『マルチバースの缶コーヒー』
「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。
第1話:確率のバグ
床に、自分の頭がめり込んでいくような感覚があった。
「聞いてんのか、桐生!」
至近距離で破裂した怒鳴り声が、桐生蓮(きりゅう れん)の鼓膜を不快に震わせる。
ここは、西日がじっとりと差し込む『タカキタホームセンター西野宮店』のサービスカウンターの奥。蓮は、目の前で真っ赤な顔をして机を叩いている初老の男に向かって、今日何度目か分からない角度の深い一礼を捧げていた。
「大変申し訳ございません、お客様。こちらの確認不足で、お買い求めいただいた防腐剤入りの木材の在庫が切れておりまして……」
「申し訳ございませんで済むかよ! 俺はな、今日中に庭のウッドデッキを仕上げなきゃならんのだ! 往復のガソリン代と、俺の無駄になった時間をどうしてくれるんだ!」
男の口から飛び散る唾沫が、蓮の着ている緑色の制服の胸元に小さなしみを作る。
蓮は、そのしみをただ見つめていた。謝罪の言葉を口にしながらも、彼の脳細胞の半分は、目の前のトラブルとは全く別の、遥か遠い場所を彷徨っている。
(もし、あの時――)
頭の奥が、ズキリと痛む。毎日のように彼を苛む、持病の偏頭痛の前兆だった。
(もし、五年前のあの夜。あいつと一緒に、起業の契約書にハンコを押していれば)
「おい! 聞いてるのかって聞いてんだよ!」
「はい、誠に申し訳ございません。すぐに他店舗の在庫をお調べし、私の車で直接お客様のご自宅までお届けに上がりますので……」
バイトの若いスタッフが、カウンターの陰で恐怖に震えながら蓮の背中を見つめている。
二十九歳。フロア主任。聞こえはいいが、実態はアルバイトのシフト調整と、こうした理不尽なクレームの銃撃戦の最前線に立たされる盾でしかなかった。自分が明日、急に体調を崩して出社しなくなっても、来週には別の誰かがこの緑色の制服を着て、同じように頭を下げているだけだろう。
自分の代わりなんて、いくらでもいる。この世界にとって、自分という存在はただの埋没した歯車に過ぎない。
さらに一時間近くの不毛な押し問答の末、ようやく怒り狂った客を送り出した時、外はすっかり暗くなっていた。
「……桐生さん、すみませんでした。僕のせいで」
「いや、いいよ。気にするな。よし、残りの在庫整理、終わらせちゃおう」
力なく笑ってみせ、蓮はバックヤードの男子トイレに駆け込んだ。
個室の鍵を閉め、便座に崩れ落ちるように座る。冷たいプラスチックの壁に頭を預けると、激しい自己嫌悪が津波のように押し寄せてきた。
震える手で、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面を開き、ブックマークされたウェブ記事をタップする。そこには、数日前に経済メディアに掲載された、ある男のインタビューが載っていた。
『若き異端児が語る「マルチバース的思考」――失敗を恐れない選択が、世界を変える』
洗練されたオフィスのデスクで、自信に満ちた笑みを浮かべているその男は、大学時代の親友だった。五年前、二人は同じ夢を追いかけ、会社を立ち上げる直前までいった。だが、蓮は「失敗した時のリスク」が恐ろしくなり、最後の最後で逃げ出したのだ。安定という名の、このホームセンターの求人に飛びついて。
結果はどうだ。
リスクを取ったあいつは、今や時代の寵児となり、何百人もの部下を従えて世界を動かしている。リスクを恐れた自分は、百四十円の缶コーヒーを買うのすら躊躇い、見知らぬ人間に怒鳴られて夜を迎えている。
「くそっ……」
視界が、急激に滲んだ。涙ではない。頭痛が限界に達していた。
あいつと自分を分けたのは、あの夜の「たった一つの選択」だけだったはずなのに。
「戻りたい……。もしあの時、俺が逃げずにあいつの手を取っていたら、今頃俺は――」
強く、強く目をつぶった。奥歯が軋むほど、今の自分自身を呪い、ここではない「別の可能性」を狂おしいほどに渇望した、その瞬間だった。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
