【はじめてのnote】毒親の正体 〜ごく普通の日常を天国化するまで〜 人生後半を軽やかに生きるために #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門 応募作品
こんにちは。はじめまして。
ご訪問いただき、ありがとうございます。
こちらは、noteで初めて発表するために10日間で書き下ろした作品をもとに、加筆・修正を重ねて三部作としてまとめたものです。
アラカンを前に体調を崩し、退職を余儀なくされたワタシが、人生後半のどん底期を試行錯誤しながら乗り越えてきた記録でもあります。
ときには涙を流しながら過去と向き合い、ときには母を「毒親」と定義して距離を置き、自分自身を見つめ直してきました。
そして最終的には、母との和解にたどり着くことができました。
その過程で気づいたことがあります。
人生を苦しくしていたものの正体は、ワタシが思っていたものとは少し違っていたのです。
第一部は、家族三世代と愛猫たちを描いた人間ドラマ風エッセイです。
毒親と和解する過程での、心と周囲の変化を綴っています。
『毒親とダミ声の猫 〜そこにある愛に気づくまで〜』
第二部は、幼少期の幸せだった頃の記憶や、住宅街の中で出会ったカモさんの田んぼを通して、大切なものを見つけていくエッセイです。ワタシの目の前に「毒親」として現れていたものの正体を紐解いています。
『「毒親」の正体 ― 水面に映るもの ― 〜母を毒親だと思っていたワタシが見つけたもの〜』
第三部では、人生後半に訪れたどん底期をどのように乗り越え、ごく普通の日常を「天国化」していったのかをお話ししています。
三部作を通してお読みいただくことで、それぞれの物語の背景やつながりを、より深く感じていただけるよう構成しました。
この三部作に散りばめた「人生天国化」のヒントを、少しでも持ち帰っていただけたら嬉しいです。
毒親の正体
〜ごく普通の日常を天国化するまで〜
人生後半を軽やかに生きるために
きのうち まみ
第一部:エッセイ 『毒親とダミ声の猫』
〜そこにある愛に気づくまで〜
第二部:エッセイ 『毒親の正体』
― 水面に映るもの ― 〜母を毒親だと思っていたワタシが見つけたもの〜
第三部:ごく普通の日常を天国化するまで
1. 母を毒親と思い始めた経緯
ワタシは昔から母を毒親だと思っていたわけではありません。それは、結婚を期に母娘関係が一気に悪化した当時には「毒親」という言葉自体がなかったこともあるでしょう。
しかしそれ以上に、ワタシが母を「毒親」だと思うに至った三度目の大喧嘩をした当時を振り返ったとき思い出すことがあります。その頃はまだまだ心身ともに問題を抱えていたのです。
というのも、ワタシは更年期症状の悪化を理由に二度退職を経験しています。
一度目は、涙が止まらなくなり、疲労状態がピークで、布団から起き上がるのもやっと。とても仕事ができる状況ではありませんでした。
ミスが許されない仕事を一人で背負うという職場から退職し、数ヶ月休んだあと、精神的に少し楽な職場に再就職しました。
完全に体調が良くなったわけではありませんが、子どもの学費のことを考えると、しんどい体に鞭を打ってでも頑張ろうという気力がありました。
しかし、子どもの学費が必要なくなると、仕事への熱量が下がり始め、「しんどい、もう辞めたい」そんなことばかり考えていました。
頑張ろうと思っていた気持ちが「辞めたい」に変わると不思議なもので、仕事を続けることができないような事態となりました。それはまるで、そのときの人生を強制終了させられたような感じです。
強い疲労感。
朝起きても疲れが取れない。
眠れない。
抑うつ気分。
イライラする。
怒りが爆発する。
止まらない不安。
理由なく溢れ出る涙。
更年期の症状がピークに達していました。さらに、追い討ちをかけるようにバルトリン腺膿瘍を発症し、再発を繰り返す。歯茎の炎症にも悩まされました。
一念発起して、食事改善に取り組みましたが、母は冷ややかでした。
母とは違うことに対して、ことごとく否定され、キツイ言葉を浴びせられました。
さらには、薬剤師として働いていないことに対して、「もったいない、もったいない」と責め続けられたのです。
当時のワタシには、重い学費の対価を背負えるほどの体力も気力もありませんでした。
必死に体調を改善しようと努力しているのに、認められることはなく、責められてばかりだと感じていました。
そんなときワタシは、よく耳にしてきた「毒親」について調べ始めました。そして母の言動と重なる部分を見つけるたびに、「やっぱりそうだったのだ」と自分を納得させていきました。
母を毒親だと定義し、距離を置くことで、自分の心を守ることを優先しはじめたのです。
ところが、後になって気づいたことがあります。
母を毒親だと思うことで救われたワタシは、同時に大切なものも見落としていたのです。
2.食事を変えたら心と体が変わった
2-1 体の「炎症」を疑い始めた
まずは、ワタシがどのように食事改善へ取り組んでいったのかをお話ししたいと思います。なぜなら、母娘問題を振り返るうえで、当時のワタシの心身の状態を避けて通ることができないからです。
更年期と不調の波が重なっていた頃、ワタシの体には「炎症」が絶え間なく起きているのではないか、と感じるようになりました。
その決定的なきっかけは、繰り返すバルトリン腺膿瘍でした。
切開して膿を出せば一時的に落ち着く。だけど、すぐにまた腫れる。その繰り返しです。それだけでなく、歯茎まで腫れやすくなり、膿みやすくなる始末。
「なぜ、こんなにも体のあちこちで炎症が起きるのだろう?」
そう自問自答する日々が続きました。
薬剤師として働く中で、食生活と炎症の深い関わりを、知識として知っていました。そこでワタシは、ある仮説を立てました。
もしかすると、長年の食生活や過度のストレスによって、体が慢性的な「酸性化」を招き、炎症を起こしやすい体質になってしまっているのではないか。
もちろん、医学的に厳密に証明されたことではありません。
