『マルチバースの缶コーヒー』
「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。
第8話:生存本能
半透明に透けかけた蓮の身体に、赤と青の強烈なモアレの霧がまとわりつく。
眼前に迫る「観測者」は、真っ白な磁器のような仮面をつけ、一切の感情を排した無機質な足取りで、蓮の頭部へとその泥のような手を伸ばした。
触れられれば、消える。
この「自分だけがいない世界」の背景の塵として、桐生蓮という『個』のすべてが分解され、宇宙のデータに還元されてしまう。
「ガ、ア、アァァァッ……!」
喉から掠れた悲鳴が漏れる。周囲を行き交う人々は、すぐ横で起きている時空の崩壊にすら気づかない。誰も自分を見ていない。誰にも自分の声は届かない。世界全体の不理解と不条理、そして圧倒的な「拒絶」の嵐が、蓮の精神を圧殺せんばかりに吹き荒れていた。
(誰も俺を認めない。俺がいない方が、世界は綺麗に回っている……)
(なら、俺はここで、大人しく消えればいいのか?)
――ふざけるな。
脳の奥、バグの深淵で、どす黒い灼熱の塊が爆発した。
他者との比較も、成功への執着も、全てが消えかけた極限の泥の中で、剥き出しの「生存本能」だけが牙を剥く。
世界が俺をいらないと言っても、俺は俺を諦めない!
「おおおおおおおッ!!」
蓮は獣のような咆哮を上げ、半透明の身体に最後の質量を込めて飛びかかった。床を這った右手が、偶然そこにあった工事用の「錆びついた鉄パイプ」を、血が滲むほどの力で握りしめる。
またいつかのハッカーの女と同じ、世界の罠だ。俺を嵌め、俺を消そうとするシステムの手先。なら、叩き潰すだけだ!
ガギィィィンッ!!!
乾いた金属音が轟く。蓮が渾身の力で振り下ろした鉄パイプは、観測者の側頭部を正確に捉え、その肉体をコンクリートの床へと叩きつけた。
データ消去のプログラムを実行中だった観測者は、消滅寸前のバグが、そんな「非論理的で物理的な暴力」を振るってくるとは予測していなかった。防御行動すら取らない。
「消えろ! 俺を消そうとするな! 俺は、ここに生きているんだッ!」
ドカッ、バキッ、と生々しい肉打音が無理解な街の片隅に響く。
蓮は狂ったように鉄パイプを何度も、何度も振り下ろした。それは世界に対する「俺という個の証明」だった。やがて、観測者の身体から力が抜け、完全に機能停止する。
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ」
息を切らし、鉄パイプを落とす。勝った。システムに、不条理に勝ったのだ。
だが、動かなくなった観測者の顔を覆っていたモアレの霧が消え、真っ白な仮面がパキリと割れて剥がれ落ちた瞬間――。
蓮の世界が、完全に凍りついた。
「……嘘、だろ……?」
そこに横たわっていたのは、見知らぬ怪物の依代でも、ハッカーの罠でもなかった。
家賃6万5千円の部屋で、いつも土の匂いをまとって笑っていた、蓮にとってかけがえのない、唯一無二の恋人――瑞希の姿だった。
システムは、蓮を完全に破壊するための最も容赦ない刺客として、彼の魂の最深部にいた瑞希のアバターを構築していたのだ。瑞希の姿をした観測者は、機能停止する直前、人形のようなうつろな瞳で、蓮に優しく穏やかな「福音」を告げた。
『これで……いいのよ、蓮くん。もう、どこへも行かないで……』
蓮がその手で、渾身の憎しみと生存本能を込めて殴り殺したのは、自分がどの世界線を彷徨ってでも、もう一度会いたかった「彼女」の形をしたものだった。
「ああああああああああああああッ!!!」
蓮は血塗れの床に崩れ落ち、頭を掻きむしりながら絶叫した。
自分の自我を守るために、一番大切なものを自らの手で打ち砕いた。その絶対的な絶望と不条理が、蓮の胸をハサミで切り刻むように抉っていく。
「もう何も望まない! 何も願わない! だから、頼むから……ッ!!」
涙と血にまみれた蓮の叫びに応じるように、周囲の空間がガラスのように激しくひび割れた。
世界線が完全に崩壊していく。瑞希の亡骸も、見慣れたロータリーも、すべてが光の奔流の中に飲み込まれていく。
激しい目眩のあと、蓮の身体は、すべてのマルチバースの因果が収束する、不気味なほど静謐な白い空間――『セントラルエリア』へと、引きずり込まれるように強制転送されていた。
(第9話に続く)
📖 バックナンバー
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【第1話】確率のバグhttps://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74
【第2話】因果の逆転https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c
【第3話】万物の理論https://note.com/natty_llama5121/n/nc2a656910d8c
【第4話】観測者の影https://note.com/natty_llama5121/n/n1f23bf0efa0c
【第5話】共犯者https://note.com/natty_llama5121/n/n832d69adb3a6
【第6話】静寂の讃歌https://note.com/natty_llama5121/n/nec9f4b08de97
【第7話】不在の証明https://note.com/natty_llama5121/n/naf192cfcf26a
