『マルチバースの缶コーヒー』
「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。
第3話:万物の理論
世界が引き千切られるような感覚の後、蓮が最初に知覚したのは、強烈な化学薬品の匂いと、鼓膜を執拗に叩く金属的な電子音だった。
「――チ、チ、チ、チ……」
タワマンの夜景も、東堂の冷徹な声も、一瞬で消え去っていた。
蓮が這いつくばっていたのは、油と埃で黒ずんだリノリウムの床だった。慌てて立ち上がると、目の前には、おびただしい数の電子機器や剥き出しの配線、そして黒板一面に殴り書きされた、狂気じみた量の数式が広がっていた。
「おい、桐生。また倒れてたのか? 徹夜が続いてるのは分かるが、お前が死んだらこの研究はストップするんだぞ」
背後から声をかけられ、蓮は弾かれたように振り返った。
白衣を着た、見知らぬ白髪の老教授が、コーヒーカップを片手に怪訝な顔でこちらを見ている。
(ここは……どこだ?)
じわり、と脳の奥から冷たい記憶の濁流が染み出してくる。
大学時代、東堂と共に起業する道を選ばず、さりとてホームセンターへの就職を選ばなかった世界線。蓮は大学院へ進学し、ひたすらに「マルチバース(多次元宇宙)の存在証明」を追う、万年金欠のポスドク研究員になっていた。
東堂の会社のようなきらびやかさは、ここにはない。あるのは、予算を削られ、世間からは「誇大妄想の引きこもり」と揶揄される、うらぶれた物理学研究室の現実だけだった。
「教授……俺たちの研究は、どこまで進んでるんですか?」
「何を言っている。お前が昨日見つけたんだろう。並行世界同士が干渉し合う時に発生する、時空の『歪み』の数式を」
教授が指差した黒板を見る。その中心に書かれた数式を目にした瞬間、蓮の背筋に冷たい戦慄が走った。
そこには、彼が世界線をシフトする瞬間にいつも目にする、あの幾何学模様のノイズを完全に説明する数理モデルが刻まれていたのだ。
(これだ。俺の脳内で起きているバグは、幻覚でも、ただの超能力でもない。この世界の『物理法則』そのものなんだ)
その時、室内に設置された Geiger カウンターと重力計測器が、狂ったようなアラート音を鳴らし始めた。
「チチチチチチママママ……ッ!」
「な、なんだ!? 空間の重力場が急激に歪んでいく……! 桐生、お前一体何をした!?」
教授が悲鳴を上げる。部屋の蛍光灯が激しく明滅し、バチバチと火花を散らした。
蓮は知っていた。これは、自分がこの世界線に『シフト』してきた直後に発生する、時空の局所的なエラーチェックの余波だ。蓮の存在そのものが、この世界の物理システムにとっての「異物」として弾かれようとしている。
明滅する光の中、蓮は黒板の数式を凝視した。
東堂の冷酷さに傷ついた心は、今や全く別の、冷徹な高揚感へと塗り替えられていた。
「同情も、裏切りも、人生の失敗も……」
蓮は震える指先で、自身のスマホの画面に触れた。この世界線でも、東堂の会社は成功している。だが、今の蓮にとって、そんなことはもはやどうでもよかった。
「東堂がどれだけ金を稼ごうが、あのクレーマーが誰を怒鳴り散らそうが……この数式(マルチバース)の確率論の前では、ただの端数(ノイズ)に過ぎない」
蓮の瞳に、常軌を逸した狂気の光が宿り始める。
人間関係のドロドロした地獄から抜け出す方法を、彼はついに見つけたのだ。感情などという不確かなものに縋るから絶望する。世界そのものの「構造(システム)」を完全に解き明かし、そのマスターになれば、誰も自分を傷つけることはできない。
「教授。俺は、この世界の真実をハッキングする。そのために……別の世界線のデータを集める」
「桐生? 何を言って――」
教授の声を遮るように、部屋中のガラス器具が一斉に粉々に割れた。
空間に走る、鮮烈な青と赤のモアレ。
激しい重力反転の目眩の中で、蓮は自ら進んでその光の裂け目へと手を伸ばした。理想の人生を探す旅は終わった。ここから、世界そのものを暴く、彼の孤独なハッキングが始まる。
(第4話に続く)
📖 バックナンバー
前回のストーリーはこちらからお読みいただけます。
【第1話】確率のバグhttps://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74
【第2話】因果の逆転https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c