あくまで、自分の体を通じた感覚に過ぎません。
けれど当時のワタシは、
「このまま不調を繰り返す人生で終わりたくない」
という切実な思いでいっぱいでした。
藁をも掴む気持ちで、食事を根本から見直すことを決意しました。
2-2 食事を徹底的に見直してみた
アーユルベーダーでは、牛肉や豚肉を食べることを推奨しません。鶏肉や卵、魚も少しなら良い。といった考えです。
そんなわけで以前からワタシは、肉をあまり口にしていませんでした。そんなとき、買いすぎたから食べるのを手伝ってほしいと、子どもから鶏肉をもらったのです。
お肉を食べると野菜を食べる量は必然的に減ってしまいます。
抑うつ気分でご飯を作る気力も、あまりありませんでした。そういった悪循環の中で鶏肉を食べると、決まってバルトリン腺が腫れ出し再発を繰り返していたのです。
何度も繰り返すバルトリン腺膿瘍。「とにかく、あのシコリを消したい。もう繰り返したくない」その一心でした。
そこでワタシは、「体を酸性化しやすい」と言われる食品を、
できる限りやめてみることにしたのです。
まずやめたのは、肉、魚、卵、小麦、砂糖、植物油(過酸化脂質)。
さらに、乳製品と刺激が強いとされる“五葷(ごくん)”と呼ばれるものも控えるようになりました。
五葷とは、諸説ありますが、
ネギ、玉ねぎ、ニラ、ニンニク、らっきょうなど。
ノビルが含まれることもあります。
加えて、トマトやナスの陰性野菜、いちごにさつまいも、とうもろこし、人参やグリーンピースも控えるようになりました。
体を冷やすものから、甘みの強いもの、アーユルベーダで体質的に合わないとされていたものまで、ワタシの体にマイナスに働く可能性のあるものを徹底的に食事から排除しました。
ここでもまた、今までワタシを困らせてきた完璧主義が幅を利かせました。だけど、一概に完璧主義を悪者扱いするわけにはいきません。徹底的な食事改善のおかげで少しずつ良くなっていったからです。
正直に言えば、想像以上に辛い道のりでした。
何より辛かったのは、食事制限が自分の楽しみを奪っていったことです。
家族と食卓を囲むときも、自分だけが別メニューだったり、外食に誘われても「食べられるものがない」と断らざるを得なかったり。楽しみにしていた甥っ子の結婚式にも出席できませんでした。
「食べることは、人生の楽しみだったのに」
そんな孤独感や、せっかくの団欒を純粋に楽しめない寂しさが、時折ワタシを襲いました。周囲に合わせられず、自分だけが浮いているような疎外感。
母からは「おかしい」と責められる。
それでも、「最悪の体調を改善できるのは、この選択しかない」「バルトリン腺膿瘍を繰り返す人生はもう嫌だ」という強い思いだけが、ワタシを支えていました。
2-3 三か月でシコリが消えた
孤独な食生活を続けながら、最初の頃は、これといった変化を感じることはありませんでした。ですが、本当に少しずつ体が変わり始めていきました。
一か月ほど経った頃には、あれほど悩まされていたバルトリン腺膿瘍のシコリが、以前よりも柔らかく小さくなりはじめました。
そして最後に残っていた小さなシコリも、三か月が経った頃には跡形もなく消え去ったのです。
その後、約一年をかけて、様子を見ながら少しずつ食べられるものを増やしていきました。今はもう、当時ほど厳しく制限することはありません。少量のお菓子を楽しんだり、五葷や魚を味うこともでき、友人と食事を楽しんだり、旅行に行けるまでに回復することができました。
けれど今でも、ワタシの場合は、鶏肉やパンを食べる量が増えると、小さなシコリとして再発することがあります。薄力粉なら大丈夫でも、グルテンの多い強力粉を使ったパンだとダメ。甘いものを食べる量が増えると、歯茎が痛くなる……。
そんな敏感体質のワタシには、必ず避けているものがありました。
2-4 敏感体質のワタシが避けているもの
同じものを食べても、人によって反応は千差万別。あくまで自分自身の体感ですが、特定の食品を口にすると、心と体の状態が目に見えて変化することに気づきました。
特に強く感じたのが、化学調味料の反応でした。
これを口にすると、自分でも驚くほど怒りっぽくなってしまうのです。イライラが止まらず、怒りを我慢することができない。まるで別人に支配されたかのように、感情が爆発してしまうことがありました。
子どもからも「化学調味料を食べると、目が座るよ」と言われるほどです。
怒ることは、ものすごくエネルギーを消耗します。怒った後の自己嫌悪も、心に重くのしかかりました。
ただでさえ更年期の抑うつ気分や、込み上げる怒りに悩まされていたのです。「これ以上自分の感情を、不要なもので乱されたくない」と切実に思うようになりました。
そんなワタシの変化を一番近くで見ていた子どもは、外食の際のお店選びにもとても協力的でした。
また、意外だったのが「キノコ類」の反応です。
以前、アーユルヴェーダの本で「神経過敏になりやすい人はキノコを控えたほうがよい場合がある」という一節を読みました。
最初は半信半疑でしたが、実際に試してみると、キノコを食べた後にイライラや怒りが増す感覚が自分の中にもありました。
大量の椎茸が入った鍋を囲んだ後、母と取っ組み合いの大喧嘩になったこともあります。もちろん、ワタシ自身は椎茸を食べていませんでした。椎茸の旨味が溶け出したスープを口にしていたため、当時はそれが影響したのではないかと感じました。
さらに医薬品やサプリでお馴染みの「ビール酵母」も神経過敏を起こしやすい可能性がありました。
パートナーやパートナーの友人までもが、同じように怒りっぽくなることがあり、レビュー等を見ても同様の体験談があるのを目にして、体質によって反応する人が少なからずいるようでした。
さらに、農薬の影響と思われる反応も顕著でした。農薬の使用量が多い可能性がある食材を食べると、決まって鼻炎が悪化したり、全身の痒みが強くなったりするのです。
また、野菜を食べる量が減ると、お肌はザラザラになり、野菜を食べる量が増えれば、お肌がツルツル、スベスベしてきます。
