ状態になっています。

ここで念のため補足をしておきます。アリスやボブを作っている素粒子の集まりとしての量子系AとBには、それぞれ1つに特定された基底が存在して、それが彼らの「意識」を表現をしているという前提は必要です。もしこの「意識基底」が存在していないと、(14)式の量子ビットSと観測者アリスの合成系のマクロな重ね合わせ状態の解釈が、変になります。たとえば、元の基底と

(25)式:Aの異なる基底

という関係で繋がっている別な基底を用いれば、同じ(14)式の状態ベクトルは

(26)式:アリスの量子的な別人格「アリス’」がSの±を見ている?

とも書けてしまうからです。この2つのAの基底が平等だとすると、同じ時刻の同じマクロ量子系Aに、0と1を見ている「アリス」と、+とーを見ている別人格「アリス’(アリスダッシュ)」という異なる意識が宿っていることになります。また(25)式の基底以外も、連続的に異なるAの基底が存在しており、そして(26)式のような形にSとAの合成系の状態は書くことができます。したがって、量子系Aは連続無限個の量子的な多重人格を宿すことになってしまいます。

これは我々の実際の体験とは異なりますね。我々は、少なくともある時刻には、ただ1つの人格で居るという経験を持っています。そして、この経験事実と量子多重人格の解釈は、互いに矛盾しています。ですから、上の量子多重人格の議論は間違っていて、マクロ量子系Aには、意識も持ったアリスを表現している特定の「意識基底」が、ただ1つ存在していることがわかります。このことも、情報理論としての量子力学の公理に、観測者の「意識」の存在を入れておく必然性を示しているのです。

これらの結果をまとめますと、量子力学の<私>の視点から見たときの「気持ち悪さ」は、そもそも量子力学の中にはそもそも存在していなかったと言えます。つまり、量子力学には波動関数(波束)の収縮の「観測問題」もなければ、また観測者自身による自己言及に関しての「解釈問題」も、最初から存在していません。感情を超えて、人間の直観を量子的世界観に合わせていくしかないのです。

なおこれと同様のことは、拙書『量子情報と時空の物理』(サイエンス社)の第3章でも解説をしています。


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