ユゴー『レ・ミゼラブル』あらすじと感想~ミュージカルでも有名なフランス文学の最高傑作!
はじめに~レミゼの面白さはどこにある?
今回紹介するのは1862年にヴィクトル・ユゴーによって発表された『レ・ミゼラブル』です。私が読んだのは新潮社版2013年第73刷版です。
では早速この本について見ていきましょう。
わずか一片のパンを盗んだために、19年間の監獄生活を送ることになった男、ジャン・ヴァルジャンの生涯。19世紀前半、革命と政変で動揺するフランス社会と民衆の生活を背景に、キリスト教的な真実の愛を描いた叙事詩的な大長編小説。本書はその第一部「ファンチーヌ」。ある司教の教えのもとに改心したジャンは、マドレーヌと名のって巨富と名声を得、市長にまで登りつめたが……。
以前の記事「ドストエフスキーも愛した『レ・ミゼラブル』 レミゼとドストエフスキーの深い関係」では『レ・ミゼラブル』とドストエフスキーの関係性をお話ししましたが、この作品は1862年、ヴィクトル・ユゴーによって発表された言わずと知れた名作です。

この小説を原作に数多くの舞台や映画化もされていて、むしろそちらの方が印象が強い作品かもしれません。
この『レ・ミゼラブル』についてフランス文学者鹿島茂氏は『「レ・ミゼラブル」百六景』の中で次のように述べています。
世の中には、誰でも題名とあらすじぐらいは知っているか実際には誰も読んだことのない《世界の名作》というものが存在している。これらの《名作》は大人たちの親切心から、たいていは抄訳の形で『少年少女世界文学全集』の類いにおさめられているか、こうした抄訳で《名作》を読んだ少年少女が成人してから完訳版でその作品を読み返すことはまずないといっていい。
思うに、こうした読まれざる《名作》は大きく二つの系列に分けることができる。一つは『ドン・キホーテ』『ガリヴァー旅行記』といったきわめて象徴性が高い作品で、いちど概要を知れば、あらためて読み返す必要がないように思えるものである。もう一つは、いわば普遍的な通俗性とでもいえる要素を備えた作品で、何度も映画化やドラマ化されているため、読みもしないのになんとなく読んだ気になってしまうものである。ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』は、幸か不幸か、このどちらの要素も含んでいる。したがってほとんど読まれることがない。もしフランス文学に関するアンケートを取ったなら、題名を知っている作品のトップには必ずこの『レ・ミゼラブル』が来るだろうが、読了した作品の項目では順位はかなり下になるはずである。
たしかに、『レ・ミゼラブル』ほど知名度のある作品はめったにないかもしれません。
しかしそれをいざ原作で読んだことがあるかということになると、いかんせん下の写真のような分量ですのでなかなか手が出ません。

そもそも映画や舞台がすでに面白いのでそちらで十分ということも大いにありえると思います。『レ・ミゼラブル』はミュージカルでも大人気です。ちなみに私も大ファンです。観るたびに号泣し、今でもよくサントラを聴いています。
さて、そんな『レ・ミゼラブル』ですが、この作品はなぜこんなにも人々に愛されることになったのでしょうか。
作品あとがきには次のように述べられています。
『レ・ミゼラブル』の魅力、読者に与える感動はどこから生れるか。それはこの小説全体をつらぬく作者のヒューマニズムにある。
これを書いたときのユゴーの意図は明白であり、それを実現するために、彼は途中で不安やためらいを全く感じていない。それだけに事件が複雑であり、人物は多種多様であっても、読者は一貴して作者の思想をとらえることができ、安んじてそれに身を委ね、感動することができるのである。
この作品におけるユゴーの意図は、その短い前書きにもあるように、貧しさや飢えに苦しむ人々に味方して、彼らを虐げ、彼らを苦しめる制度や慣習を打破しようと戦うことである。そこに『レ・ミゼラブル』(みじめな人々)という題名の意味が存する。
「みじめな人々」はいつの時代にも、どこの国にもいて、同じような制度や慣習の犠牲になって、かぎりない不幸を味わっている。だからこの小説の読者は作者の意図に深い同感を覚えながら、主人公ジャン・ヴァルジャンの行動に感動するのである。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
たしかに『レ・ミゼラブル』には、物語が面白すぎるきらいがあり、人物の善玉と悪玉がはっきりしすぎる憾みがある。しかしそうした物語と人物が、多くの読者に強い感動を与えるからこそ、この小説が広く、長く愛読されていることも事実である。
『レ・ミゼラブル』は「みじめな人々」という意味です。『レ・ミゼラブル』はユゴーのヒューマニズムの結晶であり、みじめな人々をめぐる壮大な作品です。
主人公のジャン・ヴァルジャンはそんなみじめな人々を生み出す社会そのものと戦い、自らの内にもあるみじめさとも戦います。
主人公ジャン・ヴァルジャンは貧困に苦しむ姉の小さな子供たちのためにたった一片のパンを盗んだことから19年の監獄生活を送ることになります。
「無知と悲惨から犯した些細な罪のために重罪に処せられ、世にいれられず、絶望に陥った彼が、司教に感化されて悪の道からのがれて、身を犠牲にしてあらゆる善根を施してゆく。(中略)無数の善行によって罪を贖いつづけてゆく彼は、超人的であり、純粋であり、非現実的であり、その意味で叙事詩的な英雄」となっており、この物語はそんなジャン・ヴァルジャンの波乱万丈な人生を描いています。
そして先の引用にもありましたように、この作品はなんと、「物語が面白過ぎる」という理由で批判がなされることもあるのです。
善玉悪玉がはっきりしている点や、「えっ!?まさかここでこの人が!?」と思うような筋書き。こうした点で文学専門の批評家からはあまりに通俗的で、芸術的ではないと批判されてしまうのです。
つまり、「そんな劇的でわかりやすい物語はたしかに面白いが芸術的ではない、けしからん!」という批判です。
よくよく考えてみるとすごい批判ですよね。「面白過ぎるからいかんのだ!」
わからなくもないですが、面白いものを読んで楽しみたいという一読者からするとこんなありがたい批判はないでしょう。
批判すべきところが「面白過ぎる」「わかりやすすぎる」しかないのですから。
『レ・ミゼラブル』は分量も多く、原作はほとんど読まれていない作品ではあるのですが、基本的には難しい読み物ではなく、わかりやすすぎるほど善玉悪玉がはっきりしていて、なおかつ物語そのものもすこぶる面白い作品です。
しかも単に「面白過ぎる」だけではありません。この作品にはユゴーのありったけが詰まっています。つまり、ものすごく深い作品でもあります。私もこの作品のことを学ぶにつれその奥深さには驚愕するしかありませんでした。
というわけでここからいよいよ『レ・ミゼラブル』の本編に入っていきたいと思います。
私が読んだのは新潮社版の『レ・ミゼラブル』で、文庫本で全5巻となっています。
1冊1冊がちょうどきりのよい章分けになっていますので、1冊ずつご紹介していきたいと思います。
「第一部 ファンチーヌ」~偉大なる主人公ジャン・ヴァルジャンとは!