こうした経験を重ねるうちに、確信が強まりました。
「食べ物は、単なる栄養分ではなく、体はもちろんのこと、心や感情まで形作っているのだ」と。
もちろん、これらの反応は誰にでも当てはまるものではありません。
けれど、少なくとも当時のワタシにとって、食べ物は心の穏やかさを左右する大きな鍵でした。
毎日口にするものが、ダイレクトに体を変えていく経験はアーユルベーダーが提唱している考えとも一致していました。
自分の体が教えてくれる小さなサインを無視せず、自分に合うものを選んでいくこと。それが自分を守るために選んだ「境界線」でした。
2-5 健康食ジプシーだったワタシ
薬剤師という職業柄もあったのか、ワタシは昔から「健康になるための食事」に人一倍強い興味を持っていました。
本を読み漁り、最新の健康情報を調べ、サプリメントを並べるのが好きでした。世の中で「体に良い」と言われるものは、とにかく何でも試さずにはいられなかったのです。
朝は食べない方がいいと聞けば実行し、スムージーがいいと言われればミキサーを回す。タンパク質が重要だと聞けばプロテインを摂り、糖質制限が流行ればご飯を抜く。
その時々で「これが正解だ」と信じるものに飛びつき、次から次へと健康法を渡り歩く、まさに"健康食ジプシー"でした。もちろん、サプリメントも常用していました。
更年期の症状をどうにかしたくて、産婦人科で女性ホルモンの薬を処方してもらったこともあります。けれど、副作用が強く出てしまい、続けることができませんでした。
話題のエクオールも試しました。多少の効果は実感したものの、抱えていた抑うつ気分を完全に晴らしてくれるまでには至りません。
さらに、美容や更年期に良いとされるプラセンタを飲んだときには、逆に抑うつ気分が悪化してしまったこともありました。
不思議に思って調べてみると、どうやら脳内で作られるセロトニンの原料を脳内に届けにくくしていた可能性があったようです。「ワタシの体には合わなかったのだ」と痛感しました。
アミノ酸系のサプリメントでも似たような反応があり、世間で絶賛されているものでも、ワタシの体には合わないものがある、という事実を突きつけられたのです。
今振り返ると、
「何かが救ってくれる」
「これさえ飲めば、もっと元気になれる」
そうやって外側に答えを求め続けていました。
けれど、更年期に極度に悪化した体調不良は、どんな健康法も、どんな高級なサプリメントも、同じようには改善してくれませんでした。
2-6 ポタージュスープが教えてくれたこと
ポタージュスープを作り始めたきっかけは、当時話題になっていたスープメーカーを使ってみたいという、単純な好奇心でした。
そこに、体調を心配してくれた友人からの「スープなら体に優しそうじゃない?」という言葉が背中を押してくれました。
それ以来、ワタシは畑で採れた野菜や食べられる草を使って、毎日のようにスープを作るようになりました。しばらく飲み続けていると不思議なことに、体の軽さを感じるようになっていたのです。
その時ふと思い出したのが、アーユルヴェーダの考え方でした。
「しっかり火を通して調理されたものは消化吸収が良く、健康維持に欠かせない」
当時は、生野菜や話題の健康食品ばかりに意識が向いていました。
でも、弱っていた当時の体にとって本当に必要だったのは、栄養の「量」や「種類」ではなく、何よりも「消化吸収のしやすさ」だったのかもしれません。
当時のワタシは歯の状態が悪く、食べ物を上手に噛むことができなくなっていました。「しっかり噛めない」ということで、栄養をきちんと体内に取り込めていなかったのでしょう。
ポタージュスープは野菜をしっかり煮込み、細かく粉砕しています。
噛む力が弱まる人生後半の体にとっても負担が少なく、消化吸収にこれ以上ないほど適していました。「何を食べるか」という選択も大切ですが、
それ以上に「ちゃんと消化吸収できるか」こそが、人生後半の体調維持には欠かせないのだと、身をもって知ったのです。
温かくて、体にスッと染み渡るポタージュスープ。
それは単なる食事ではなく、ボロボロになっていたワタシの体と心を、毎日優しく抱きしめてくれる「栄養の源」のような存在でした。
2-7 大豆丸ごと豆乳の効果
食事を見直す中で、特に強く体調の変化を感じたものの一つが、「大豆丸ごと豆乳」でした。
作り方はとてもシンプルです。
乾燥大豆を一晩浸水させ、20分ほど丁寧に煮たあと、あら熱をとり、そのままミキサーに5〜6分かけて仕上げます。スープメーカーによっては「大豆丸ごと豆乳」を作ることのできる機種もあります。
一般的な豆乳とは違い、大豆の皮や繊維まで丸ごといただくことができ、オカラを分離する必要がない手軽さも魅力でした。
最初は、「材料を厳選した手作り豆乳を飲みたい」そんな気持ちで始めた習慣。しかし飲み続けるうちに、自分の心の状態が少しずつ変わっていくのを感じ始めました。
豆腐や市販の豆乳は、以前から日常的に摂っていました。
けれど、この「大豆を丸ごと摂る」というスタイルでは、体感が明らかに違ったのです。
特に効果があったのは、喉におもりがぶら下がっているような抑うつ気分が、次第に軽くなっていったこと。
今思えば、それは大豆に含まれるイソフラボンが、当時のワタシの体に欠かせない栄養素として、働いてくれたのでしょう。
体内でイソフラボンからエクオールを作りだす能力は、個人差があるそうです。以前Web経由で検査をしたとき、その能力は中程度でした。
大豆を丸ごと摂ることで、ようやくワタシにとって「ちょうどいいバランス」が保てるようになったようです。もちろんこれは、あくまでも個人的な見解です。
それでも、「大豆丸ごと豆乳」を毎日飲むことで、抑うつ気分を感じることが明らかに減っていきました。逆に飲む量が減ると、喉に違和感を感じ始めます。体は本当に正直でした。
そのような経緯から、手作りの豆乳をゆっくりと味わう時間は、欠かせない毎日の健康習慣となっています。黒大豆にほんの少し小豆を加えて作った丸ごと豆乳に、砂糖以外の甘みを加えて飲むのが定番になっています。
