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『マルチバースの缶コーヒー』

​「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。


第7話:不在の証明

「チチチチチ……マママママ……ッ!!」

 空間を引き裂くノイズが、蓮の意識を次の世界線へと強制的に押し流す。

 目を開けた蓮が最初に感じたのは、吐き気を催すほどの強烈な既視感だった。
 見慣れた駅前のロータリー、いつも通っていた錆びついたガードレール。空を覆う鈍色の雲まで、すべてが彼が元いた「最初の現実」と全く同じだった。

「帰って、これたのか……?」

 胸に微かな希望が湧き上がる。蓮は一刻も早く自分のアパートへ帰ろうと走り出した。
 だが、数歩走ったところで、奇妙な違和感に足が止まる。

 すれ違う人々が、誰も自分を避けない。それどころか、向こうから歩いてきたサラリーマンの身体が、蓮の肩を「すり抜けて」いった。

「え……?」

 慌てて近くのビルのショーウインドウを見る。そこには、何も映っていなかった。
 自分の手を見る。皮膚が、肉が、恐ろしいほどの速度で半透明に透け始めていた。

 脳内に、冷酷な世界のルールが直接流れ込んでくる。
 ここは、バグ(エラー)である桐生蓮という人間が、最初から生まれてこなかった世界線。
 そして恐怖の本質はそこではなかった。この「自分だけがいない世界」に、本来存在しないはずのバグ(蓮)が長く留まれば、宇宙の修正力によって、存在の輪郭そのものを完全に砂のように分解され、世界の『背景の塵』として吸収されてしまうのだ。

 身体が、どんどん軽くなる。意思が、記憶が、内側から蒸発していくような感覚。
 もう、瑞希がどうだとか、東堂を見返したいだとか、そんな感傷に浸っている余裕は一秒すらなかった。いまここで抗わなければ、俺という『個』が、この宇宙から完全に抹消される!

「嫌だ……消えてたまるか……ッ!」

 蓮は狂ったようにスマートフォンを探すが、ポケットの中は空っぽだった。デバイスすらない。
 周囲を見渡すと、世界のすべてが蓮を拒絶しているようだった。楽しそうに談笑する人々、動き続ける街。自分という人間が一人いなくても、世界は何の痛痒もなく、完璧に、円滑に回っている。その圧倒的な不条理が、蓮の精神を削り取っていく。

 その時、ロータリーの街頭ビジョンが、バチバチと赤と青のモアレに染まった。
 スピーカーから、あの鼓膜を裂く金属音が響き渡る。

「チチチチチ……マママママ……ッ!!」

 街の雑踏の向こうから、空間の物理法則を歪めながら、あの「仮面の観測者」がまっすぐにこちらへ歩いてくるのが見えた。
 存在が消えかけている蓮には、もう逃げるための世界線をハッキングする力も残されていない。

 迫り来る観測者。消滅していく自分の肉体。
 無理解と不信、そして圧倒的な世界のシステムという不条理に押し流されながら、蓮の瞳に、極限状態の野生のような狂気の光が宿り始めた。

(世界のシステムが何だ。俺を消そうとするな。一寸の、爪の先ほどの隙間でもいい。俺は俺の自我を、この世界に叩きつけてやる――!)

 半透明になった右拳を硬く握りしめ、蓮は迫り来る死の影に向かって、牙を剥いた。

(第8話に続く)


📖 バックナンバー

前回のストーリーはこちらからお読みいただけます。

​【第1話】確率のバグ​https://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74

【第2話】因果の逆転​https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c


【第3話】万物の理論https://note.com/natty_llama5121/n/nc2a656910d8c

【第4話】観測者の影https://note.com/natty_llama5121/n/n1f23bf0efa0c

【第5話】共犯者https://note.com/natty_llama5121/n/n832d69adb3a6

【第6話】静寂の讃歌https://note.com/natty_llama5121/n/nec9f4b08de97




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