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『マルチバースの缶コーヒー』

「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。


第9話:自我の集合体

 音が、光が、感情が、すべての質量を失った世界。
 辿り着いた『セントラルエリア』は、無限に広がる真っ白な、しかし底の抜けた時空の牢獄だった。

 蓮は、その虚無の中心にぽつんと座り込んでいた。
 両手を見る。瑞希の形をしたものを打ち砕いたあの生々しい感触も、返り血の温もりも、ここには存在しない。あるのはただ、永遠に続く静寂と、胸の奥を虚ろに吹き抜ける、冷たい絶望の風だけだった。

「……もう、どうでもいい」

 声は響くことなく、白い空間に吸い込まれて消える。
 東堂を見返したいという歪んだ名誉欲も、世界線をハッキングして全能の神になろうとした傲慢さも、すべてはただの砂の城だった。何かを求め、何かに縋り、世界が変わってくれることを期待するたびに、自分の一番大切なものが指の隙間からこぼれ落ちていった。

『――それが、あなたの至った結論ですか、桐生蓮』

 不意に、空間そのものが震えるように、低く、しかし無数の人間の声が重なり合ったような「響き」が蓮を包み込んだ。
 天井も床もない虚無の向こうから、ゆっくりと巨大な光の幾何学模様が姿を現す。それは、すべてのマルチバースのバグを監視し、因果を統べる究極のシステムであり、同時に、あらゆる世界線で挫折していった人間たちの「自我の集合体」――『マザー』だった。

『あなたは自らのエゴのためにシステムを拒絶し、大切な存在のコードすら自らの手で抹殺した。何も望まない、願わないと言うのなら、このままここで、すべての確率の揺らぎから解放されなさい。それこそが、あなたが求め続けた、誰もあなたを傷つけない永遠の安息です』

 マザーの言葉は、冷酷な宣告でありながら、同時に抗いがたい抱擁のように優しかった。
 ここにいれば、もう誰とも自分を比べなくていい。家賃の心配も、クレーマーの怒号も、持たざる者としての惨めさも、二度と味わうことはない。すべてを諦めて、この大いなる虚無に同化してしまえば、どんなに楽だろうか。

 果てしない時空の静寂の中で、蓮はただ、じっと自分の内側を見つめていた。
 どれほどの時間が流れただろう。一瞬のようでもあり、一万年のようでもあった。絶望が行き着くところまで行き、感情の波が完全に凪いだとき、蓮の心に、ある「悟り」のような冷徹な感覚が芽生え始めていた。

(……違ったんだ)

 蓮は、静かに目を閉じる。
 なぜ俺の人生は、どの世界線へ行っても地獄だったのか。なぜ全能の力を得ても、あの140円の缶コーヒーの温もりを超えられなかったのか。

 それは、自分がいつも「受け身」だったからだ。
 世界が自分を評価してくれるのを待ち、瑞希が自分を無条件に愛してくれることに甘え、システムが自分の人生を都合よく書き換えてくれるのを期待していた。後悔し、傷つき、他者に幸福を求めているだけの傲慢な思考。それこそが、自分の人生を濁らせていた本当のバグだったのだ。

(世界が俺をどう評価するかじゃない。俺が、世界をどう生きるかだ)

 たとえ、戻った世界がどんなに理不尽で、みすぼらしくて、前よりも過酷な現実であったとしても構わない。瑞希が俺を忘れていようが、東堂に蔑まれようが、そんなことはもう問題ではない。
 俺は、俺の意志で、俺の足で、もう一度あの泥臭い現実の地平を歩きたい。

「……マザー」

 蓮はゆっくりと立ち上がった。その瞳からは、かつての濁った嫉妬も、狂気じみた絶望も消え去っていた。ただ、深く、静かな、揺るぎない「覚悟」だけが宿っていた。

「俺を、元の世界線へ帰せ」

『理解に苦しみます』
 マザーの幾何学模様が、怪しく明滅する。
『元の世界リブートの先にあるのは、あなたが最も嫌悪した、何一つ報われない不条理な現実です。あなたの席など、もうどこにも残されていないかもしれない。それでも、その地獄へ戻るというのですか』

「ああ、戻るよ」

 蓮は微かに微笑んだ。

「どんな泥水だろうと、自分の足で這い上がってやる。誰に与えられたものでもない、俺だけの人生を、もう一度始めるために」

 言うが早いか、蓮は踵を返し、セントラルエリアの白い深淵に向かって、全力で「逆走」を始めた。
 背後からマザーの警告のノイズが響き、空間が激しく歪み、因果の濁流が蓮の身体を引き千切らんと襲いかかる。だが、蓮の足は止まらない。果てしない自我の時空を、ただ一筋の「生への意志」だけを羅針盤にして、彼は自らの手で現実をハッキングし、泥の温もりが待つ、あの始まりの世界線へと突き進んでいった。

(第10話に続く)


📖 バックナンバー

前回のストーリーはこちらからお読みいただけます。

​【第1話】確率のバグ​https://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74

【第2話】因果の逆転​https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c


【第3話】万物の理論https://note.com/natty_llama5121/n/nc2a656910d8c

【第4話】観測者の影https://note.com/natty_llama5121/n/n1f23bf0efa0c

【第5話】共犯者https://note.com/natty_llama5121/n/n832d69adb3a6

【第6話】静寂の讃歌https://note.com/natty_llama5121/n/nec9f4b08de97

【第7話】不在の証明https://note.com/natty_llama5121/n/naf192cfcf26a

【第8話】第8話:生存本能https://note.com/natty_llama5121/n/na40b6df6da7e


#創作大賞2026 #ファンタジー小説

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