2-8 健康を維持するための大切な教え
ポタージュスープを飲み、大豆丸ごと豆乳を作り、自分の体に合う食事を一つずつ見つけていくうちに、心と体は、ゆっくりと、しかし確実に変っていきました。
退職当時は、喉におもりのような塊がいつも居座っていて、低空飛行のような心が、どうしても浮上できないからと、静かにワタシを動けなくさせていました。ご飯を作ることも、お風呂に入ることも、洗濯をすることも、掃除をすることも、何もかもしんどくてたまらない。
気晴らしに畑に行っても、喉のおもりが取れることはなく、何もできないまま帰宅する日々。
自分をいたわり、食事を見直す過程で、少しずつそのおもりは軽くなっていきました。
それでも完全に心の霧が晴れるということはなく、低値安定した心に、どこか重苦しさを感じていました。
「この喉のおもりは、どうすれば完全に取ることができるのか」
「どうすれば、退職前に元気だった頃のような、やる気と明るさを取り戻せるのだろう」
と、答えを探し続けていました。
そう、「ポタージュスープ」と「大豆丸ごと豆乳」は、大きな転機となりました。
必要な栄養素をしっかり調理して体に届ける。
これはアーユルベーダの基本的な考えです。知識としては知っていたものの、心と体が壊れるまで、その大切さに気づくことができませんでした。
昔から「よく噛んで食べなさい」という教えがあることは、誰もが知っているはずです。
だけど、体調を崩す前の、忙しく時間に追われるような生活では、そんな当たり前で大切なことでさえも、おろそかにしていました。
いつも自分を追い立てるように流れていく時間の中で、よく噛んでゆっくり食事をすることが、まるで時間を浪費するだけの、ただの古い教えのようにさえ感じていたのです。
「よく噛んで食べる」という最も基本的な健康手法を、まるで他人事のようにスルーしていました。
心身の絶不調を経験し、食事によって回復してきた過程をふりかえって思うことがあります。
それは、アーユルベーダーの基本的な考えや、「よく噛んで食べる」という昔からの教えは、健康維持に欠かせない大切な栄養素を体に届けるための知恵だったということです。
そこを、おろそかにしてきたワタシ。
退職に追いやられるまで疲弊し、心身がボロボロになってはじめて、健康維持に最も大切なことを理解できました。
「ポタージュスープ」と「大豆丸ごと豆乳」
滋養に満ちた栄養を、しっかり体に届けることで、居座り続けていた喉のおもりをようやく外すことができたのです。
2-9 食べものは心にも影響した
こうして振り返ると、ワタシの体調不良の改善は、単なる「健康法」の実践ではありませんでした。
「食べものを変えることは、自分自身の心のあり方を変えること」でもあったのです。
特に大きかったのは、無農薬のものや、畑で自然に育ったものをつとめて口にするようになってからの変化でした。
家庭菜園を通して土に触れ、野菜を育て、自然の生命力を感じながら暮らすようになったことで、ただ「健康になる」という以上に、心そのものが、
深く満たされていくような感覚がありました。
自分の手で育てた野菜や、自然に近いものを食べるようになってから、理由のない幸福感を感じる時間が、少しずつ増えていきました。
ふとした瞬間に「幸せだなぁ」と、ごく普通の日常の中で、自然に言葉がこぼれるようになったのです。
以前、ある知人から「無農薬のもの食べようと心がけてから、喜びや美しさを感じやすくなった」と聞いたことがあります。当時は「そんなこともあるのね」と、聞き流していましたが、今はまさにその感覚を体感しています。
もちろん、すべてを完璧に無農薬で揃えることはできません。外食もしますし、市販のものを楽しむこともあります。でも「できる範囲で、自然に近いものを選ぶ」それだけでも、心と体は少しずつ確実に変わっていく。そう実感しています。
食べものは、単なる栄養の塊ではなく、体を作り、感情を作り、思考を作り、人生に流れる空気感までも変えていくものだった。
長らく苦しんだ体調不良をきっかけに、自分を慈しむように選んだ食卓によって、体だけでなく心まで整えることができたのです。
3.お金の流れを整える
体調を崩して退職したあと、まず徹底的に取り組んだこと。それは「お金の流れを整えること」でした。働いているときは、毎月決まった給料が入るのが当たり前です。
しかし、その「当たり前」が消えた瞬間、「このままで生きていけるのだろうか」と底知れぬ不安に駆られました。貯金を切り崩していく未来を想像してしまうからです。
「また働けばいい」という選択肢もあります。けれど当時は、心も体も限界でした。人と関わることすら重荷で、責任を背負うのも苦しい。「もう以前のように働くことは絶対に無理だ」と感じていました。
ありがたいことに、しばらくは公的支援にも助けられました。しかし、支援には期限があります。「この先どうやって暮らしていけばいいのだろう」その問いは、常に心の奥で鳴り響いていました。
今振り返れば、元気なうちから「お金や投資の仕組み」について学び始めていたことが、とても良かったと思います。当時は「お金が増えたら嬉しいな」という期待も込めた軽い気持ちでしたが、収入が途絶えた時、その学びが心を支える大きな基盤となりました。
まず着手したのは、支出の徹底的な見直しです。不要なものは手放し、固定費を削り、本当に必要なものだけを残す。思い切って車も手放しました。
自転車をこぐときの爽快感。心地よい風に癒されながら移りゆく季節の風景を楽しむ。「運動不足解消のためにも、自転車に乗りたい」と思うようになってからは、「車に乗ることで健康維持を妨げたくない」とまで思うようになりました。
その一方で、「毎月安定して入ってくるお金の流れ」を整えることに力を注ぎました。投資信託の銘柄を選び、小さな金額から始め、毎月分配金が入る仕組みを少しずつ育てていったのです。
毎月定期的に入ってくる分配金が、一般的な主婦のパート収入と同じくらいまでに育ったとき、どれほどの安らぎを与えてくれたことでしょう。