「――っ!?」
脳が沸騰するような、凄まじい熱量が頭蓋骨の内で弾ける。
目を開けると、異変が起きていた。
狭いトイレの個室。その輪郭が、まるで印刷のズレた3D映像のように、赤と青の二重にブレ始めている。壁のタイル、プラスチックのドア、自分の手。すべての物質の表面に、見たこともない幾何学的な「縞模様(モアレ)」が浮かび上がり、不気味に蠢いていた。
「な、んだこれ……」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。それどころか、重力の方向がめちゃくちゃに狂っていく感覚があった。床に吸い込まれるような、あるいは天井に向かって落下していくような、強烈な目眩。
パリン、と頭の中でガラスが砕けるような高音が響いた。
視界が万華鏡のように幾何学的にひび割れる。割れた空間の破片の一枚一枚に、見たこともない景色が映り込んでいた。スーツを着た自分、白衣を着た自分、どこかの南の島で佇む自分――。
それらの破片が、激しい濁流となって蓮の意識を飲み込んでいく。
「う、あ、あああああ!」
叫んだ声は、空間に吸い込まれて消えた。
ドン、と強烈な衝撃が全身を貫く。
次の瞬間、蓮の鼻腔を突いたのは、ホームセンターのトイレの芳香剤の匂いではなかった。
かすかに漂う、高級なシガーの香りと、熟成されたワインの豊潤な香り。
「――え?」
ゆっくりと目をあける。
そこは、狭い個室ではなかった。夜風が頬を優しく撫でている。
蓮は、都心の超高層タワーマンションの、広大なベランダに立っていた。眼下には、まるで宝石をぶちまけたような、息を呑むほど美しい東京の夜景がどこまでも広がっている。
自分の手を見る。
そこにあったのは、薄汚れた緑色の制服の袖ではない。自分の体に完璧にフィットした、仕立ての良い、深いネイビーの高級スーツだった。
右手には、クリスタルのグラス。中では、琥珀色の液体が月光を浴びて妖しく揺れている。
「な……なんだ、ここは……夢、なのか……?」
混乱で呼吸が荒くなる。その時、スーツの胸ポケットの中で、スマートフォンが短い電子音を鳴らした。
引き抜くようにして画面を見る。
ディスプレイに表示された発信者の名前を見た瞬間、蓮の息が止まった。
『東堂(代表)』
さっきまで、メディアの画面越しに嫉妬の眼差しを向けていた、あの親友の名前だった。
画面をスワイプし、恐る恐る耳に当てる。
「……もしもし」
『おい、蓮か?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、まぎれもない、あいつの声だった。ただ、記憶にある学生時代の声よりも、ずっと低く、重い響きを帯びている。
『明日の、シリコンバレーの投資家連中との取締役会だけどよ。資料の最終チェック、もう終わってんだろうな?』
「とり、しまり……役会……?」
『何寝ぼけた声してんだ。お前が資料をトチったら、うちの会社の今期の上場計画が全部狂うんだぞ。頼むぜ、副代表』
ブツリ、と通話が切れた。
静寂が戻ったベランダで、蓮は呆然とスマートフォンを見つめていた。
画面の反射に映る自分の顔には、あのホームセンターで浮かべていた、うだつの上がらない卑屈な影はひとかけらもなかった。自信と、わずかな疲弊を宿した、完璧な「成功者」の顔がそこにあった。
「ここは……俺が、逃げなかった世界……?」
蓮の脳内に、濁流のような「記憶」が強制的に流れ込み始める。会ったこともない秘書の顔、数億円単位の資金調達の数字、東堂と二人で徹夜して書き上げた事業計画書――。
頭を抱え、夜景に向かってよろめきながら、蓮は理解した。
自分は、別の世界線へ来てしまったのだと。
そしてこれが、彼が世界そのものの構造をハッキングし、狂気の探求へと身を投じることになる、長いマルチバースの旅の、最初の「バグ」だった。
第2話 因果の逆転https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c
