見出し画像

ゾシマ・アリョーシャは法然・親鸞?「カラマーゾフを読む」(16)

ゾシマ・アリョーシャは法然・親鸞?「カラマーゾフを読む」(16)

第二編 場違いな会合 七 出世主義者の神学生

さて、この章ではその冒頭から衝撃的な言葉が語られることになります。

結論から言いますと、私はこのゾシマからアリョーシャへの言葉に、法然と親鸞の関係性を重ねてしまうのです。

では、早速その言葉を見ていきましょう。

お前は向うでいっそう必要な人間なのだ。向うには和がないからの。お前が給仕をしていれば、役に立つこともあろう。いさかいが起ったら、お祈りするといい。そして、いいかね、息子や(長老は彼をこう呼ぶのが好きだった)、将来もお前のいるべき場所はここではないのだよ。これを肝に銘じておきなさい。わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ。」

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P185

「わたしが神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ。」

ゾシマ長老からアリョーシャに語られたこの言葉は私にとってあまりに衝撃的なものでした。続けて語られた次の言葉も決定的です。

どうした?お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世での大きな修業のために、わたしが祝福してあげよう。お前はこれからまだ、たくさん遍歴を重ねねばならぬ。結婚もせねばならぬだろう。当然。ふたたび戻ってくるまでに、あらゆることに堪えぬかねばなるまい。やることは数多く出てくるだろうしの。しかし、わたしはお前を信頼しておる。だからこそ、送りだすのだ。お前にはキリストがついておる。キリストをお守りするのだ、そうすればお前も守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよーこれがお前への遺言だ。働きなさい、倦むことなく働くのだよ。

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P185

この神さまやキリストを阿弥陀仏に置き換えてみてください。そうすると、これはまさに法然から親鸞への言葉にしか見えなくなってしまいます。これには私も驚きました。

もちろん、ドストエフスキーが法然親鸞を知っているはずはありません。『カラマーゾフ』が書かれたのは1880年頃、つまり、法然親鸞時代より650年以上も後のことになります。それでもなおこの驚くべき類似に私は感銘を受けずにはいられません。

『カラマーゾフ』は間違いなく世界最高の小説のひとつです。その主人公と師匠の関係が法然親鸞と重なっている・・・!

私はこの類似にこう思うのです。「親鸞という人間は偉大なる物語の主人公たる素質があるのだ」と。親鸞の人生はそれほどドラマチックで人間普遍の問題へと突き進む偉大なものだったと言えるのではないかと私は思うのです。

また、そもそもですが、実はドストエフスキーと親鸞には共通点があるのです。それが流罪経験です。

ドストエフスキーが政治犯としてシベリア流刑となったのは有名なお話ですが、若き親鸞も法然教団弾圧に連座して越後に流罪となっています。

2人とも極寒の地への流刑です。そしてその地で目にした現実や民衆との関わりから思索を深めていったことも共通しています。彼らはその体験を糧に後の作品を書き上げました。

そして2人の思想的傾向も似ているものがあります。ドストエフスキーも親鸞も人間凝視・自己内省の鬼です。この連載を読んでいる方はドストエフスキーの人間凝視の深さをご存じだと思います。ですが、親鸞の主著『教行信証』に書かれた自己内省の言葉を見ればきっと驚くことでしょう。ドストエフスキーのごとく、人間の深淵を暴き出すその叫びには恐るべきものがあります。

私は浄土真宗の僧侶です。だからこそこのように思ってしまうのでもありますが、この後のゾシマとアリョーシャの展開もやはりそう思えるものが出てきます。その度にこの連載でもその箇所を見ていきますので、ぜひこの子弟関係に注目して頂けたらと思います。

続く

次の記事はこちら

前の記事はこちら


連載記事「『カラマーゾフ』を読む」記事一覧はこちらのマガジンにて


以下の記事ではドストエフスキー小説をもっと楽しむためのおすすめの解説書をまとめています。ぜひこちらもご参照ください。

ドストエフスキーのおすすめ書籍一覧はこちら
「おすすめドストエフスキー伝記一覧」
「おすすめドストエフスキー解説書一覧」
「ドストエフスキーとキリスト教のおすすめ解説書一覧」


ドストエフスキー年表はこちら


「ドストエフスキーの旅」はこちら


関連記事


いいなと思ったら応援しよう!