元気でいるうちは「もっと稼がなければ」と数字を追いかけることもできます。でも、体調を崩した経験のあとに大切にしたいのは、たくさん稼ぐことではなく、心穏やかに暮らせる流れを作ることです。
支出を見直し、お金の流れを整えることで、安定した収入だけでなく「これでもう大丈夫」という確かな安心感を手に入れることができました。
4.畑と地域猫さんに癒される
四年前、実家の家庭菜園を手伝ったことがきっかけで、無性に「自分の畑が欲しい」と思うようになりました。「思い立ったが吉日」という言葉の通り、ほどなくして家庭菜園ができそうな土地と巡り合いました。
市街地の中にありながら、手の届く価格で購入できたその土地は、アカメガシワの林と、背丈ほどもある草に覆い尽くされた、まるでジャングルのような場所でした。最初はとても畑には見えませんでしたが、少しずつ自力で開墾を始めました。
仕事をしているときは、休みになると畑に通い開墾作業に精を出しました。退職後は、現場に立っていた頃の責任や緊張感から解放されたとはいえ、心身ともに疲れ切っていた時期です。時間だけはあっても心は重く、なかなか作業ははかどりませんでした。
そんな頃、ワタシを支えてくれたのが、畑にやってきてくれる地域猫さんたちでした。長年連れ添った愛猫たちの旅立ちを見送り、自分自身の体力的な限界も感じていたため、「もう自宅で猫を飼うのは難しい」と諦めていました。その後、二十年ともに過ごした愛亀も、泣く泣く里親さんへ託すことに。
あるとき、ふと思い立って畑に猫用のエサを置いてみたのです。すると、地域猫さんたちが一匹、また一匹と集まってくるようになりました。
「猫さんたちにごはんをあげなきゃ」その小さな使命感が毎日畑へと駆り立てる原動力になりました。
懐いた黒ちゃんが足元にすり寄ってきてくれたり、「ごはんちょうだい」と大きな声で鳴きながら駆け寄ってきてくれるみーちゃん。他にも、警戒心はまだまだ強いけれど、いろんな表情を見せてくれる地域猫さんたちを見ては、幸せを感じる日々。
猫さんたちと過ごす時間が増えるにつれ、心と体も少しずつ元気を取り戻していきました。
それはポタージュスープや大豆丸ごと豆乳で栄養を整えていた時期とも重なり、気力と体力が徐々に底上げされていったのです。
力が戻ってくると、開墾も驚くほど進みました。作付けできる面積が広がり、果樹の種類も増えていきました。畑の隅にあった富有柿とザクロ、まっ先に植えておいたイチジクと柑橘類。
比較的育てやすいとされているブラックベリー、ブルーベリー、ジャンボサルナシを新たに植えることができました。ベランダのプランターから畑へ移植した苺も実るようになりました。
近年の猛暑を避けるため、アカメガシワの木陰も一部残しました。その木漏れ日の下だけ、野苺が瑞々しく実りました。簡単に育つ菊芋を新たに植え、食べられる草をあえて残すことで、次第に「採取できる畑」へと形を変えていきました。
こぼれ種から芽を出した紫蘇、カラシナ、たんぽぽ、アカザ。もともとあったミョウガ。それらを無心で採取している時間は、何にも代えがたい深い癒しのひとときです。
自然農への憧れはあっても、まだまだハードルは高く感じます。けれど、無理のない形で自然に寄り添う暮らしは、何よりの幸せです。
最近は、植物たちにも「ありがとう」「がんばって育ってね」と声をかけるようになりました。すると植物たちもより一層、元気に答えてくれるような気がするのです。
虫がついても知らん顔していた柑橘類さんたちにも「ごめんね、ごめんね」と声をかけるようになりました。今年は偶然かも知れませんが、はじめて枝いっぱいに花を咲かせてくれました。
有名なジブリ映画「天空の城ラピュタ」の名セリフ。
「土から離れては生きていけないのよ」
この言葉をはじめて聞いた当時は、素直に受け入れられませんでした。仕事や時間、完璧主義な性格までもが自分を追いつめ、土と共にある生活なんて考えられなかったのです。
土に触れ、自然を愛でながら地域猫さんたちとふれあう。そんな日々の中でワタシは、土と共にある暮らしの豊さを少しずつ知っていったのです。
5.「ありがたい」で難を祓う
体調不良、更年期、将来への不安、お金の悩み、そして母娘問題。振り返れば、ワタシの人生にはさまざまな出来事がありました。
問題が起きるたびに、頭の中で負の感情をループさせ、自分自身を追い込んでいました。イライラを増幅させ、鏡に向かって怒りをぶちまけるほどでした。
そんな悪循環から、どうしても抜け出せずにいたある日、本の中で見つけた言葉が心にとまりました。
それは、「ありがたい」という言葉。
「とにかく、このコトダマを使ってみたい」そんな衝動があったのです。
良い出来事があれば自然と口から出る「ありがたい」という言葉。それを、あえて「感謝しづらい出来事」に対しても使ってみることにしたのです。
嬉しいときも、苦しいときも。
晴れやかなときも、涙が止まらないときも。
家族が深刻な病状のときも。
とにかく、
「ありがたい」
「ありがたい」
「ありがたい」
と口に出してみる。
言霊という言葉の通り、コトダマには魂のようなエネルギーが宿り、現実に影響を及ぼすのではないか。そう感じていたからです。
心の中では到底そう思えなくても、口から出す言葉だけは必ず「ありがたい」にする。そんな自分ルールを課しました。
最初は、無理やり言い聞かせているような感覚でした。それでも言い続けていくと、「ありがたい」という言葉のエネルギーが、自分の中に少しずつ蓄積されていくような感覚がありました。
「ありがたい」という言葉は、「有り難い」と書きます。
「有ることが難しい」そんな意味なのだと、ふと思いました。
それからは「ありがたい」と感謝を積み重ねることは、降りかかる"難"そのものを、自らの言葉で祓っているのと同じことなのだ、と思うようになったのです。
そうすると、嫌な出来事に対しても、自然と「ありがたい」という言葉が浮かぶようになりました。難を祓うために言いはじめた「ありがたい」でしたが、気がつけば無理やり自分を納得させるのではなく、どんな出来事も別の角度から受け取るには……。と考えられるようになっていったのです。
