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こんな男がなぜ生きているんだ!「カラマーゾフを読む」(15)

こんな男がなぜ生きているんだ!「カラマーゾフを読む」(15)

第二編 場違いな会合 六 こんな男がなぜ生きているんだ!

前回の記事「イワンは無神論者?謎めいた言葉の裏に何がある?「カラマーゾフを読む」(14)」ではイワンの意味深な言葉とその行動を見ていきましたが、この章の後半ではそんな厳粛な雰囲気をぶち壊す事件が勃発します。

当然、火元はフョードルです。もうお決まりですね。

フョードルは自身と息子二人をシラーの『群盗』になぞらえて演説をぶちます。このシラーに関しては後にドミートリイの関係で改めてお話ししたいと思いますので頭の片隅に置いておいてください。

そしてフョードルの挑発にまんまと乗ってしまうドミートリイ。こうなってしまえば後は野となれ山となれ。フョードルの大熱演ぶりにドストエフスキーはこう説明を加えています。

一生芝居をしつづけてきた老いぼれの嘘つきにも、興奮のあまりもはや本当に身をふるわせて泣くほど、大熱演する瞬間があるものだ。とはいっても、ほかならぬその瞬間にさえ(あるいは、ほんの一秒後に)、『お前はまた嘘をついてるな、老いぼれの恥知らずめ。《神聖な》怒りだの、怒りの《神聖な》瞬間だのと言ってやがるくせに、現に今だってお前は役者気どりじゃないか』と、みずから心にささやくかもしれないのだが。

新潮社、ドストエフスキー、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P176-177

なんともはやまあ鋭い人間観察だこと!人間の機微がここに詰まっていますよね。人間とはやはりどこまでいっても複雑で、謎な存在なのです。

そして決定的なセリフがドミートリイから発せられます。

「こんな男がなぜ生きているんだ!」

新潮社、ドストエフスキー、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P178

「フョードルってどんな人ですか?」と聞かれたらこう返せばよいでしょう。「こんな男がなぜ生きているんだ!という人です」と。それほど見事な一撃です。

これに対してフョードルの返しもさすがでした。

「ききましたか、え、神父さんたち、父親殺しの言うことをききましたかね?」

新潮社、ドストエフスキー、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P178

ここで例の「父親殺し」が初めて登場します。よく「『カラマーゾフの兄弟』は父親殺しの小説である」と言われたりもしますが、その初出がここになります。ただ、今のところはただフョードルが道化的にドミートリイの売り言葉に買い言葉で発した言葉の域を越えません。

この小説が本当に父親殺しの小説なのかどうかは「『カラマーゾフの兄弟』は本当に父殺しの小説なのだろうか本気で考えてみた~フロイト『ドストエフスキーの父親殺し』を読んで」という記事で考えてみましたので興味のある方はぜひご参照ください。

さて、自身の大熱演によってさらに興奮したフョードルは修道院にも矛先を向け始めます。

神父さん!あんた方はここでキャベツなんぞで行いすまして、自分たちこそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。ウグイを食べて、一日に一匹ずつウグイを食べて、ウグイで神さまが買えると思っているんだ!

新潮社、ドストエフスキー、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P179

出ました。またもやキャベツです。今回はそこにウグイも追加されました。さすがの道化ぶりです。

そして皆さんもお気づきのように、イワンによって聖なる領域に振れていた振り子がここに来て一気に俗なる領域へと帰ってきました。ああ、もうめちゃくちゃだ・・・!

しかしその瞬間、ゾシマの謎の跪拝がなされるのです。

醜態にまで達したこの騒ぎは、この上なく意外な幕切れで終った。ふいに長老が席を立ったのである。長老や一同に対する不安からほとんどわれを失っていたアリョーシャは、それでも、すかさず長老の手を支えた。長老はドミートリイの方に歩きだし、すぐそばまで行きつくなり、その前にひざまずいた。アリョーシャは衰弱で倒れたのだと思いかけたが、それは違った。ひざまずいたあと、長老はドミートリイの足もとにはっきりした、意識的な跪拝をし、額を地面に触れさえした。アリョーシャはあまりのおどろきに、長老が起きあがろうとしたとき、助け起すのが間に合わぬほどだった。長老の口もとに弱々しい微笑がかすかにかがやいていた。

「赦しておあげなさい!すべてを赦すことです!」客たちに対して四方におじぎをしながら、彼は言った。

新潮社、ドストエフスキー、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P179

この唐突なゾシマの跪拝・・・!

ああ!何たるタイミングでしょう!このたった数ページで恐るべき振れ幅が記録されています!ドストエフスキーはそれを全て計算の上書き上げているのです。こういうドストエフスキーに私は痺れるのです。

そしてこの跪拝にはどのような意味が込められていたのでしょうか。

「赦しておあげなさい!すべてを許すことです!」という言葉は何を意味しているのでしょう。誰が?誰を?何に?

あまりに意味深なこの跪拝は結局最後まで謎のままです。ラキーチンのような皮肉屋からすれば、「こんなもの!」とでも言うべき芝居かもしれませんが、そんな言葉では片付けられない何かがあることは言うまでもないでしょう。

これは私たち読者にとっても同じです。ここで私たちが何を受け取るのかが問われているのです。

皆さんはどう感じたでしょうか。

私はあえてこれ以上は述べません。

なぜなら、これは読者ひとりひとりの課題だからです。答えを各々でひねり出すしかないのです。

私の答えは何なのかですって?

それは追い追い明らかになっていくことでしょう。この物語を読んでいく中で少しずつそれを示していくつもりです。まずはこの小説を引き続き読み進めていくことにしましょう。

続く

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