昭和、男もつらかった 73 時局(昭和18年)
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語を続ける。
尋常小学校から高等小学校に進んだ二夫は、家業にもお国のためにも役立ちたいと考え、「高等農林」と呼ばれる地元の農芸学校へ昭和17(1942)年春に進学した。跡取り息子の進学に反対した父親・吉太郎(祖父)に入学前約束したとおり、家の農作業は欠かさなかった。
当時はどんな世相だったのか。筆者である二夫の娘・二三四(わたし)の勉強を兼ねて、少し整理してみる。
昭和17年については、吉太郎の生涯を綴った「文字を持たなかった明治」の「58 昭和17年という年」で述べた。ミッドウェー海戦での敗北やガダルカナル島からの撤退決定など、戦局は日本の劣勢に傾き、庶民生活では「ほしがりません、勝つまでは」の標語が流布するなど統制、管理が厳しくなっていく時期だ。国民皆兵も法制化されたが、当初はまだ待命期間が設けられていた。
では、二夫が農芸学校2年生になった昭和18年はどうだろう。何回か参考にさせてもらっている「はやぶさ宝石箱」によれば、ひと言で言うと「連合軍の反攻が本格化、召集や勤労動員が拡大する」年だという。国内情勢だけざっと挙げてみる(選択は二三四の見解や好みによる)。
2月 日本軍、ガダルカナル島の撤退開始
(太平洋における戦局の主導権が米軍に移行)。
3月 兵役法改正公布(8/1施行)。朝鮮に徴兵制施行。
戦時行政特例法・戦時行政職権特例各公布。首相の権限を拡大、
超重点5大産業(鉄鋼・石炭・軽金属・船舶・航空機)生産増強を策優先。
4月 「緊急物価対策要綱」決定。
価格調整補給金制度・価格報奨制度の採用を意図。
連合艦隊司令長官山本五十六がソロモン諸島上空で米軍機に
撃墜され戦死。
5月 アッツ島日本軍守備隊2500人玉砕。
御前会議「大東亜政略指導大綱」を決定。マレー・インドネシアなどを
日本領土に編入、ビルマ・フィリピンに形式的独立を与える。
6月 「戦力増強企業整備要綱」を決定。雑工業を整理、平和産業部門工場を
休廃止,余剰設備・資材・労働力を5大超重点産業に活用。
「食糧増産応急対策要綱」決定。休閑地の徹底利用による雑穀類の
増産などが目標。
「学徒戦時動員体制確立要綱」決定。 (戦争末期から敗戦まで約300万人
の学徒を動員)。
7月 「国民徴用令」改正公布。18年度中に約70万人を徴用。
日本軍キスカ島より撤退。
9月 「国内態勢強化方策」決定。航空機生産優先、食糧自給、官吏大幅
縮減、国民動員徹底など。
「絶対国防圏」の設定。
11月 軍需省設置。軍需生産のため統制機構を一元化。
兵役法改正公布。国民兵役を45歳まで延長。
大東亜会議開催(日本・満州・タイ・フィリピン・ビルマ・中国汪兆銘
政権の各代表参加)。
マキン・タラワの日本軍守備隊5400人玉砕。
12月 徴兵適齢臨時特例公布。適齢を1年引下げ19歳に。
言論統制も厳しさを増していくし、工業就業時間の規制は撤廃され、「女子供」の無制限労働が可能になった。10月には神宮外苑球場での出陣学徒壮行会が行われている。
世界では米英中の連係が強化されのちにカイロ宣言に署名。イタリアが降伏、対独宣戦……と、なかなか厳しい年だ。が、この先はさらに厳しくなり日本が敗戦へ向かうことは、ごく一部の冷静なエリート層は予測できていただろうがもちろん口にはできず、おおかたの国民は想像すらしていなかったことだろう。
一方二夫ら「軍国少年」たちは、政府やメディアの威勢のいい掛け声に奮い立っていた。周囲では、召集の対象拡大にともない、若い青年ばかりでなく働き盛りの男性も召集されつつあった頃だ。最先端の農業技術を学ぶ二夫たち農芸学校の学徒は、いっそう増産や技術向上に励む覚悟を決めたに違いない。
幸いと言うべきか、晩婚晩産でもう60歳を超えていた吉太郎に召集がかかる可能性は(まず)なかった。老いは表れつつあったが、集落の男手もだんだん減り、よその家の手伝いを頼まれることも増えていた。
