昭和、男もつらかった 116 復員す
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語を綴っている。
二夫は農家の一人息子、戦時中は県立の農芸学校に通っていたが飛行機(軍用機)に憧れ、両親には黙って陸軍少年飛行兵(少飛)に志願した。飛行学校では整備を学び、鉾田教導飛行師団(前身は鉾田陸軍飛行学校)、その移駐に伴って那須野陸軍飛行場で機の整備を担当する。そして終戦は朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で迎えた。
部隊の解散にあたり、どんな指示があったのか、同じ部隊の兵たちことに同期の戦友たちとどんなやりとりがあったのか。そんなことの一端でも聞いておけばよかったと、娘の二三四(わたし)はいまになって悔やむ。
が子供だった二三四にとって戦中ははるか昔のことで、ことさらに聞く気にはなれなかった。二夫自身も、その体験を共有していない相手に軽々に話す気にはなれなかったかもしれない。戦地に赴いた多くの人達がそうであったように。
京城からはどんなルートを辿って復員したのだろう。半島の港から福岡の港へ着き、そこからは鉄道で鹿児島本線を下ったのだろうが、復員できる(させられる)かどうかの判断を受ける必要もあっただろうし、交通手段が限られているうえ、敗戦直後の混乱の中、多数の復員兵を秩序立って帰還させる事業がスムーズに実行されたと思えない。二夫にとって幸いだったのは、外地とはいえ朝鮮という日本、しかも九州からかなり近い場所で終戦を迎えた点だろう。
ともかく、終戦からそう経過していない時期――昭和20(1945)年かせいぜい21年のうちに、二夫は復員、帰郷したようだ。その際の様子は、二夫の父・吉太郎(祖父)の生涯を綴った「文字を持たなかった明治」の中で一度述べている(69 息子の復員)。その部分を少し修正して再掲してみる。
ある日。消息が途絶えていた二夫がひょっこり帰ってきた。よれよれの軍服に汚れた背嚢を背負って。
家の敷地に入ってきた二夫を見つけたのは、吉太郎の妻のハル(祖母)のほうだった。最初の一言は
「んだ。わや、生ぎっちょったとか」(あらまあ。あんた、生きてたのかい)
消息がわからないまま終戦を迎え、その後も何の音沙汰もない息子のことを、ハルも吉太郎も、外地かどこかで死んでしまったものと思いこんでいたのだ。戦地で、あるいは敗戦の混乱の中、どんなことが起きてもおかしくはなかった。
ハルは家の中に駆け込み、吉太郎を呼んだ。
「二夫が戻っきたが!」(二夫が帰ってきましたよ!)
囲炉裏端でキセルを吹かしていた吉太郎は、火を消すのも忘れて立ち上がった。そして、庭に立っている二夫を見てハルと同じことを言った。
「わや、生ぎっちょったとか」
無事生還できた息子相手に、聞きようによってはずいぶん失礼な物言いではある。しかし、率直な感想であり、心底の安堵から出た一言でもあった。息子の安否にはそれほど絶望していたということでもあろう。
「ちゃん、いまじゃった」(父ちゃん、いま戻りました)
二夫が言うと吉太郎はぶっきらぼうに答えた。
「早よ上がれ」(早く家に入れ)
ハルは顔をくしゃくしゃにしながら「みじょ汲んでくいが」(足を洗う水を汲んでくるからね)と言い、小走りに井戸へ向かった。
吉太郎一家の戦後の生活は、こうして本格的に始まった
――二夫の復員に関するこれ以上のことも、これ以外のことも、二三四には書きようがない。二夫がどんな思いでふるさとへの帰路を辿ったのか。消息を知らされないままの日々が、晩婚晩産ですでに老境に入りつつあった両親にとってどんなものだったのか。想像に余りある。