わずか一片のパンを盗んだために、19年間の監獄生活を送ることになった男、ジャン・ヴァルジャンの物語。19世紀前半、動揺を続けるフランス社会を背景に、「この世に絶対的な悪は存在しない」という楽観的な世界観とキリスト教的な愛を交えて描く叙事詩的な大長編小説。本書はその第一部「ファンチーヌ」。出獄したジャンは、マドレーヌと名のって巨富と名声を得、市長にまでなる。
わずか一片のパンを盗んだために、19年間の監獄生活を送ることになった男、ジャン・ヴァルジャン。
ジャン・ヴァルジャンという名を聞けば、おそらくほとんどの人が「あぁ!聞いたことある!」となるのではないでしょうか。この人ほど有名な主人公は世界中見渡してもなかなかいないかもしれません。
ですが上でもお話ししましたように、実際彼が原作ではどのように描かれているのかというと、かなり謎に包まれた人物であります。
そのジャン・ヴァルジャンの過去や彼の心の支えとは何なのかということがこの第一部「ファンチーヌ」で明らかにされます。
ということで早速この本を読み始めてみると、驚きの展開が待っています。
なんと、主人公のジャン・ヴァルジャンがまったく出てこないです。
この作品で最初に描かれるのはミリエル司教という人物。
彼は高潔な高位聖職者で、一言で言うならばいい人過ぎるほどいい人なのです。
この物語は最高に善良な司教ミリエル氏がいかなる人物であるかというお話からスタートします。
彼はいつも自分の手元にあるお金のほとんどを貧しい人たちに分け与え、人知れず街のために身を捧げます。
そんな彼の善良さを語る物語がなんと、111ページまで続きます。
つまり、主人公が登場するまでに100ページ以上も一見ストーリーとは全く関係なさそうな司教のエピソードを見せられることになるのです。
ミュージカルや舞台ではこのくだりはカットされていて知ることはありません。
ですがこのミリエル司教こそ、19年間の監獄生活で身も心も荒みきっていたジャン・ヴァルジャンの生き方を決定的に変える人物であり、彼の存在がなければ後のジャン・ヴァルジャンはありえないというほどの重要人物なのです。
映画ではいきなり現れてジャン・ヴァルジャンを救いますが、原作では100ページ以上もかけてミリエル司教の人柄を私たちは見つめることになります。
それによってジャン・ヴァルジャンが救われた瞬間の重みがまさに100ページ分強まるのです。
ミリエル司教がいかに偉大な人物か、そして絶望に苦しむジャン・ヴァルジャンの心の葛藤、そして救い。
この辺りの描写が余すことなく原作では描かれています。
「一見物語とは関係なさそうな話が延々と続く」、これが『レ・ミゼラブル』の特徴であります。この後も何度もそういう場面が出てきます。もはや脱線といってもいいくらい面食らうものもあります。
勇んで『レ・ミゼラブル』を読もうとしたはいいが挫折してしまったという人が多いのはここに原因があるとも言われています。
たしかにそういう箇所は少し我慢が必要です。何ならここは軽く読み流すくらいでもいいかもしれません。そこまで根詰めて熟読する必要はありません。(もちろん、熟読しても面白いですが)
ですがこの部分があるからこそ、後の物語で必ず効いてくるものがあるのです。これが下準備となり、後の物語にもっと感動できるようになります。ここを我慢すればご褒美が待っています。
『レ・ミゼラブル』が長いのはこうした遠回りが多いからなのです。
さて、本編へと戻って来ましょう。
司教と別れ新たな人間になることを誓ったジャン・ヴァルジャンはマドレーヌという偽名で、ある町の名士となっていきます。
彼は独自の工法で大きな利益を上げる工芸品を生み出し、町全体を繁栄させたのです。
高潔な人柄から彼は町の人から慕われ、辞去し続けてはいましたがついに市長となります。
ここから物語は動き出し、不幸なファンチーヌやその娘コゼット、ずる賢いテナルディエ夫妻、宿敵ジャヴェールなど『レ・ミゼラブル』の物語すべてを通して重要な役回りを演じるキャラクターたちと出会っていきます。
この記事だけではもはや書き切れないほど盛りだくさんの内容です。
映画や舞台では時間の都合上カットされてしまったシーンがものすごい量あります。
これまでお話ししてきましたミリエル司教や、ファンチーヌの過去などなどひとつひとつ紹介していくには膨大な分量が必要です。
お話ししたいことは山ほどあるのですが、それは別記事にて紹介していますのでぜひ以下のまとめ記事を参考にして頂けますと幸いです。
それにしても、ドストエフスキーも愛した『レ・ミゼラブル』。
彼はどんな気持ちでこの作品を読んだのだろうか。
そんな好奇心から手に取ったこの小説は私の想像のはるか上をいく面白さでした。
まずジャン・ヴァルジャンとミリエル司教の出会い、そしてジャン・ヴァルジャンの救いのシーンがとにかく素晴らしいです。
ただ善い人に出会って改心するというレベルをはるかに超えて、人間そのものの救済、善と悪の葛藤、そして絶望から立ち上がる不屈の力がそこには描かれていました。
ユゴーは『レ・ミゼラブル』を通して、人間の持つ根源的な力、世界をよりよく生きていくとは何かを読者に問いかけます。
たしかに『レ・ミゼラブル』のタイトル通り、「みじめな人々」の描写は心をえぐられるかのようです。
しかし、この物語はそんな境遇下でも世の中と向き合い戦い抜く人々、そして救われていく人々を描いています。
ジャン・ヴァルジャンという力強い英雄は私たちをそんな戦いへと導き、強く生きたい、善く生きたいという勇気を与えてくれます。
また、第一部の表題となっているファンチーヌ。
彼女はもともと田舎からパリに出てきた貧しい女工でした。当時の女工の生活は肉体的にも精神的にも苦しく、そんな苦労の中出会った男と恋に落ちます。
しかし男ははなから遊びとしか考えていません。男は身勝手な理由で彼女を捨ててしまいます。
しかも悪いことに、すでにその時彼女は妊娠していたのです・・・
彼女の転落はここから始まります。
大切な娘コゼットを救うため、預け先のテナルディエ夫妻に必死にお金を送ります。
ですが、子供がいるという理由だけで不貞な女だと中傷され仕事を首になってしまいます。
そこから先はあっという間に悲惨へとまっしぐらでした。自慢だった美しい髪を売り、(実際には病気でも何でもないのに)娘が病気だから薬代を払えと催促されると、お金のない彼女は自分の歯をも売りました。そして何も売れるものがなくなると、彼女は娼婦とならざるをえなくなってしまったのです。
ですが最後まで彼女の心は高潔なまま。
絶望的な悲惨の中、愛する娘コゼットのために最後まで祈り続けます。
後にこの転落を知ったジャン・ヴァルジャンは彼女を救おうとします。
彼はそんな彼女の姿に打たれ、こう述べます。
「あなたは神さまの前ではいつでも操の正しい、汚れのない女なのです。ああ!可哀そうに!」
「あなたはずいぶん苦しんだ。可哀そうな母親として!ああ、嘆いてはいけない。今では、あなたには神に選ばれた者の資格がある。人間はこういうふうにして天使になるのです。それは人間の罪ではありません。ほかにどうしようもないのです。いいですか、あなたが出てきた地獄は、天国の第一の姿なのです。そこからはじめなければならなかったのですよ」
