昭和、男もつらかった 132 御前迎え(ごぜむけ)

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校在学中、陸軍少年飛行兵に志願。整備兵としての特攻隊での任務を、朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で終えた復員後は家業の農業に精を出した。戦後日本経済が回復する中、食生活でも嗜好品的な需要が増えてきており、二夫たちの地域では山を開墾してミカンを植えようという流れになっていた。働き手を増やすためにも二夫一家は嫁取りを決め、仲人を立てて同じ集落のミヨ子の親に縁談を申し入れた

 二夫が「ミヨ子でないと」と固く決めていたのと対照的に、ミヨ子は「親が『これがいい』と言うなら」という気持ちで結婚を決めた。いや「決める」という意識すらなかった。

 昭和29(1954)年3月10日、鹿児島でいう「ごぜむけ」、つまり「御前迎え」、いまでいう結婚式が二夫の家で執り行われる。

 当時は一般的な人前結婚で、仲人夫婦、両家の主な親戚が集まった。集落の顔役など近所の主だった人も招いたことだろう。二夫の父・吉太郎が買った屋敷は広かった。雨の日でもちょっとした作業を行えるよう広くとった土間を上がると、囲炉裏を切った部屋がありそこから床の間のある「表の間」に続く。二間をぶちぬき一人分ずつの御膳を置けば、30人くらいは楽に座れた。

 冠婚葬祭は集落がこぞって協力していた時代、料理は近所の主婦たちが手伝って用意した。手作り感満載と言えば聞こえがいいが、当時の農村地区では当たり前の、質素な結婚披露だった。

 それでも結婚写真だけは撮った。個人でカメラを持っている人など近所にはおらず、写真といえば写真館で撮るものだった時代に、若夫婦だけで撮った写真が残っている。写真館は、歩けば小一時間かかる町の商業地区にあった。花嫁衣裳を着こんだミヨ子が歩いて行ったとは思えないが、どうやって赴いたのだろう。

 同じ集落ながら、結婚するまでミヨ子が二夫の家を訪れたことはなく、両親、主に母のハツノから言われた通りに支度を整えただけだった。嫁入り道具と呼ぶほどのものはなかったが、紡績工場勤務時代の貯金で足踏みミシンを買った。集落の田畑を挟んで実家から反対側の、坂の中腹にある二夫の家まで、ハツノがミシンを運んでくれた。表玄関側に当たるゆるやかな東側の坂からではなく、勝手口側に当たる狭くて急な西側の坂からだった。

 この日はミヨ子の24歳の誕生日でもあった。 

《お断り》本項の内容は、ミヨ子の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「三十二(結婚披露」と重複している。同項に貼られたリンク(ミヨ子に関する記事の一部)もそのまま使った。

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