物事の受け取り方が変わるだけで、人生の空気感は驚くほど軽くなるような感覚すらありました。
人生で一番苦しいときに、自分自身にかけ続けた「ありがたい」という言葉。
まるで"おまじない"のようなコトダマが、思考の癖を見直すきっかけになりました。
6.思考と言葉を整える
「ありがたい」という言葉を使い続けるようになってから、「思考と言葉」の大切さを深く意識するようになりました。
かつてのワタシは、頭の中でいつも自分を責めていました。
「自分はダメだ」
「怠けてはならない」
「もっとできるはず」
「まだまだだ」
無意識のうちに、そんな否定的な言葉を何度も自分自身に投げかけ、自らを苦しめていたのです。後にワタシは自分に浴びせる負の言葉が、まるで呪いのように自分を苦しめていたのだと気づきました。
少しでも思い通りにいかないと自分を責め、周囲にも厳しく完璧主義の斧を振りかざす。そして、そんな自分にまた落ち込む……。どうしてもこの苦しいループから抜け出せない。
しかし、食事を見直し、自然に触れ、「ありがたい」という言葉を口にするようになってから、ワタシが自分に向ける言葉は、少しずつ優しく変わっていきました。
そして自分にかけていた言葉で、自分を呪っていたことに気づいてからは、つとめて負の言葉を良い言葉に変換するようにしました。
かつてなら「ワタシなんてダメだ」と自分を否定していた場面でも、「今日はよく頑張った」「えらいぞ裕子」と言ってみる。
完璧にできない自分を責める代わりに、「できなくてもいいんだよ」と言い聞かせる。
嫌な出来事が起きても「最悪だ」ではなく、「逆にラッキー、幸運の前ぶれだ」と、別の角度から受け止める。
最初はそれも、練習に近い無理やりな作業でした。
けれど言葉を変えることで、不思議と思考の回路も少しずつ書き換えられていったのです。
若い頃から「思考は現実化する」という言葉を知っていました。
最近では、口にした言葉や思考が、以前よりもずっと速いスピードで現実になっているような感覚を抱いています。
「もし、思考や言葉が現実を形づくっているのだとしたら」
「もし、自分が発する言葉が未来に影響しているのだとしたら」
そんなひらめきが、心に灯りました。それなら、意識的に「心地よい思考」と「前向きな言葉」を選び、自分の内側を澄み切ったもので満たしておこう。そう決めたのです。
もちろん、今でも嫌なことや苦しいことは起こります。けれど、そこで思考を止めず、不安を増幅させるのではなく「どうすれば、これをポジティブな経験として受け取れるだろうか」と探してみる。
どのように語れば、起きて欲しい現実をいい表わせるだろうかと言葉を探す。
その小さな工夫を重ねていくうちに、心は驚くほど穏やかさを取り戻しました。
大きな苦しみを、もがきながら潜り抜けてきたからこそ、「もう二度と、あの頃の自分には戻りたくない」という切実な願いがあります。
だからこそ、選び取りたいのです。自分を苦しめる言葉ではなく、自分を軽くしてくれる思考と言葉を。
人生後半になってようやく気づきました。
幸せな人生とは、何か特別な成功を手に入れることではなく、自分の心の中を安心できる言葉でいっぱいに満たしてあげることなのだと。
その一つひとつの積み重ねこそが、より良い未来を創造する唯一の鍵になると確信しています。
その小さな鍵を使って
一枚、また一枚。
幸せな人生への扉を開いていく。
人生後半の天国化とは、そんな小さな積み重ねなのかも知れません。
7.最後に残った母娘問題
食事を見直し、お金を整え、自然に触れる暮らしを重ねるうちに、人生は少しずつ穏やかさを取り戻していきました。体調も改善し、抑うつ気分もほぼ消え、毎日が以前よりずっと生きやすくなっていたのです。
しかし、そんな中でも、どうしても最後まで消えない苦しみがありました。それが、母娘問題でした。
ワタシは長い間、母に対して拭えないモヤモヤを抱えていました。
「どうしてわかってくれないんだろう」
「どうしてあんな言い方をするんだろう」
思い出すたびに胸の奥が痛み、苦しくなる。
そして、自分が自分にかけていた否定的な言葉を、呪だったと思うようになってからは、母から向けられる否定的な言葉が、同じように呪いのように感じられたのです。
「もうやめて」と叫びたいような衝動が心の奥から湧き上がってきました。
そんな母を「毒親」という言葉で定義することでしか、心の安定が得られない時期もありました。
どれだけ感謝を意識しても、前向きに考えようとしても、母に対するわだかまりだけは、頑なに心の中に居座り続けていたのです。
「どうしたら、この苦しみを終わらせることができるのだろう」
必死に母娘問題に関する本や動画、心理学の知識を探究しました。
そんなある時、ふとしたひらめきがありました。
もしかすると幼少期の兄弟関係と、怒りっぽさには、何か深い繋がりがあるのではないか。
そう思って兄弟関係の影響を調べてみたとき、こんな内容に出会いました。
・兄がいる長女は、比較されたり長女らしさを求められることで親への不満を溜め込みがち
・妹ばかり可愛がられた愛情不足や妹と母の密着関係への嫉妬・疎外感から反抗しやすい
・私だけが我慢の蓄積がある
・大人になってからの反抗は「これ以上母の思い通りにはならない」「自分を守る」自立のサイン
このときはじめて、子どもの頃から抱えてきた苦しみの正体が見えた気がしました。その対策としては、次のようなことが書かれてありました
・自分自身のケアを優先する
・親への期待を捨てる
・物理的な距離をとる
これを読んだとき、幼い頃から忘れられない悲しい出来事を思い出しました。
それは一番幸せだった海辺の街の記憶の中でただ一つ、心の傷として残っているものです。
それは休日の朝、家族5人が川の字になって寝る部屋に兄弟三人が寝ていた。兄と妹の名前を呼ぶ母の声が聞こえた。名前を呼ばれなかったワタシは、布団から出ていくことができなかった。