ファンチーヌ自身も娼婦としてしかお金を稼げなかったことや、コゼットを幸せにしてやれなかったことを悔やみ、嘆いていました。
そんな彼女をジャン・ヴァルジャンは温かく見守り慰めるのです。
こうした高潔な娼婦、愛する家族を守るためにならざるをえずしてなってしまった娼婦のイメージは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを救うソーニャという女性と重なるものがあります。
ラスコーリニコフの恋人となるソーニャも貧しい家族のために、身体を売ってお金を稼いでいました。
しかし彼女ほど高潔な心を持った人間はラスコーリニコフにとっては衝撃的なものでした。
娼婦であることは宗教的にも社会的にも罪とされていました。しかしその罪あるはずの人間がこの上もないほど高潔であり善なる人間だったのです。
こうなると「罪」とは一体何なのか。社会が言う「善」とは一体何なのか。
はたしてこの世の中の何が罪で何が罰に値するものなのかという根源的な問いが現れてきます。
『罪と罰』の構成がドストエフスキーの頭に浮かんだのは1865年のことです。つまり、ドストエフスキーが『レ・ミゼラブル』を読んだ3年後にあたります。
もしかしたら、彼の頭の中には『レ・ミゼラブル』のファンチーヌのイメージや虐げられた娘コゼットのイメージが強く残り、それが『罪と罰』のソーニャに反映されたということもあるのかもしれません。
『レ・ミゼラブル』、第1巻から非常に面白いです。もう止まりません。まさかここまで面白いとは思ってもいませんでした。
やはり名作と言われる作品は違いますね。素晴らしいの一言です!
「第二部 コゼット」~薄幸の美少女コゼットとジャン・ヴァルジャンの出会い

第二部「コゼット」。みずから自分の過去を明らかにしたために、市長から一転してふたたび監獄生活にもどったジャンは、軍艦で労役中にマストから海に飛びこんで巧みに脱出する。自由を得た彼は、死に瀕した売春婦ファンチーヌとの約束にしたがって、幼くして捨てられたその娘コゼットを悪辣な養父母のもとから救い出し、彼女を伴ってパリの暗闇の中へと潜入する……
第1巻目のラストでは市長マドレーヌとして生きていたジャン・ヴァルジャンが自ら裁判所に赴き、自分こそジャン・ヴァルジャンであると名乗り出ます。
これは、濡れ衣で捕らえられていたまったく無関係の男を救うためにしたことでした。
哀れなその男は「かつての徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであり、リンゴを盗んだ」という罪で告発されていました。その男はジャン・ヴァルジャンにそっくりで、証言者も揃っているためもはや有罪は避けられません。
ですがもちろん、その男はジャン・ヴァルジャンではありません。それはジャン・ヴァルジャン自身が一番知っています。
しかしもし彼がそのまま黙っていれば、これから先彼が犯罪者として追われることは永遠にありません。
ですがその代わりこの哀れな男はジャン・ヴァルジャンとして濡れ衣を着せられ監獄送りになってしまう。
ジャン・ヴァルジャンは苦悩の末、自ら名乗り出ることを選び、再び監獄へと戻ることとなってしまったのです。
さて、第二部ではそのジャン・ヴァルジャンがどうなったのか。
あらすじでは海に飛び込んで脱出するとなっていますが、そこは『レ・ミゼラブル』。簡単にはことは進みません。
第2巻目の最初も、一見物語とは関係のない「ワーテルローの戦い」からスタートするのです。
ワーテルローの戦いは1815年、ナポレオンの敗北が決定的となった戦いで、フランスの歴史の節目になる重要の戦いでした。
ユゴーはこの戦いをこのタイミングで90ページ近くにわたって語り続けます。
第1巻目のミリエル司教と同じくまたもや物語の本筋に入る前に長い前置きが始まってしまうのです。
ですがこれも前巻と同じで後々これが物語上絶妙に効いてくるのです。
さて、ここからようやくジャン・ヴァルジャンの物語へと帰ってきます。
ジャン・ヴァルジャンは徒刑先で船から海に飛び込み脱獄に成功します。
そして姿を消したジャン・ヴァルジャンは、不幸な女性ファンチーヌとの約束、娘のコゼットを救うために奔走します。
コゼットはずる賢いテナルディエ夫妻のもとに預けられていて、露骨すぎるほどこき使われいじめられていました。
そんなみじめな境遇でも健気に生き抜くコゼットのなんといじらしいこと。
そしてクリスマスの晩、彼女はテナルディエのかみさんから森の井戸まで水を汲んでくるよう言いつけられます。
ここからのシーンは『レ・ミゼラブル』中でも屈指の名シーンとされています。
鹿島茂氏の『「レ・ミゼラブル」百六景』にこのシーンがまとめられていますので引用します。
最後の露店の灯りも視界から消え、夜の森のざわめきがコゼットをすっぽりと包んでいた。木々のあいだに幽霊がはっきり見えるような気がする。コゼットは泣き出したくなるのをこらえて、走り続け、やっと泉にたどり着いた。身をかがめて水を汲もうとしたとき、ポケットのなかの十五スーが泉に落ちたがコゼットはそれに気づかなかった。水を汲み上げるときにあまり頑張ったので、一歩も動けなくなってしまった。やがて暗闇の恐怖が蘇ってきた。コゼットは桶の柄を両手でつかんで十歩ほど歩いた。桶は重かった。冷たい水がこぼれて裸足の足を濡らした。村に帰り着くには一時間以上かかりそうだった。コゼットは「ああ神様」と叫んだ。
そのとき、急に桶が軽くなったような気がした。大きな黒い影が桶を持ってくれたのだ。コゼットはなぜか少しも怖くなかった。
暗い森の中、独りぼっちで重たい水桶を運びながら、彼女はもう気力が尽きかけ、「ああ神様」と叫びます。
その瞬間、重たい水桶がふっと軽くなる。
誰かはわからないが、どこからともなく彼女を救う人間が現れたのです。
ここで素晴らしいのはこの瞬間、コゼットが「なぜか少しも怖くなかった」という心理描写です。ユゴーの原文では「人生のどんな出会いにもふさわしい本能がある。小娘はこわがらなかった」という表現がされていますが、この一言があるからこそ、奇跡や運命を感じさせるのです。
そして何を隠そう、この大きな黒い影こそあのジャン・ヴァルジャンだったのです。
ジャン・ヴァルジャンはこの町にコゼットを助けにやって来ていました。その途中にたまたまこの森にいて、たまたま独りぼっちの少女を見つけ手を貸したのです。
この時はまだ彼はこの少女がコゼットであるかを知りません。
彼がそれを知るのは、出会った後二人で歩いて彼女になぜここにいるのかを聞いたときだったのです。
「いやいや、こんな偶然ありえないでしょ~」
いえいえ、『レ・ミゼラブル』ではあり得るんです。
しかもこれから先、もっとすごい偶然がこれでもかと続きます。
「え!?ここでまたあの人と出会うの!?」ということの連続です。
あまりに奇跡的な出会いが続くので、この点も文学批評家から批判を招いたそうですが、ユゴーはもともと演劇の作家です。より劇的なシーンを求めてストーリーを作っていきます。
実際、この奇跡的な出会いの連続がストーリーに驚きと感動を与えてくれます。だからこそミュージカルや舞台でもここまで支持され続けているのです。
