昭和、男もつらかった 74 飛行機に見とれる
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語を続ける。
尋常小学校から高等小学校に進み、さらに地元の人びとが「高等農林」と呼ぶ県立の農芸学校に、昭和17(1942)年春進学した。家業の農業にもお国のためにも役立ちたいと考えたからだ。跡取り息子の進学に反対した父親・吉太郎(祖父)に約束したとおり、家の農作業も欠かさなかった。
二夫が農芸学校で新しい技術や経営方法を学ぶ間にも、戦争の影響が庶民生活に及んでいたことは、前項「時局 昭和18年」でも触れたとおりだ。
幸い二夫の家は農家なので、国全体の状況が厳しくなってきてはいても食べる分はなんとかなった。学校の合間には親子3人で家の田畑を耕すほか、集落の家の男手が減った農作業を手伝ったりもした。
そんなとき、あるいは圃場など学校の屋外作業でも。二夫たちはときどき飛行機を見かけた。飛行機といっても、現在のような旅客機ではなく軍用機である。旅客機より低空を飛行するため、その機体ははっきり目に捉えられた。
日本が軍用機の運用を試みるのは明治時代終わりから大正時代にかけて。大正末期から昭和の初めには、陸海軍とも運用が制度化される。つまり陸軍、海軍が別々に航空隊を持っていたことになる。
陸軍の飛行場としては知覧がよく知られているが、こちらは特攻基地で大戦の後期に建設、運用している。知覧以外には国分、串良、加治木があった。大戦末期には知覧にも近い加世田に万世が建設されるが、これはほとんど運用されないまま終戦を迎える。海軍では主力基地の鹿屋のほか、出水、鴨池(鹿児島湾に面する鹿児島市内)があった。
つまり鹿児島には相当数の軍用飛行場が建設、運用されていた。これは南方戦略上の地理的要請から、とされている。〈350〉
これらの基地での訓練、あるいは国内の基地間の移動のため、鹿児島県内の上空にはよく飛行機が飛来したはずだ。基地の近くに来れば当然高度を下げるので、機体がはっきり見えるケースも多かったことだろう。
飛び去る機体を見ながら二夫は思った。
「飛行機ちゅは見事(みごっ)かもんじゃねぇ」(飛行機っていうのは、きれいなものだなぁ)
これは生前の二夫回想を、二三四が聞き取った言葉でもある。
その回想がどのくらい「真実」だったか、その「見事っか」飛行機に自分も乗ってみたいとどのくらい本気で思ったのはわからないが、二夫の当時のぼんやりした憧れはのちにある行動につながっていく。
なお、父親・吉太郎の一生を綴った「文字を持たなかった明治 吉太郎」の「63 飛行機って……」でも、二夫の大空への憧れについて述べた。当該項では二夫が飛行機(軍用機)を目にし始めたのを、日本本土への空襲が始まった昭和19年頃としているが、それ以前から鹿児島での軍用機(日本軍)の飛行があったと確認できたため、本項の記述を「正」としたい。(「63 飛行機って……」には訂正を付記する)
ちなみに二夫の娘・二三四(わたし)が、第二次世界大戦中「空軍」に相当するものは日本はもちろん米国にもなく、技術的戦略的に「空軍」の展開が必要かつ可能になるのはベトナム戦争の辺りからだとはっきり知ったのは、ここnoteで近現代の歴史、とくに先の大戦について調べる中で、であった。
〈350〉戦中までの日本の軍用機の導入、運用については、Microsoft の会話型AI検索システムCopilotによる情報を参考にした(2025年9月12日時点)。
