昭和、男もつらかった 134 「嫁」というもの

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、この地で農民としての生涯を82歳で全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 農家の一人息子の二夫は、県立の農芸学校在学中、陸軍少年飛行兵に志願。整備兵としての特攻隊での任務を朝鮮の京城(けいじょう)飛行場で終えた復員後は家業の農業に精を出す。戦後日本経済が回復する中、二夫たちの地域では山を開墾してミカンを植える流れになっていた。働き手を増やすためにも二夫一家は嫁取りを決め、同じ集落のミヨ子(母)を嫁に迎えた。昭和29(1954)年3月のことである。

 吉太郎が独身のときに買った大きな屋敷の、小さい一室が若い夫婦にあてがわれ、四人に増えた一家の生活が始まった。もっとも部屋と言っても納戸で、それぞれの部屋も障子で仕切ってあるだけ。それも昼間は開け放たれているから、寝姿が見えないという程度のものだった。ミヨ子の嫁入り道具のミシンもその部屋の隅に置かれた。

 敗戦を経て新しい法律や制度ができ急激に変わる社会にあっても、中央から遠く離れた農村の、明治生まれの庶民の意識は、そう簡単に切り替わるものではない。

 二夫の父親、つまり舅の吉太郎(祖父)にとって嫁をもらうことは労働力が純増することを意味し、それがいちばんの関心事でもあった。なにぶん親子三人では手に余るほどの田畑があるのだ。労働力は一人でも多い方がいい。

 田畑だけではなく家の中のことも、姑のハル(祖母)を助けてどんどんやってもらわねばならない。明治22(1889)年生れのハルはもう還暦を超えていた。相変わらず勝気でまだまだ元気だが、嫁には、ハルが元気なうちにいろいろなことを覚えてもらわなければ。

 何より嫁は子を産む役割を果たすものだ。生まれる子はその先の世代にも繋がっていくのだから、子ができれば家も先々安泰だ。

 一家に純増した嫁という労働力が、嫁ぎ先の家族に従順につき従う、極論すれば下僕のような存在であることに、明治生まれの吉太郎は何の疑問もなかった。吉太郎が独立して自分の家を持つまで暮らしていた本家の嫁たちはもちろん、自分の母親も、世間で見かける嫁の誰もが、家長や父親、夫につき従い、畑仕事の合間に家事も育児も引き受けていたから、嫁とはそんなものだと吉太郎は信じて疑わなかった。

 嫁に一人の人間としての「格」があり、自身の考えがあるなどとは思いもしなかったのだ。

 それでいて、自身の妻であるハルは必ずしも従順ではなく、吉太郎に黙ってやりくりしたお金で、吉太郎が思いもかけないものを買ったり、子供の学費を工面したりしていた。ただしそれは、吉太郎の家長としての面子を潰さない範囲のことであり、元手もハルが作った野菜や味噌、醤油を売ったものだった。

 日常のお金に関することもまた、ハルのように嫁が「気を利かせて」やりくりするものだと、吉太郎は思っていた。

 ――そんな吉太郎の考えを、二夫は聞かずとも十分に理解していた。というより父親の考えをそのまま受け取っていた、と言っていいかもしれない。二夫親子の名誉のために付け加えると、嫁についてのこんな考え方は当時の農山漁村の「ふつうの」認識でもあった。

《お断り》本項の内容は、吉太郎の生涯を綴った「文字を持たなかった明治」の「79 嫁」に加筆、修正した。

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