さて、コゼットの救出に成功したジャン・ヴァルジャンはパリの町へと潜入します。
そしてそこでもまた運命的な出会いをしてしまいます。
宿敵ジャヴェールに見つかってしまうのです。
その逃走劇は息を飲むほどの緊張感です。まるでハリウッド映画を見ているかのような迫力です。
そして間一髪で逃げ込んだ場所でもまた奇跡のような出会いに救われます。
『レ・ミゼラブル』第2巻は目まぐるしい展開と、奇跡的な運命の出会いの連続で息もつかせぬストーリーとなっています。
さて、貧しい境遇から母親から引き離され、テナルディエという悪党夫妻の下に預けられていたコゼット。
コゼットは彼らの下で散々こき使われ、いじめられ、母親のファンチーヌから金をゆするための道具にされていました。
上でもお話ししましたように、この子はそんな境遇でも健気に生き抜いていました。
虐げられながらも無邪気で美しい心を失わないコゼット。
みじめな境遇の中で生きる彼女になんとか幸せになってもらいたい。読んでいると自然に彼女を応援したくなります。
そしてそこに奇跡のように現れたのが我らがヒーロー、ジャン・ヴァルジャン。
この救いのシーンは最高に気持ちがいいです。
虐げられ、不幸という過酷な運命に打ちひしがれていた健気でいじらしい少女がついに救われる時が来たのです。
こういう運命の出会いと救済が『レ・ミゼラブル』では何度も出てきます。
このコゼットとジャン・ヴァルジャンの出会いはこの作品中でも屈指の名シーンであることは間違いないでしょう。本当に感動的です。
ドストエフスキーもきっとこのシーンを感動しながら読んでいたことでしょう。
ドストエフスキーも貧しく、虐げられた子どもたちに深い哀れみや悲しみを抱いていた作家でした。
彼の個人雑誌『作家の日記』には子どもたちに関する文章が数多く掲載されています。
また、晩年の大作『カラマーゾフの兄弟』でも子どもたちが非常に大きな役割を果たしています。
虐げられた子どもたち、弱い立場にある人間。母親のファンチーヌも社会の犠牲者たる存在でした。
彼らがいったい何をしたというのでしょうか。なぜそんなみじめな生活に陥らなければならなかったのでしょうか。彼らには救いは訪れるのでしょうか。
ドストエフスキーも虐げられた人びとに対して強烈な問題意識を抱えていたと思われます。
ドストエフスキーのデビュー作も『貧しき人びと』というタイトルであり、その後『虐げられた人びと』という作品も書いています。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフも極度の貧困に陥っています。彼も社会的上昇が見込めないところまでどん底に落ちてしまっていたのです。
『レ・ミゼラブル』は「みじめな人びと」という意味です。
ユゴーはみじめな人びとを描きながら、そこに人間の尊厳や救いを求める戦いを描きだしました。
ドストエフスキーがこの作品に感動したのも、そうしたユゴーの力強いメッセージに共鳴したからではないかと私は想像しています。
第2巻は物語の展開がドラマチックで、なおかつ息もつかせぬ緊張感があります。
ここまで読み進めることができたらもう止まることはできません。
きっとここからは挫折することなく一気に読んでいくことができるでしょう。
いよいよ盛り上がって参りました。『レ・ミゼラブル』、非常に面白いです。
「第三部 マリユス」~物語のキーパーソン、マリユスの登場

第三部「マリユス」。頑固な祖父にさからって、ひとり下宿生活をはじめたマリユスは、窮乏の生活の中で、しだいに共和主義に傾倒してゆく。そのころ、彼が毎日散策に出かける公園で必ず出会う親娘があった。誇り高く純真な青年マリユスは、その未知の少女の清らかなまなざしにとらえられ、可憐な姿に憧れをいだく。娘は、ジャン・ヴァルジャンに養われているコゼットであった。
第三部「マリユス」はジャン・ヴァルジャンとコゼットに次ぐ重要人物、マリユスという青年の物語が語られます。
例のごとくこの巻のはじめもパリの浮浪児の話からスタートし、一見物語とは関係のない話が続いていきます。
ですがここまで読み進んできた方ならもうこの展開には驚くことはないでしょう。しっかりこのお話が後々に効いてくることになるのです。
さて、マリユスはナポレオン軍の将校の息子です。
しかしナポレオン嫌いの祖父の影響で、父とは会うこともなく、むしろ自分を捨てたという憎しみの対象ですらありました。
ですがふとしたことから父は彼を愛するがゆえに身を引き、彼のことを遠くから見守っていたことを知ります。
そして彼が立派な軍人であったこと、ワーテルローでの戦いでも勇敢に戦ったことを知るのです。
ここで第二巻のはじめで長々と語られていたワーテルローの戦いが効いてくるのです。ユゴーは何の意味もなくあの話を長々としていたわけではありませんでした。
ここでワーテルローの話がマリユスにつながり、さらにはもっと後にテナルディエともつながってくるのです。ユゴーの伏線回収、恐るべしです。
さて、ミュージカル版の映画ではマリユスがどんな人物であるか、そしてコゼットとどのように出会い、恋に落ちるかというのは時間の都合上かなりショートカットされています。
映画では偶然出くわし、お互いに一目ぼれし、そのあとすぐに再会し恋が始まりますが、原作では驚くほどプラトニックで、しかもまったくその恋は進展しません。
あらすじにもありましたが、マリユスの散歩コースにいつもいる親娘。その娘に心惹かれたマリユスはその毎日の散歩を楽しみにし、遠くから彼女を眺めているので精一杯です。
そして結局この第3巻では彼女の名前すら知ることは叶わず、マリユスが彼女の名前を知り、恋が成就するには4巻目の190ページまで待たなければなりません。
映画だと10分ほどで成就する恋と、本丸々1冊以上、読むのに何日もかかるほどの言葉を尽くして描かれた恋。
映画版の素晴らしさももちろんわかるのですが、やはり私は原作版に軍配を上げたい気持ちが高まってしまいます。
ひとりの人物について掘り下げて掘り下げて掘り下げ続けていく。
これが長編小説のメリットであり、その人物の心の動きやその背景をつぶさに知ることができます。
これをすることで、たしかに物語自体は展開が遅くなり、ストーリーが進まないという欠点もあるかもしれませんがやはり読めばわかるその効果というものが必ずあるのです。
長々とある人物について掘り下げ続けていくと、読者はそれぞれの登場人物がどんな人間で、どんな背景のもとそれぞれの境遇で生きているのかを強く意識することになります。
つまり、物語の世界により深く没入していくことになるのです。
だからこそそれぞれのキャラクターがもっと生身の人間のように生き生きしてくる。フィクションの世界なのにまるで現実の世界のように感じられてくる。
これが圧倒的に巧みだったのがまさしくユゴーであり、その最高傑作が『レ・ミゼラブル』なのではないでしょうか。
また、第3巻の最後にはテナルディエ一家とジャン・ヴァルジャン、そしてジャヴェールとの手に汗握る対決のシーンがあります。ここも見逃せません。
壁の穴からその顛末をのぞくマリユスの目を通して私たち読者もそのシーンを目撃することになります。
このシーンも本当に素晴らしいです。驚くべき臨場感!
