文字を持たなかった昭和 二十四(療養)
昭和28(1933)年、佐賀の紡績工場を辞めて郷里の実家へ帰ったミヨ子―わたしの母―にとって、工場勤務で患った結核の治療は最も対応を急がれる問題だった。
帰郷後しばらくは家で静養していたが、家族に感染させるのも怖い。だが結核を診てもらえるような病院は近所になかった。いや、病院そのものが集落はおろか生まれ育った農村地帯はなかった。
そこで隣り町にある病院にかかることにした。郷里の町は南北に長く、実家はどちらかというと南側にあったので、南側の隣り町までは比較的近い。と言っても歩いたら1時間以上はかかるのだが。反対側の北隣の町のほうが大きくて病院も多かったが、交通手段がほとんどない時代、そちら側へ行くのは無理があった。それに南側の隣り町は鹿児島県内でも有名な温泉があり、温泉街はそのまま商店街や繁華街としてもにぎわい、人もモノもお金も集まる場所だった。
その温泉街のちょっと外れに、Y先生が営む個人病院があった。医師はY先生一人の小さな病院だったが、近隣では珍しい瀟洒な建物の中には、清潔に管理された診察室や薬局があった。病室も少なかったけれど、ミヨ子を診察したY先生は入院を勧めた。結核をきちんと治すにはそうしたほうがいい、と。工場勤めで溜めたお金もあったし、ミヨ子は素直に入院することにした。
入院中のミヨ子はひたすら静養した。Y先生も看護婦さんも親切だったし、もともと社交的な性格でもなく、病室でじっとしているのは苦にならなかった。何よりY先生を信頼していた。たまに母親のハツノが見舞いにきてくれて、世間話をするのが楽しみだった。
Y先生の医術と、戦後急速に普及した結核治療薬のおかげで、ミヨ子は見るみる回復していった。もちろん、まだ20代半ばの体力も回復をおおいに後押しした。数か月後、Y先生は胸のレントゲン写真を見て言った(※34)。
「影はきれいに消えてますよ。そろそろ家に帰っていいですよ」
※34 正確な入院期間を確認したいが、本人は記憶しているだろうか。
