昭和、男もつらかった 136 開墾
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校在学中、陸軍少年飛行兵に志願し整備兵として特攻隊に加わったが幸い復員、家業の農業に精を出した。朝鮮戦争の「おかげ」もあり景気も上向いていた昭和29(1954)、二夫一家は同じ集落のミヨ子(母)を嫁に迎える。一家の嫁への認識は昔ながらのものだったが、新婚夫婦だけの楽しみもないわけではなかった。
嫁取りより前に、二夫たちの地域では山を開墾してミカンを植える流れになっていたことは述べた。結婚が3月。まもなく田起こしが始まり、やがて田植へ――と年間で最も重要な稲作のサイクルに入っていくのと並行して、ミカン山の整備も行われていた。
果樹の育成には日照の確保のために適度な傾斜があることが理想で、父親の吉太郎(祖父)が持っている山林は日当たりがよかった。ただし、元々生えていた雑木は切り倒す必要があった。この作業には専門の工具が必要だっただろうから、共同して開墾する農家たちが林業を営む人に依頼したことだろう。
切り倒した木々も、自分たちで運べない大きさのものは材木商に引き取ってもらったかもしれない。昭和30(1955)年前後なら、値段はともかくまだ売れたことだろう。運べるくらいの木は短く切って、枝などとともに焚き木や農業用の資材として使っただろう。
幹から上の部分はそうやって処理できても、ミカンの木を新たに植えるには、根っこも当然なんとかしなければならない。そこで「開墾」である。深く張った木の根を、人の手で掘り起こしていった。
山林の登記簿等が手元になく、その広さを正確に表現できないのがもどかしいのだが、都会で貸し出される家庭菜園の1区画や2区画といった単位ではない。子供の頃の二三四(わたし)が見た感じでは「見える範囲の山肌に全部ミカンが成っていた」ぐらい、広かった。それをほとんど人力で開墾したとは。
木の根を掘り起こしたあとは、傾斜のある山肌を段々畑状に造り直さなければならない。段を造ったら、土が流れないように石垣で止める。だからミカンが成るほど木が育ったあとのミカン山は、下から見ると木の間に石垣が見え、それが上のほうまで続いていた。その石垣も人力で組んだらしい。ある意味どれだけ原始的だったのか、気が遠くなる作業だ。
女性たちは男衆のような力仕事はできない。掘り起こした木の根を片づけたり、木の根のあとの穴をならしたりといった比較的軽い作業を任された。軽めといっても鍬を持っての手作業である。腰を曲げて俯きながらひたすら鍬を振るう。完治したとはいえ、つい数年前まで結核で入院していたミヨ子には、厳しい作業だった。
作業そのものも厳しかったが、嫁のミヨ子にとってより辛かったのは、舅の吉太郎も姑のハル(祖母)も体が丈夫だったため、疲れても「休みたい」と言えないことだった。ひとたび作業が始まると、お茶やお昼の休憩を除くと働きづめだった。
さらに、吉太郎もハルも、それまでの人生経験から倹約をモットーにしていた。作業は基本的に人力に頼り、軍手や地下足袋(ぢかたび)のような体を保護するものも使わなかった。素手に、せいぜい自分で編んだわらじである。「体は汚れたら洗えばいいが、手袋や地下足袋は繕ったり買い直さないといけないからもったいない」と吉太郎たちは考えていた。いや、昭和30(1955)年前後の地方の農村では、作業の際手足を保護するという感覚がまだ希薄だったのかもしれない。
二夫もミヨ子も毎日埃だらけ、泥だらけになって働いた。結婚前は工場勤めで色白だったミヨ子は、たちまち日焼けしていった。
《お断り》本項の内容は、ミヨ子の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「三十八 開墾1」、「三十九 開墾2」に加筆、修正した。なお吉太郎の生涯を綴った「文字を持たなかった明治」の「92 ミカン山の開墾」でも開墾について述べている。