こんなシーンを言葉のみで表現するユゴーの力にはただただ脱帽するしかありません。
「第四部 プリュメ通りの牧歌とサン・ドニ通りの叙事詩」~大迫力のバリケード戦!物語は一気に佳境へ

第四部「プリュメ通りの牧歌とサン・ドニ通りの叙事詩」。パリはわきたっていた。陰謀がうずまき、共和主義者は〝ABC(下層の者)〟という秘密結社を作っていた。この混乱の中にあってマリユスは可憐なコゼットとの愛を育てていく。王党派からボナパルチスト、共和派へと立場を変え時の政府に反逆するマリユスは、亡命生活の中で執筆を続ける老大家ユゴーの若き日の姿の投影である。
上のあらすじにもありますように、パリには不穏な空気が漂っています。
時は1832年6月。
フランスは1830年の七月革命を経て、その革命後の政府をめぐる大きな争いを迎えていました。
七月革命の結果生まれた政府はブルジョワが大きな力を占めていました。
この頃には産業革命の影響で工場も増え、多くの労働者がパリに暮らしていました。
しかし労働者の待遇は劣悪で、搾取者ブルジョワと被搾取者たる労働者の対立は強まっていくばかりでした。
こうした状態を打破しようと考え、政府を国王と一部の有力者が牛耳るのではなく、国民が政治に参加できるようにと考えたのが共和派であり、その過激集団があらすじに出てくる〝ABC(下層の者)〟という秘密結社です。
そして純真なマリユスは人々のために立ち上がろうという彼らの意志に影響され、彼もその秘密結社に参加し、バリケード戦に身を投じることとなっていくのです。
さて、上でもお話ししましたがこの第4巻ではマリユスとコゼットの恋が始まり、2人の絆が語られます。
しかし幸せだったのも束の間のことでした。
最近家の近くで何者かがうろついている。
捕まることを恐れるジャン・ヴァルジャンはついにこの秘密の家が警察に嗅ぎ付けられたと感じすぐにパリを脱出することに決めます。
目的地はロンドン。もう一刻の猶予もありません。
コゼットからすれば青天の霹靂です。それではもうマリユスに会えなくなってしまう。
コゼットはマリユスに手紙を書きます。
しかし偶然にもジャン・ヴァルジャンはその手紙の内容を知り、コゼットの恋の相手がマリユスであることを知ります。彼は愛する娘を失う恐怖に苦しみます。
その一方、マリユスは暴動のバリケード戦に参加していて、彼自身も「ここが死に場所になる」とコゼットに手紙を送っていました。
こちらの手紙も偶然ジャン・ヴァルジャンの手元に送られることになります。
ジャン・ヴァルジャンはそのバリケードが間もなく一斉攻撃され、反徒は皆殺しになるだろうことを知っていました。
彼は一瞬、コゼットの恋人が殺されてしまうだろうことを喜びました。
ですが、彼は歩き出します。どこへ?
なんと、彼はそのバリケードへ向かって行ったのでした・・・。
というのが第4巻の大まかな流れなのですが、この巻は事件が盛りだくさんすぎてあらすじをまとめるのは本当に難しいです。
しかもユゴーは例のごとく、1830年の七月革命やその後の政府のことを長々と語り始めます。
ユゴーがわかりやすくまとめてくれているのはありがたいのですが、いかんせん長いです。ここに載せるには厳しいです。
ただ、実際に読んでみればわかりますが、ユゴーの解説のおかげでマリユスが参加した秘密結社がどのような組織で、パリが今どういう状態なのかがとてもわかりやすくなっています。
そしてこの巻では『レ・ミゼラブル』のクライマックスに向けて一気に展開が動いていきます。
1832年の6月暴動はこの物語の最大の見せ場です。
離れ離れになったコゼットとマリユス。
若き理想主義者たちが「正義、自由、平等」のために立ち上がり、命を賭して戦うバリケード戦。
最愛の娘が奪われてしまうかもしれないという絶望に苦しむジャン・ヴァルジャン。
主要人物たちそれぞれがこの巻の中で様々なドラマを演じることになります。
そしてそのいくつものドラマがバリケードで重なり、一堂に会していく。
これはもう見事としか言いようがありません。さすがユゴー。面白過ぎます!
そして健気なエポニーヌの存在。この巻では彼女の存在感が抜きんでています。
エポニーヌはあの悪徳夫妻テナルディエの娘でありながらものすごくいい子です。
ミュージカル映画でも彼女の天使っぷりは存分に描かれていますが原作でもやはり彼女は天使です。
もちろん、彼女も完全無欠ではありませんが、愛する男を救うために身を挺して守ろうとする姿には心打たれるものがありました。
また、ジャン・ヴァルジャンの宿敵ジャヴェール。
この男ももちろん登場します。
しかし今度は捕らえられる側の人間として。
彼は警察側のスパイとしてバリケード内に潜入していました。しかし正体がばれて逆に拘束されてしまうのでありました。
あの抜け目ないジャヴェールがこうもあっさりと捕まってしまうのは拍子抜けでしたが、これがまた後々最高に劇的なシーンの伏線になっていくのです。
もう伏線だらけですね『レ・ミゼラブル』は。にくい演出です。さすがユゴーです。劇的すぎます。
第4巻からクライマックスに向けて一気に物語は動いていきます。
第4巻、第5巻と続くバリケード戦の迫力は圧倒的です。まるでハリウッド映画のようです。映像ではなく言葉でこれを表現できるというのは驚くべきことだと思います。
同じフランスの代表的作家エミール・ゾラの映画的描写も素晴らしかったですが、ユゴーはまた違った印象を受ける映画的手法です。ゾラの映画的手法については「『居酒屋』の衝撃!フランス人作家エミール・ゾラが面白すぎた件について」という記事でもお話ししましたが、ゾラを静的とするならば、ユゴーはアクション映画的なダイナミックなタッチと言うことができるでしょう。
カメラがぐーっと上空へ動いていき、舞台をあらゆる角度から動きをつけて捉えていく。ズームも引きも自由自在。そんなダイナミックな構図を感じることができます。
読んでいて本当に物語の世界観に没入させられます。こういう読書体験は一度体験すると病みつきにさせられてしまうほどです。
さて、いよいよ次で最終巻。ジャン・ヴァルジャンの物語もフィナーレを迎えます。
物語は最高潮の盛り上がりを見せて最終巻に突入します。
「第五部 ジャン・ヴァルジャン」~感動のクライマックス!ドストエフスキーがレミゼを好きでいてくれてよかった!!

