『マルチバースの缶コーヒー』
「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。
第6話:静寂の讃歌
「チチチチチ……マママママ……ッ!!」
水瀬の裏切りによる激痛と、追ってくる観測者の恐怖。
極限状態の脳のバグが、蓮をこれまでとは全く異なる、深遠な次元の裂け目へと突き落とした。
――耳が痛くなるほどの、圧倒的な静寂だった。
気がつくと、蓮はどこまでも続く瑞々しい緑の草原に横たわっていた。
見上げる空はどこまでも青く、近代的なビルも、ホームセンターも、人間の気配すら一切存在しない。脳内に流れ込んできた記憶が、この世界のあまりにも壮大な歴史を告げていた。
ここは、一万年以上前にシュメール文明が滅んだ後、さらに一万年をかけて、人類史が全く異なる形で「リブート(再起動)」した世界。人間という種が存在しないまま、地球が独自の進化を遂げたパラレルワールドだった。
「……誰も、いないのか」
蓮は力なく立ち上がり、歩き出す。東堂の冷酷な声も、クレーマーの怒号も、自分を値踏みする社会の目もここにはない。かつてあれほど望んだ「誰にも傷つけられない世界」が、ここにあった。
『――ようこそ、旅人さん』
不意に、鼓膜ではなく、脳の奥に直接響くような、穏やかで優しい「声」が聞こえた。
驚いてあたりを見回すが、誰もいない。ただ、足元の小さな花々や、大いなる大樹の葉が、風に揺れてかすかな光を放っていた。
『ここは静かな世界。あなたの傷を、ここで癒していきなさい』
それは、植物たちが発する穏やかな言語だった。この世界のあらゆる生命は、意思を持ち、調和し、ただ優しく世界を賛美している。
果てしない孤独。だが、不思議と恐ろしさはなかった。このままこの緑の泥に身を委ね、世界の一部になってしまえば、どれほど楽だろうか。
しかし、その優しすぎる静寂に包まれるほどに、蓮の胸を満たしたのは、狂おしいほどの「あの部屋」への渇望だった。
――家賃6万5千円の、狭くて古いアパート。
ホームセンターの園芸コーナーで働く瑞希と、半ば同棲のような形で転がり込んで始まった、不器用な二人暮らしの記憶。
お互い薄給で、インテリアなんて呼べるものは何もない部屋。夜、仕事帰りに瑞希が買ってきてくれる140円の缶コーヒーを、一つのマグカップに分け合って飲んだ、あの安っぽい砂糖の甘み。
『蓮くん、今日も頑張ったね。お疲れ様』
そう言って、土の匂いがかすかに残る温かい手で、自分の荒れた手を包み込んでくれた瑞希の笑顔。
あの時は、そんな何気ない日常が、自分を縛り付ける「底辺の檻」のように思えて仕方がなかった。東堂と比べては勝手に劣等感を抱き、瑞希の優しさからすら逃げるように世界線を飛び出したのだ。
だが、誰もいない完璧な楽園に立って、蓮は初めて思い知る。
あのみすぼらしい部屋で瑞希と過ごした時間こそが、自分の人生で唯一、本当の幸福が息づいていた場所だったのだと。
(俺が求めていたのは、誰もいない綺麗な世界じゃない。俺は、あの雑多で、汚くて、だけど瑞希が隣にいてくれた日常へ帰りたいんだ)
植物たちの穏やかな歌声に背を向け、蓮は自身のスマートフォンを強く握りしめた。
脳の奥のバグを無理やり抉り出し、空間を激しく歪ませる。
「すまない。俺は、ここにはいられない」
緑の楽園がぐにゃりとブレ始め、赤と青のモアレが全視野を覆い尽くしていく。
瑞希にもう一度会って、あの缶コーヒーの温もりを分かち合いたい。その執念だけで、蓮は再び、果てしないマルチバースの濁流へとその身を投じた。しかし、次に辿り着いた世界は、彼にさらなる残酷な孤独を突きつけることになる。
(第7話に続く)
📖 バックナンバー
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【第1話】確率のバグhttps://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74
【第2話】因果の逆転https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c
【第3話】万物の理論https://note.com/natty_llama5121/n/nc2a656910d8c
【第4話】観測者の影https://note.com/natty_llama5121/n/n1f23bf0efa0c
【第5話】共犯者https://note.com/natty_llama5121/n/n832d69adb3a6