母が名前を呼んでくれるのを待った。ワタシが起きてこないことに気づけば、呼んでもらえると思ったから。
しかし、なかなか名前を呼んではもらえなかった。仕方なくワタシは、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま起きていった。そこには、母と兄と妹が楽しそうにちゃぶ台を囲んでいる姿があった。何事もなかったようにワタシはちゃぶ台の前に座った。
「なぜあのとき母はワタシの名前を呼んでくれなかったのだろう」
「ワタシは母に憎まれていたのだろうか」
そんなことを考えれば考えるほど、苦しみは増し、幼少期の消えない傷の一つとして心に残り続けました。
その後こんな言葉を耳にしました。
上の子かわいくない症候群
これは絶対に認めたくない言葉でした。しかし、周囲を見渡せば、似たようなケースがあることに気づきました。
それから、たまたま見たyoutubeで耳にしたこと。
長女はお父さんに似る。次女はお母さんに似る。だから次女と母は仲がいい。
確かにそうだった。
さまざまな心理を学び、子どもの頃から抱えていた心の闇の原因を知ることで、親を理解し自分自身を慰めました。
「本当は愛されたかった」という、その小さな声をうまく言葉にできないまま大人になっていたのでしょう。
自分の苦しみの正体に気づいたとき、母への見方は少しずつ変わり始めました。
その後に水晶の浄化によって母と和解に至ったことは、第一部と第二部のエッセイに書いたとおりです。
人生後半になって、深く感じることがあります。
本当に苦しい問題ほど、外側を変えようとする前に、自分の心の奥底を見つめる必要があるのだと。
母娘問題という一番深い闇を通してワタシは学びました。
「外側の世界を変えたければ、まず自分の内側を整えること」
その教訓こそが、ワタシの人生後半を軽やかに変えていくための、最後の鍵だったのです。
8.天国化する人間関係
母娘問題が自分の中で静かに解決したとき、ひとつの真理が大きく腑に落ちました。
それは、「目の前に現れる人は、自分の心を映し出す鏡である」ということ。このことは第二部のエッセイでも触れました。
以前のワタシは、人間関係の中で傷ついたり、イライラしたり、嫌な思いをすることが絶えませんでした。
「なぜこんな言い方をされなければならないの?」
「あの態度は何?」
と、相手を責める気持ちを心の底にいつも抱えていたのです。
しかし、自分自身の思考や言葉を見つめ直すプロセスを経て、ある事実に気がつきました。
「ワタシが相手に向けていた疑心や反発が、形を変えて相手から返ってきていたのかもしれない」
と。
すべてを単純に説明できるわけではありません。
けれど、自分の心の中が荒れているときは、なぜか人間関係もギクシャクしがちです。
逆に、心が穏やかなときは、周囲との関係も不思議とスムーズになる。そんな体験を何度も重ねました。
それ以来、できる限り自分の思考をクリーニングし、意識的に心地よい言葉を使うよう努めています。
「ありがたい」
「大丈夫」
「嬉しい」
「助かる」
「いいね」
「頑張ってるね」
「大丈夫な未来しかない」
こうした温かな言葉を、意識して自分の日常に増やしていったのです。
すると、パートナーとの関係も、親族との距離感も、以前よりずっと風通しが良くなっていきました。
不思議なことに、以前は母親のようにトゲのある言葉を投げかけられていたご近所さんからも、今では優しい言葉や温かい気遣いをいただけるようになったのです。
相手を無理に変えようとしたのではありません。ワタシ自身の内側が変わったことで、目の前の景色そのものが優しく書きかわっていった。
――そんな感覚でした。
今では、人生とは「自分が主人公の映画」のようなものだと感じています。そこには家族や友人のような主要キャストがいて、日々すれ違う無数の人々が、物語を彩るエキストラとして存在している。
そう思うと、今日すれ違った人も、レジの店員さんも、ご近所さんも、みんなワタシの人生という映画を支えてくれている大切な存在なのだと、愛おしさがこみ上げてきます。
だから最近は、心の中で「存在してくれて、ありがとう」と感謝することができるようになりました。
人生後半になって、ようやく確信したことがあります。
幸せな人間関係とは、誰かを思い通りにコントロールすることではない。
まずは自分自身の心の空気を整え、自分を慈しむことから始まる。
自分の心が穏やかになるほど、
目の前の世界も少しずつ「天国」に近づいていく。
今のワタシは、そんな優しい世界の広がりを信じて、穏やかな日々を重ねています。
9.ごく普通の日常こそ幸せ
若い頃は、いつも「もっと幸せになりたい」と願い、渇望していました。
お金があれば、認められれば、もっと自由になれればきっと幸せになれる。そう思い込んでいたのです。
けれど、人生後半に入り体調を崩し、働けなくなり、さまざまな苦しみを経験したことで「幸せの基準」は少しずつ、けれど劇的に変わっていきました。
朝の目覚めがいいこと。
ご飯がおいしいこと。
穏やかな気持ちで眠りにつけること。
夜ぐっすり眠れること。
家族の笑顔を見れること。
畑で草を摘み、猫たちがそばに寄ってきてくれること。
そんな、かつての自分なら見過ごしていたはずの日常こそが、本当は最も尊いものだったのだと、今は心からそう感じています。
以前のワタシは「何かを足さなければ幸せになれない」と信じていました。
でも実際は、人生後半に必要だったのは「足すこと」ではなく、「軽くすること」だったのです。
無理を減らす。
我慢を減らす。
不安を減らす。
自分を責めることを減らす。
そして、その空いた場所に、心と体が喜ぶものを少しずつ増やしていく。
そうして一つずつ荷物を下ろしていくうちに、気づけば心は以前よりずっと軽くなっていました。
もちろん、人生から悩みが完全になくなったわけではありません。年齢とともに体力も変わり、将来への不安がゼロになることもないでしょう。
けれど今のワタシは、以前よりずっと幸せだと断言できます。
