文字を持たなかった昭和 二十二(帰郷)

 佐賀での紡績工場勤めを結核のために中断し、ミヨ子は郷里へ帰った。正確な時期は機会をみて本人に確認するつもりだが、わたしが知る限りのエピソードから推測すると昭和28(1933)年のことだ。

 ミヨ子の郷里の駅は国鉄鹿児島本線の小さな駅で、町の中心からは少し外れた位置にあった(いまもそこにある)。自宅まで30分ほどの道のりを、ミヨ子は荷物を持って歩いて帰った。佐賀は大都会というほどではなかったが大きな街で、工場があった辺りは佐賀市街を東西に貫通する道路が作られて「紡績通り」と呼ばれ、人々や貨物を積んだ車が行きかい賑わっていた(現国道264号)(※32)。そんな世界から久しぶりに帰った郷里は、変わらない農村の景色のままだった。

 地元の人々が「鉄道みち」と呼んでいた線路沿いの少し広い道から、田んぼや畑を抜ける細い道へと曲り、こんもりした木立のほうへ短い坂を登っていく。木立の中に実家があるのだ。

 坂を登り始めたとき、向こうからモンペ姿の女性が歩いてきた。
「母ちゃん」
「ミヨ子、お帰り」(※33)
まえもって知らせてあった列車の時間を見計らって、母ハツノが「鉄道みち」を通って迎えに行こうとしていたのだった。

 ハツノは小さい女の子をおぶっていた。ハツノたちが戦後初めて授かった、そして末っ子になるすみ子だった。すみ子は昭和25(1930)年生まれ、長女のミヨ子とは年が二十も離れた妹だった。
 
※32《出典》紡績|企業特集|鈴木商店のあゆみ
※33 鹿児島弁「今やったか」(帰りは)今だったのか、の意。

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