第五部「ジャン・ヴァルジャン」。1832年6月5目、パリの共和主義者はいっせいに蜂起し、市街戦を展開する。その中には傷ついたマリユスや彼を助けるジャンの姿もみられた。やがてコゼットとマリユスは結婚し、ジャンはマリユスに自分の素姓を語り、離れて暮すことになるが、コゼットがいなくなるとジャンは心身ともに衰え、二人がかけつけた時にはすでに死の床にあった……
いよいよ、『レ・ミゼラブル』もクライマックスです。
第4巻から引き続き、舞台はバリケード戦。
戦いは最終局面を迎え、悲劇的な結末を迎えます。
さて、最後の戦いが行われる前、ジャン・ヴァルジャンはコゼットの恋人、マリユスを救うためバリケードの中へと潜入します。
愛するコゼットを失うかもしれないという苦しみから、マリユスがバリケード戦で死んでしまうことを望んでいたジャン・ヴァルジャンでしたが、やはり彼は善良なる男でした。彼はマリユスを死なせないためにバリケードへ赴くのです。
バリケードへ潜入したジャン・ヴァルジャン。
共和主義者たちに迎え入れられ、敵の攻撃から彼らを守ったジャン・ヴァルジャンはすぐに信頼を得ることになります。
そしてここで思わぬ男と再会することになるのです。
それが宿敵、ジャヴェールでした。
ジェヴェールはスパイとしてこのバリケード内に潜り込んでいましたが、素性がばれ拘束されていました。
ジャン・ヴァルジャンは彼の処刑を任せてもらうことを願い出ます。
信頼を得ていたジャン・ヴァルジャンはそれが認められ、ジャヴェールと共にその場を離れていきます。
ジャヴェールは殺されることを覚悟します。自分が死ねばジャン・ヴァルジャンは永遠に自由になり、もはや追って来る者もいなくなるからです。
しかしジャン・ヴァルジャンは彼を殺すどころかナイフで縄を断ち切り、彼を自由の身にします。そしてあろうことか、自分の住所さえ教え、「もし私がここから出られたら、そこにいる」と伝えてしまいます。
ジャヴェールは「自分は彼に復讐されるもの、殺されるものだ」と思っていました。
しかしヴァルジャンは復讐どころか、自分を逃がし、さらには自分を捕まえてくれとさえ言うではありませんか。
ジャヴェールはパニックに陥ります。
これまでジャヴェールはいつもジャン・ヴァルジャンのことを「お前」と呼んでいました。
しかし去り際に彼は無意識に「君には悩まされる」と漏らし、もはや「お前」呼ばわりはできなくなっていたのでした。
これはジャヴェールにとってはありえない心境の変化でした。このことについてはまた後にお話しします。
さて、バリケードの戦いはいよいよ終結に向かいます。
警察側の激しい攻撃によってバリケードは突破され、共和主義者たちは勇敢に抵抗するもついに最後の時を迎えます。
マリユスも負傷し意識を失います。
ジャン・ヴァルジャンはそんな彼を背負い、なんとか脱出を図ります。ここにいたら皆殺しにされてしまうからです。
彼はぎりぎりのところで下水道への道を発見し、そこに逃げ込みます。
パリの下水道はあまりに巨大かつ複雑に入り組んでいて、ユゴーはそれを「巨獣のはらわた」と表現しています。
ジャン・ヴァルジャンはマリユスを背負い、「巨獣のはらわた」をさまよい、脱出を目指します。この真っ暗闇の下水道の冒険も手に汗握る張り詰めたシーンです。ジャン・ヴァルジャンの不屈の精神と、英雄のごとき肉体の力強さが感じられます。
ここでもまた劇的な出会いがあり、テナルディエとのまさかの邂逅や、なんとか脱出したかと思いきやまたもやジャヴェールと対面するという目まぐるしい展開。
ここでジャン・ヴァルジャンとジャヴェールとの最後の戦いが繰り広げられます。
とは言っても、言葉を交わすだけですがジャヴェールにとって自分の存在意義が揺らぐほど、いや全てが崩壊するほどの衝撃を彼に与えることになります。
ジャン・ヴァルジャンとマリユスは無事に帰還し、コゼットとマリユスは後に結婚することになります。
これでめでたしめでたしと思いきや、ジャン・ヴァルジャンは自分が徒刑囚であったこと、脱獄をしたことをマリユスに伝え、身を引き、コゼットを失った苦しみにもがき苦しむことになります。
ジャン・ヴァルジャンは自分の過去が2人の重荷になることを恐れたのです。
マリユスはジャン・ヴァルジャンのことをほとんど知りません。彼がバリケードから自分を救ってくれたことすら知りません。
マリユスはジャン・ヴァルジャンをただの怪しい老人としか考えていなかったのです。
この誤解がどう解けるのか。そしてジャン・ヴァルジャンは最後にどうなってしまうのか。物語はそうしてフィナーレを迎えていくのです。
さて、ここまで最終巻の流れをざっくりと紹介しましたが、この巻の見どころはまず何と言ってもバリケードの最後の攻防です。
若者たちが彼らの信じる正義のために命を賭して戦う姿は心を打つものがあります。
そしてそこから負傷したマリユスを背負ってパリの下水道を踏破するジャン・ヴァルジャン。
何が起こるかわからない暗闇の地下迷宮を追手が迫りながらも逃げ続けるシーンは尋常ではない臨場感、緊張感でした。
また、私の中での最高のシーンはジャヴェールがジャン・ヴァルジャンをもはや「お前」呼ばわりできなくなってしまったシーンです。
ジャヴェールの中で何か決定的な変化が起こった。
それはジャン・ヴァルジャンが第一巻でミリエル司教と出会って人生ががらっと変わった場面を彷彿させます。
ジャヴェールはこれまでの人生を支えてきた原理が崩壊するのを感じます。
自分が信じていた法の絶対性が揺らぎ、罪人であるジャン・ヴァルジャンの偉大なる善の力に恐れおののくジャヴェール。
彼はその葛藤に絶望し自ら命を絶ちます。
ジャヴェールの内心の戦いがユゴーによって丹念に描かれます。これは5巻にわたってジャン・ヴァルジャンとジャヴェールの戦いを見届け続けた私たちにとっても非常に重大な問題です。
善良なるジャン・ヴァルジャンを捕えようとする、血も涙もない悪玉として描かれていたジャヴェールという男ははたして何者だったのか。
ジャヴェールを通してユゴーは何を言いたかったのか。
私はジャヴェールこそ『レ・ミゼラブル』のもう一人の主人公だと思っています。善と悪に引き裂かれ、そして自らの信念に殉じていたがゆえに破滅するその心。これはドストエフスキーにも通ずる問題のように思います。
ジャヴェールについては「ジャヴェールこそ『レ・ミゼラブル』のもう一人の主人公である!愛すべき悪役ジャヴェールを考える」の記事で改めてお話ししていきますのでぜひこちらの記事もご覧ください。
『レ・ミゼラブル』の中で私が最も印象に残った人物こそこのジャヴェールです。登場するシーン自体はそこまで多くはありませんが、第5巻はもう彼の輝きが別格でした。第5巻はヴァルジャンとジャヴェール、この二人の対比が最大の魅力となることでしょう。
さあ、『レ・ミゼラブル』をすべて読み終えました。
最高に美味しいものを心ゆくまで味わった幸福な満腹感とでも言いましょうか、とにかく心地よい満足感です。
これまでずっと戦い続けてきたジャン・ヴァルジャンに「お疲れ様」とねぎらいたくなる気持ちでいっぱいになります。
この物語には救いがあります。読んでいて元気が出ます。
たしかにこの作品は『レ・ミゼラブル』のタイトル通り、「悲惨な人々」がたくさん描かれます。ファンチーヌはその最たる例です。
しかし、そんなみじめな人びとを生み出すこの世においてジャン・ヴァルジャンのような人間が戦い続けている。ミリエル司教のような高潔で善良な人間がいる。そしてかれらの善なる力が次の世代に引き継がれていく。
こうした人間の持つ崇高な善なる力、理想がこの作品では描かれています。
この作品をドストエフスキーが好きでいてくれてよかった!
