昭和、男もつらかった 118 復学せず
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校在学中、陸軍少年飛行兵(少飛)に志願し、飛行学校では整備を学んだ。鉾田陸軍飛行学校、那須野飛行場のあと、朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で終戦を迎えた。なんとか無事に復員し、久しぶりのふるさとでの生活に安らいでいた。
戦後、世の中はいろいろなことが変わりつつあった。再開された学校では、戦中までの教科書をあちこち墨で塗りつぶしながら使っていると伝え聞いたりもした。体力が戻り暮らしが落ち着いてくると、二夫の胸の中にもまた勉強したい気持ちが頭をもたげることがあった。
陸軍飛行学校に入るまで在籍していた農芸学校に戻るという選択肢を、二夫と、少なくとも母親のハルは考えないこともなかった。むしろ周囲の人びとは
「せっかく入った『高等農林』なのだから、よい時期が来たら復学するのがよい」
と言ってくれた。「よい時期」とは、戦後の混乱の中、学制がどうなるか見通しが立たなかったからだ。
復学にはどんな手続きが必要か、それがはっきりするには当分時間がかかるように思われた。そもそも県立だった農芸学校が存続するのか、するとしてどんな形、位置づけになるのか。そういったことは、「敗戦国」となったいま、「戦勝国」の意向に沿った法律と政策の中で決まっていくのだから、庶民には予測もできなかった。
それに。二夫は両親、とくに父親の期待を裏切って兵隊に入ったという一種の負い目があった。わがままを言って――というか、両親に相談すらしないで志願したのだが――兵隊になり心配をかけたであろうことを考えると、さらなるわがままは言いだしかねた。
父親の吉太郎のほうは、二夫の気持ちを知ってか知らずか、朝になればその時どきの農作業にいっしょに出るよう二夫を促した。
「今日(きゅ)は〇〇の田んぼをほたっで、牛ょ牽いて行け」
(今日はどこそこの田んぼを耕すから、牛を牽いて行けよ)
「戻いやしゃ〇〇が家(え)寄って、焚っもんをもろて行っでね」
(帰り道には誰それの家に寄って、薪をもらって行くからな)
という具合に。
そうこうするうちに、二夫は家の労働力に完全に組み込まれていった。
ただでさえ食糧事情の悪い時代。農業は最ももてはやされ、農家は、おそらく歴史上最高のといっていい「好景気」の中にあった。黙っていても農作物は売れたし、こちらから天秤棒を担いで売り歩かなくても、買いに来る人々がたくさんいた。
「戦争であんなひどい負け方をしたのだから、産業はしばらく壊滅的だろう。これからは農業の時代だ」
と言う人もいたし、二夫も「そうかもしれない」と思った。
両親とともに農業に就くことは、二夫にとっては生まれたときからの定めだった。その既定路線に収まるだけ、とも言えた。
結局二夫は農芸学校復学の道を辿ることはしなかった
