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昭和、男もつらかった 123 食糧増産

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校在学中、陸軍少年飛行兵に志願、整備兵として特攻隊に加わり、朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で終戦を迎えた復員後、若い男手不足の中働き口は多かったが、農芸学校には復学せず家業の農業に精を出していた。

 復員や引き上げで人口が増える一方、焦土と化した国土は産業と言えるものはまだまだ機能していない。なにより食料の需要に供給が追いつかなかったこの時代、食べ物を作る立場の人々はとても尊重された。

 結果的にそれは戦後のほんの一時期ではあったが、この間父親の吉太郎(祖父)も母親のハル(祖母)も二夫自身も、誇らしい気持ちで農作業に取り組んだ。食料の生産は国を支えている、まして熾烈な戦争を経て敗戦でずたずたになった社会と人々を力づけているという実感があった。作ったものはときに意外な価格で買い取られたりもした。農業もこれからは有望だと思うこともあった。

 人手が足りない分は近所の女手を借りたりしつつ、一家三人の農作業は日々続いた。大人に近づいた二夫が、とうに初老を迎えた両親を助けつつ働いた。若い二夫は、どんな重いものも、どんな長時間の作業もものともしなかった。

 とは言え、吉太郎が買い広げた田畑を三人で切り盛りするのは、手伝いをもらいながらではあってもやはり限界があった。

 戦後5年もたつ頃には、終戦直後の混乱がだいぶ収まり、世間の消費が基本の食料から少しずつだがぜいたく品に向かい、食品以外の消費にも目が向くようになっていく。やがて昭和25(1950)年朝鮮戦争が勃発、日本の戦後復興に大きくギアが入った。景気が上向き、産業の中心は工業へとシフトしていった。

 この年、二夫の父親・吉太郎(祖父)は満で70歳を迎えた。相変わらず元気で働き者ではあったが、いま(2020年代)の70歳とはまったく違い、長年の屋外労働の蓄積もあって老人然とした風貌を湛えていた。吉太郎より9歳年下の母親・ハル(祖母)も還暦を過ぎていた。

 当時日本人のだいたいの平均寿命は男性が60歳、女性が68歳なので、二人の「高齢度」がわかるだろう。もっとも男性のほうは、戦争での若年層の死亡が平均寿命を押し下げていたから、それを差し引くと、平均寿命は65歳程度ではないだろうか。いずれにしても、吉太郎夫婦は老人と言われる年齢になっていた。

 両親は、そろそろ二夫に嫁をもらって跡取りとしての基盤を固めてもらう頃だと考えつつあった。 

《お断り》本項の内容は、二夫の父・吉太郎の生涯を綴った「文字を持たなかった明治」の「72 昭和25年、70歳」と一部重複しています。

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