ドストエフスキーは人間のどす黒さを描く暗い作家というイメージが世の中では根強いです。
ですがそんな彼が愛してやまない作品がこの光あふれる『レ・ミゼラブル』なのです。
この事実はドストエフスキー作品と対面する時にも必ず何かしら影響を与えてくれるものだと私は思っています。
ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』あらすじと感想~ユゴーの原作との比較

原作の『レ・ミゼラブル』を読み終わった私は早速その勢いのままにミュージカル映画版の『レ・ミゼラブル』を観てみることにしました。
あらすじ
1815年、ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、19年も刑務所にいたが仮釈放されることに。老司教の銀食器を盗むが、司教の慈悲に触れ改心する。1823年、工場主として成功を収め市長になった彼は、以前自分の工場で働いていて、娘を養うため極貧生活を送るファンテーヌ(アン・ハサウェイ)と知り合い、幼い娘の面倒を見ると約束。そんなある日、バルジャン逮捕の知らせを耳にした彼は、法廷で自分の正体を明かし再び追われることになってしまい……。
この映画はユゴーの『レ・ミゼラブル』を原作にロングラン上演されてきたミュージカルを映画化したものです。
ミュージカルということでもうとにかく!歌と音楽が素晴らしすぎます!
その中でもこの作品の代表曲たる邦題「夢やぶれて」。こちらはスーザン・ボイルが歌ったことでも有名な曲です。
物語を観ながらこの曲を聴いたらもう涙が出てくるほど心が震えさせられます。
またもう一つの代表曲、「民衆の歌」
「虐げられた者たちが正義のために立ち上がり、いざ戦うのだ」という若者たちの熱い思いが壮大な音楽とともに熱唱されます。
やはり音楽の力はすごい!有無を言わせず人間を奮い立たせる何かがあります。
これはきっと、もはや人間の本能なのでしょう。
直球ど真ん中。心にズドン!と来ます。
一度聴いたら頭から離れない。映画を観終わった後も何度も何度も勝手に脳内でリピートされています。それほど素晴らしい楽曲たち!
この映画の最大の魅力はやはりこの音楽でしょう。名曲ぞろいです。
さすが『レ・ミゼラブル』。
ミュージカルとして長きにわたってたくさんの人から愛されている理由がよ~くわかりました。
もともとミュージカルの『レ・ミゼラブル』は私の妹がファンで、よく「レミゼレミゼ!」と嬉しそうに言っていたので、映画を観た今となっては妹の気持ちもよくわかりました。
これを劇場で生で見たらそれはハマるよなと思います。私自身、実際に行ってみて大ハマりでした。帝国劇場でのキャストさんによる素晴らしい映像もありましたのでぜひここに紹介します。
また、この映画の撮影の裏側を語る動画がありましたのでそちらもここでご紹介します。この映画がいかに斬新な手法を用い、音楽にとことんまでこだわっているかがわかります。ぜひご覧ください。
ミュージカル映画と原作の違い
まず1番の違いは尺の違い。これは映画というおよそ2時間半という映画の時間制限がある以上仕方がない問題です。
文庫で5冊になる作品を2時間半に収めるにはやはり多くの場面を削らざるをえません。
また、ひとつひとつの場面を丁寧に掘り下げることも難しくなります。
ですがそれをいかにうまく構成し、劇的にまとめることができるかがミュージカルの見せ場になります。
この映画ではそれが絶妙にうまくまとめられているように私には思えました。
もちろん、原作と比べると「そこをもっと掘り下げてほしかったな~」という場面もあるのですが、そこは歌と音楽の力がカバーしています。
歌があるおかげで登場人物の感情や葛藤、状況がこちらに伝わってきます。
削れるぎりぎりのラインで『レ・ミゼラブル』の原作を生かしているなと、観ていて感嘆しました。よくあんな大作をここまできれいにまとめられるなと驚くばかりです。
いずれにせよ、壮大な音楽と映像効果でもはや強制的に感動させられます。「圧倒」の一言に尽きます。
一緒に観た家族は原作を読んでいませんでしたので、「これで十分すぎるよ!まだ他にあるの!?」と逆に驚いていました。
これは原作とはまた別の、ひとつの作品として完成されています。
本当に素晴らしい映画だと思います。
映画やミュージカルに感動した人へ―やはり原作も読んでほしい!もっとレミゼが好きになります!
原作はたしかに長い!
