昭和、男もつらかった 117 郷里にて

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校に通っていた戦時中飛行機(軍用機)に憧れ、両親に黙って陸軍少年飛行兵(少飛)に志願、飛行学校では整備を学んだ。鉾田陸軍飛行学校に始まり、那須野飛行場を経て、朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で終戦を迎えた。そして前項では、二夫がふるさとの小さな集落に帰り着いたときの様子を綴った。

 復員後の二夫は「落ち着くまで」しばらくはのんびりしていたのかもしれないが、帰った時期によってはそうそうゆっくりもしていられなかっただろう。なにせ、家族は3人しかいない。父親の吉太郎(祖父)が裸一貫から買い広げた田畑の季節ごとの耕作を、戦争や終戦にかかわらず続けなければならなかったのだから。

 そうでなくても二夫が出征している間は、老境に差し掛かりつつあった両親が二人で、親族や近隣の手を借りながら田畑をなんとか維持していた。どの家も男手はいつも不足している。二夫の復員は家族にとってはもちろん、集落にとっても願ってもないことだった。

 もちろん、唯一の跡取りが生きて帰ってきたことが「家」にとっていちばん大事なことに間違いはなかった。それも、戦地で負傷したりすることなく五体満足で帰って来たのだ。こんなに喜ばしいことはない。

 だから吉太郎とその妻ハル(祖母)ともに、二夫にはゆっくりさせたい気持ちと、できるだけ早く農作業に加わってほしい気持ちが混在していただろう。戦争中の話を聞きたい気持ちもあったかもしれないが、遠くの飛行学校や軍隊の中のことはよくわからないし、少しぐらい聞いても想像しようもなかっただろう。

 幸い二夫はまだ20歳前の若い盛り。少し休むとすぐに田畑に出られるくらいには回復した。家にいてもすることがないし、もともとが小さな集落、娯楽といえるほどの楽しみもない。そもそもいろいろな物資が欠乏していた。二夫のように志願までして戦争に行かなかった同じ世代の男は家の田畑を手伝っている。二夫が田畑に出るのは自然な流れだった。

 敗戦し、これまで続いてきたさまざまなこと――制度や習慣など――が変わるであろうことも予想できた。なにもかもが「わからない」状態で、ほとんどの庶民は、日々の暮らしを維持することが最優先、数カ月はおろか数週間先のことも考えられなかった。

 農村の集落のこと、どの家も食べるものだけはあり、暮らしぶりも隣近所のつきあいも戦中以前とさほど変わりはなかったから、それほど混乱していたわけでもない。ある意味、吉太郎たちが続けてきた明治時代、あるいはそれ以前からの生活を続けていけばよかった。

 二夫たち一家も食べるぶんには困らない。若い男手があるというだけで重宝がられ、近所の手伝いに呼ばれては、お礼にと家で作っていない作物やちょっとした食品、場合によっては甘いものやタバコなどを渡されたりする。

 軍隊の厳格な規律と上下関係に縛られ、緊張し続けていた10代後半の二夫は、ようやく年齢相応の暮らしに戻ったような気もしていた。父親は相変わらず不愛想だが復員は喜んでくれているようだし、常に自分を気にかけてくれる母親がいる。幼なじみもいるし、集落や地域の人びとは出征前と同じようにつきあってくれる。

 これはこれで、悪くない生活だった。

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