なぜなら、「今、ここにある幸せ」を、自分自身で感じ取れるようになったからです。
若い頃は、成功すれば幸せになれると思っていました。
けれど今は違います。
幸せになるために成功するのではなく、幸せな毎日を積み重ねた先に、ワタシだけの成功があるのだと思うようになったのです。
ごく普通の日常を、穏やかな気持ちで過ごせること。
それこそが、人生後半のワタシにとって何よりの幸せになりました。
振り返れば、体調不良も、苦しかった人間関係も、将来への不安も――。
ごく普通の日常に幸せを見つけられるまでの、通過点だったのかもしれません。
人生後半は、若い頃のように無理をして走り続ける時期ではなく、自分にとって本当に心地よいものを選びながら、軽やかに歩んでいく時期なのです。
その先にあったのは、決して特別ではないけれど、温かくて穏やかな毎日でした。そんな「ごく普通の日常」の中で、「ありがたいなぁ」と小さく呟きながら生きています。
人生天国化とは、どこか遠くの特別な世界へ行くことではありません。
「今ここにある日常」を、「ありがたい」と思える心を育てていくこと。
それが、ワタシにとっての「人生天国化」なのです。
10. 未来はまるっと美しい
もし今、何か新しい物語を始めるとしたら、どんな名前がいいかしら。
そんなことを想像して遊んでいたとき、
「みらいのわ」
という言葉とイメージがふわりと浮かびました。
未来の「輪」。
未来の「和」。
まあるくて、
やさしくて、
満ちていて、
穏やかで、
和やかで、
平和な世界。
すべてのものは循環していて、未来はまさしく
「まるっと美しい」
そんな未来を皆さんと一緒に創造できたら――。
そんな願いを込めています。
人は、なんのために生まれてきたのでしょう。
何をしたくて、この地球という星にやってきたのだろう。
長い間、その答えを探し求めてきました。
思考と言葉を整えながら歩んできた今、ひとつの答えのようなものが心に浮かんでいます。
もし「人は源から生まれ、源へ還っていく」ということが真実なら。
ワタシたちは、源にあるエネルギーに同調していくための旅を、地球人として体験するために生まれてきたのかもしれません。
源にあるのは、愛と喜び。
それは「大歓喜」とも表現されますが、今感じているのは、単なる高揚感ではありません。
それは、どこまでも静かな喜びの波が、
ゆっくりと、
しかしどこまでも大きく広がっていくような感覚です。
今、心にあるのは穏やかな幸せ。
ワクワクと飛び跳ねるような情熱よりも、もっとずっと深い、心の奥底から静かに湧き上がる歓びです。
それは、まるで
小さな水源。
美しい水が、絶え間なく湧き出ているような感じです。
水は、千変万化しながら世界を満たしていきます。
それは、宇宙の「愛」というエネルギーが、目に見える形に変わったもののようにも見えます。
源にある愛のエネルギーは、ワタシたちが思っているよりも
ずっと微細で、繊細なもの。
そんな場所から地球に生まれ落ち、さまざまな体験をし、感情を味わい尽くし、幾多の苦難を乗り越えた先にある幸せを見つける旅。
誰もが、自分の物語の主人公として生きている世界。
ようやくその幸せの境地にたどり着いた今、感じるのは、源にとても近い場所にある「静寂」です。
「還りたい、還りたい、還りたい。」
心の奥底でずっと願い、
探し求めていた場所に、
ようやく戻ってこられたような安心感。
「もう、幸せにしかなれない」
そんな今を生きています。
ありがたい。
ありがたい。
ありがたい。
あとがきにかえて
これは、ある日のブログに投稿した文章です。
転載することで、あとがきにかえさせていただきます。
祝福しかない人生 〜京都への旅〜
今日からまた京都です。
ようやくイベントが終わったと安堵して、書くことを楽しんでいました。
しかし、また不測の事態が起こりました。
人生とは、本当に予想のつかないものです。
目の前にある現実は、決して喜べるようなものではありません。
大切な家族が大変な病状になっているのですから。
それでも、この状況の中にさえ、喜びを見出せることがあります。
親子三世代で何度も京都を旅できたこと。
それは、とても幸せな思い出になっています。
そして明日からの旅も、きっと幸せな思い出のひとつになるはずです。
最近、気づいたことがあります。
それは、言葉や思考は、
祝福にもなるし、
呪いにもなる、
ということです。
「潜在意識には主語がない」と聞きます。
もし本当にそうなら、
自分に向ける言葉も、
誰かに向ける言葉も、
祝福になったり、呪いになったりするのでしょう。
しかも、自分でも気づいていない潜在意識の中の言葉さえ、
現実に反映しているのかもしれません。
このことに気づいたとき、
ワタシは決めました。
もう、祝福する言葉だけを選んで生きよう、と。
どんなに悲しい現実や、
つらい現実が目の前にあったとしても、
その中から喜びを探す。
そして、
優しく前向きな言葉を、
自分自身にも、
目の前にいる人にも、
かけ続ける。
そう決めたのです。
ここにたどり着くまでには、
たくさんの困難がありました。
涙を流さずにはいられない出来事もありました。
けれど、
その苦しみをくぐり抜けた先で、
ようやく見える景色がありました。
これはきっと、
もう幸せにしかなれない境地なのだと思います。
なぜなら、
祝福することしかできないのですから。
ありがたい。
ありがたい。
ありがたい。
きのうち まみ
終わり。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ありがたい
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『毒親の正体』を書き終えたあとに生まれました。
世界中の人々に読まれたいという願いを込めながら、高次元から降りてきたイメージを文字に紡いだ渾身の作です。
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