これは否定できません。
ですが少し考えてみてください。
長いということは、もっともっと深く掘り下げられているということなのです。
例えばその一例を挙げるとジャン・ヴァルジャンはなぜ良い人間になったのかという問題です。司教に救われたとはいえそれだけでそんなにも変われるものなのでしょうか。
これについては上でもお話ししたのですが、原作の第一巻にその秘密があります。
原作を読むと登場人物達についてもっともっと知ることができます。これはファンとしてはたまりません。
なぜミリエル司教と出会った後、ヴァルジャンは数年で市長にまでなれたのか。
なぜ最後にジャン・ヴァルジャンは突然去り、死のうとしていたのか。
さらに言えば、映画化されていないシーンの中にこそ『レ・ミゼラブル』の根幹に関わる出来事が語られていたりするのです。
ですがそれまで映画化してしまうと、尺が一気に伸びてしまうのでばっさりカットするしかなくなってしまいます。
そして映画では目まぐるしく展開が変わっていきます。
映画のレビューでもよく見られたのですが、マリユスとコゼットの恋が唐突すぎるとか、バリケード戦の後のマリユスの心情、ジャヴェールがなぜ死んだのかがわからない等々、観ている人が困惑するシーンも多々あります。
ですがこれが原作になると、驚くほど丁寧に描かれています。上で紹介したミリエル司教のエピソードからもわかるように原作ではかなり深堀りされています。マリユスとコゼットの恋に関してもびっくりするほどプラトニックで、恋が始まるまでかなりの時間がかかっています。
また、ジャヴェールに関しては第1巻からずっとジャン・ヴァルジャンと戦い続けた男です。文庫本5冊にわたって読者は彼のことを見続けることになります。
そして彼の死に至る葛藤はまさしくこの作品の白眉です。映画では残念ながらその苦しみが完璧には表現しきれず、なぜ彼が死を選んだかがあいまいです。ですがこれは仕方ありません。いかんせん尺が限られ過ぎています。
映画のいいところは、長大な作品を短い時間に圧縮し、名シーンをギュギュっと詰め込むことができる点にあります。
たしかにミュージカル映画『レ・ミゼラブル』はそれに成功した作品と言えます。
ですが、この映画に感動し、もっともっと好きになりたいという方にはぜひ原作も読んでほしいです。
普通、圧縮した方が凝縮されて濃いものになるのが普通ですが『レ・ミゼラブル』は一味違います。
映画のそれぞれのシーンがとことんまで掘り下げられています。私は原作を読んでからこの映画を初めて観ました。
すると、映画を観ていても勝手に原作の内容を補正してしまうのです。
なぜジャン・ヴァルジャンが市長になったのか、そして自分で裁判所に名乗り出るときの葛藤や、ファンチーヌの苦しみの原因やコゼットの境遇、マリユスの幼少期から青年になっていく過程、バリケード戦の背景、仲間たちの思い、ジャヴェールの苦しみ、マリユスとコゼットの愛、そしてジャン・ヴァルジャンの死・・・
ひとつひとつ挙げていけばきりがありません。
勝手に補正することが映画鑑賞をする上で正しいことかはわかりませんが、私がより作中人物に感情移入してしまう脳内状況になってしまっていたのは間違いありません。
結果、私は何度この映画を観ながら涙を流しそうになったことでしょう。
ラストのシーンはこらえきれず涙が流れていました。
私は家族が一緒に観ている手前、泣くのは何とも恥ずかしく、とてつもない努力を払って涙をこらえていました。
でも、だめでした。
これがもしひとりで観ていたとなると、たぶんとんでもない泣きっぷりをしていたことでしょう。
かつて私は『オペラ座の怪人』で前科があります。一人暮らしをしていたあの時は、部屋で息もできないくらい泣いていました。カオスです。これは人様に見られるわけにはいきません。
今回は何とかこらえましたが『レ・ミゼラブル』もそれ級の破壊力でした。エンディングは向こうも全力で泣かせにかかってきます。
本当にいいエンディングでした・・・
エンディングロールが流れていっても私は全く動けませんでした。物語の余韻に浸りきっていたのです。
『レ・ミゼラブル』に出会えて本当によかった。
ミュージカル映画『レ・ミゼラブル』は素晴らしい作品です。
ですが原作はもっともっと特濃です。本当に読む価値があります。
「原作VS映像化作品」は永遠のテーマかもしれません。
これはどっちが良いとかどっちが劣っているとかそういう話ではありません。
私はミュージカル映画としての『レ・ミゼラブル』はそれとしてひとつの完成した素晴らしい作品であると思いますし、同時にその原作も最高の作品だということを感じたのです。
どちらも大好きです。
歌や音楽、映像の力は素晴らしい!
原作の濃厚な言葉の世界も素晴らしい!
それぞれに素晴らしい点があるのです。
いやぁ本当にいい時間を過ごすことができました。ぜひお休みの日など、時間のある時にぜひ手に取って頂きたい作品です。
・・・とはいえ、「文庫で5冊は長すぎる!読めない!」という方も多いと思います。
そんな方に朗報です。
フランス文学者鹿島茂先生の『レミゼラブル百六景』という最高の一冊があるんです!
鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』~時代背景も知れるおすすめの最強レミゼ解説本!

『レ・ミゼラブル』の原作は文庫本で2500ページを超える大作です。ミュージカルや映画で大人気のレミゼですがいざ原作を読むとなると正直なかなか厳しいものがあります。
そこでこの本の出番です。
この本はレミゼの物語の重要なシーンを書名にありますように106のシーンに分けて挿絵と共に解説していきます。
ひとつのシーンに対して2枚の挿絵が付きますのでかなりたくさんの絵を見ることができます。
小説だけですと文字だけですべての状況を想像しなければならないのに対し、挿絵があるとやはりイメージしやすいですよね。
しかもまた鹿島氏の解説が抜群にわかりやすく面白いのです。
レミゼのストーリーの流れだけでなく当時の時代背景やもっとレミゼを楽しむための豆知識が満載です。これはミュージカルのレミゼの最高の参考書にもなります。
もちろん、原作をこれから読みたいという人、そしてすでに読んだ人にとっても非常に有益な情報がたくさん解説されています。
とにかくわかりやすい本です。そして何より面白い!挿絵も大量ですので本が苦手な方でもすいすい読めると思います。これはガイドブックとして無二の存在です。ぜひ手に取って頂きたいなと思います。
また、当時のフランスの時代背景を知る資料としても一級の本だと思います。レミゼファンでなくとも、19世紀フランス社会の文化や歴史を知る上で貴重な参考書になります。
ユゴーの原作を読むのが大変という方にはぜひこちらの本をおすすめします。
追記
レミゼのミュージカルに関するおすすめ本が2冊あります。それがこちらです。
この2冊の本を読み、ミュージカルのレミゼがいかにして作られたかを私は知ることとなりました。
長大な作品を3時間という短い時間にまとめるという奇跡のような偉業の裏側がこれらの本で語られます。
「ミュージカルでは尺が限られていて掘り下げられていない箇所があるのが残念だと」私は上で述べましたが、これらの本を読み、何度も映画を観たりCDを聴いたりしている内に、そうした気持ちがどんどん変わっていきました。
尺の関係で色々な部分をカットしながらも、それぞれのキャラクターの内面や過去を歌と音楽で表現するその技術に今では驚くばかりです。制作陣がいかに桁外れの仕事を成し遂げたかということに頭が下がる思いです。かつての自分が申し訳ないです。知れば知るほどレミゼのすごさを思い知らされるように感じています。ミュージカル版のすごさを知る上でこの2冊の本は非常におすすめです。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「ユゴー『レ・ミゼラブル』あらすじと感想~ミュージカルでも有名なフランス文学の最高傑作!」でした。
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